Shake キッチンの向こうのリビングから、テレビの声が聞こえてくる。番組はどうやらお昼のワイドショーのようで、明るいナレーションにポップな効果音やスタジオの笑い声が度々混じる。
葵はなんとなしにそれを聞きながら、プラスチック製のマグカップ二つにそれぞれインスタントのココアを注ぐ。白い湯気を立てるそれを持ってリビングに行けば、薊がソファに座ってテレビを見ていた。
テレビの音声の後ろで、ぱらぱらと雨粒が窓ガラスを叩いている。空模様は重たいけれど、葵は雨が嫌いではなかった。
子供の頃から、昼間に雨が降っているのを部屋の中から見ると、何故だか心が小さく弾んだ。外は単調な雨音が止まないのに、どうしてか雨の日は静かだ、と思ってしまう。その静かならざる静寂から一枚隔てた部屋の中で、何をするでもなく普段通りの生活をする。
そしてたまに、雨を窓ガラス越しに見るだけで言い様のない特別感を覚えるのだ。理由は葵自身にも分からないけれど。
葵が薊の待つソファに近付けば、薊はテレビから視線を逸らし、葵を見て柔らかく笑った。
薊は最初から空いていた二人掛けソファの右側をぽんぽんと叩く。それに従い腰を下ろし、薊の前にカップを置く。薊はじっとマグカップを見つめているけれど、手を伸ばす事はない。薊は熱さが分からない分、カップに長時間触れ続けてしまう可能性があった。
「熱いから気を付けてね」
「うん。ありがとう」
薊はマグカップを見つめながら、適温になるのを待っているようだった。
暫くすると隣で、薊がそっとマグカップを持ち上げた。ココアをちびりと飲む。どうやら口に合ったようで、表情をふんわりと和らげている。
葵はそんな様子の薊に微笑を漏らし、薊からテレビへと視線を移す。テレビには先程からずっとお昼のワイドショーが流れていて、今はどうやら街行くカップルに街頭インタビューをしている様子が映し出されていた。
インタビュー内容は恋人の好きなところ、という何ともありきたりなものだった。
「薊、薊は俺の好きなところってある?」
葵がそう訊くと薊は目をぱちくりと瞬かせた後、にっこりと笑った。
「勿論! 葵くんの好きなところなんて数えきれないくらいあるのよ」
両手でココアを持ったまま、少し自慢げに薊はそう言う。その様子がどこか子供っぽくて、葵は口許が自然と緩むのを感じた。
「例えば?」
葵が聞けば、薊はふふ、と笑って楽しそうに口を開く。
「明るいところ、誰にでも優しいところ、皆を笑顔にしてくれるところ、一緒にいると楽しいところ、頼りになるところ、がんばり屋さんなところ、私の知らない事を知ってるところ、何でも楽しめるところ、あと……」
一つ一つを愛おしむように薊は葵の『好きなところ』を口にする。それを聞く度に葵の胸には嬉しさとか誇らしさとか、そういった名前の付くものが次から次へと溢れ出てくる。けれど段々と照れくささが葵の中で大きくなってきて、思わず「ちょっと待って!」と遮ってしまった。
「まだまだ沢山あるのに」
楽しそうに葵の『好きなところ』を連ねていた薊だが、本当にそれが楽しくて仕方なかったようだ。中断されたせいで、少し不満げにムッとした表情を浮かべている。
「流石にちょっと恥ずかしくなっちゃって」
葵がそう言うと、薊はココアを一口飲んでカップをテーブルに置いた。空いた手が無造作に投げ出されている。
葵もカップをテーブルに置くと、薊の手に自分の手をそっと重ねた。反応はない。そりゃあそうだ。薊の身体の中で、一番感覚がないのが手なのだから。
葵はそのまま絡ませた指を曲げて、そっと薊の手を握る。薊はそれだけでは何をされているのか分からないから、それだけで握り返される事はない。
だけれど、そっと落とした葵の視線に気付いてくれる。そしてちょっと照れたように笑って、ぎゅっと葵の手を握り返してくれるのだ。先程のムッとした表情は引っ込めて、頬を薄赤く染めながら。
薊は力加減が苦手だから、いつも葵の手を少し強めの力で握ってくる。
付き合い初めの頃、手を繋ぐのが怖いと言っていた薊を思い出す。手を強く握ってしまって、痛い思いをさせるのが嫌なのだと申しなさそうな笑顔を浮かべていた薊。
けれど自分の手はそんなに柔じゃない、と言って薊の手を取り、握り返してくれと言った瞬間の顔は今でもありありと思い返す事が出来る。驚いて、戸惑って。けれど勇気を出して握ってくれたあの感触。確かに少し強いくらいの力だったけれど、手が痛くなる程ではなかった。
そんな事を思い出して、葵は今の自分が少し誇らしくなった。最初は怖がっていた薊だが、葵を信じてくれた。そして、その信頼は葵が勝ち取ったものだ。
だから、やはりこれは小さな葵の自慢だ。
そんな風に思っていると、薊が葵の名前を呼んだ。そして少し身を乗り出して、小さく言った。
「ねぇ、後一つだけ言ってもいい?」
二人きりのリビングで、まるで内緒話をするように薊が葵の耳元に口を近付ける。心臓が少しだけ高鳴り、話しやすいように耳を寄せる。薊のくすりという小さな笑い声が鼓膜を擽った。
「こうして、手を繋いでくれるところも大好き」