テーブルの上に中途半端に、中身の残ったグラスが集まりだした。
食べ散らかされた食べ物の、油っぽいにおい。
話し声は大きいのに散漫で、内容がひとつも頭に届かない。いつしか帰ってしまったひともいれば、早々に酔い潰れたひともいる。それを踏まないように、爪先立って、部屋の隅へと歩いた。
「編集長、大丈夫ですか?」
「あ、佐藤くん」
酔ったひと特有の緩慢な動きと赤い目で、編集長はこちらを見上げた。
「お水、飲みますか?」
「ありがとう」
受け取ったグラスを半分ほど一気に飲み干すと、立てた片膝に上半身を預け、編集長は動かなくなってしまった。
所在なく、となりに並ぶ。
清潔感のあるやわらかそうな髪。触ってみたいなと漫然と思いながら、その真ん中にあるつむじを眺めた。
ふわふわとしているけど、頼りないわけではない。目端の効くひとで、いつもなら場をまとめていただろう。
酒癖がいいわけではないけど、このひとがこんなに酔うのはめずらしい。
理由はわかってる。
一年間以上かけて手掛けた本の出版が、危ぶまれているから。
きっと大丈夫ですよ、だなんて、薄っぺらい言葉、誰も掛けられずにいた。
とてもいい本だったのに。
「利恩さん……」
そっと手を伸ばす。
触れる直前に編集長はぱっと顔を上げた。
「あー……ごめん、一瞬、寝てた……」
「今日はもう帰って休んだ方がいいですよ」
行き場のない手を握り、下ろす。緩慢な視線がそれを追う。じわりと手のひらに汗が滲んだ。
うーん、と編集長は唸り、
「ひとりで寝たくないなあ」
ぽつり、呟いた。
「一緒に寝ようよ」
テーブルの下で指が絡む。
加減を測るように、手繰るように、話しかけるように。
だから、握り返した。
「酔ってるんですね」
自分でも意外なくらい、穏やかでやさしい声が出た。
じわりと編集長の目が大きくなる。
そのかすかなゆらぎに、僕の軸もゆらいでしまう。
うん、と少年のように頷くと、
「佐藤くんも、ね?」
アルコールを含んだ息が頬を撫ぜる。
距離が近い。
もともと距離の近いひとだけれど、こんなふうに体温を感じる近さは珍しい。
黙って見つめていると、ふ、と解けるように笑った。
「酔っ払いは帰るとしますか」
軽い口調とはうらはらに、強く手を引かれ、僕らは店を出た。
月よりも遠くに来た気分だ。
ここ数ヶ月の忙しさを表すように散らかった部屋に立ち尽くしていると、背後から抱き締められた。
「こわい?」
「いえ……」
緊張と後悔で胃が冷えていく。でもそこに、期待がないと、なぜ言い切れるだろう。
渇いた感触が額に触れ、まぶたをかすめ、くちびるを覆った。吸い付くように、それはぴたりとあった。心地よさに息がもれる。
ああ、これはよくない。とてもよろしくない。
いつの間にか後頭部に回り頭皮をくすぐる指も、鼻孔から侵入するほろ苦い体臭も、逃げても逃げても追いかけてくる舌先も、僕の思考を掻き乱すには十分すぎるものだった。
するりと離れたくちびるを追いかけた舌が、外気に冷える。羞恥が頬を染め、黙ってうつむく。
僕の顔を覗き込むと、彼は目を細めた。
「かわいいなあ」
どこか陶然とした声で言われ、ざわりと肌の下がざわめく。
「やっぱり……」
「ん?」
「すごく酔ってるでしょ」
からかうつもりが、少し声が震えた。
「うん、そういうことにしておこうか」
今日は、と笑いながら、じゃれ合うようにベッドに倒れ込んだ。