空が青さを増し、蝉の声が鼓膜を揺らす。
見上げた木の葉の隙間できらきらと何かが光った気がした。目を凝らすと貧血でも起きたかのように、視界が狭まり、足元がふらついた。
「そんなにぼうっとしてたら、さらわれるっすよ」
不意に落ちた声に、夢から覚めたように、振り返る。
「えっ、あっ、フェン…じゃなくて、ナル……いや、おにいさん?」
「フェンちゃんでいいっすよ」
人差し指と中指を親指にくっつけ、それに喋らせるかのように、ちょんちょんと動かしながらフェンリルは言った。
無表情と軽薄な動作はふしぎと馴染んだものだけれど、どこまでがほんとうで、どこからが演技が分からなくて、困ってしまう。
「あ、そうそう、忘れる前に、これどうぞっす」
うやうやしく差し出されたのは、ひと目で高級と分かる菓子折りだった。
「えっ! いいんですか!?」
「まあ、お詫びっすから、遠慮なく食べてください」
「おわび?」
首を傾げるが、フェンリルは軽く首肯しただけだった。
「えと……」
真っ黒な硝子球のような瞳が、真っ直ぐにこちらを見据える。まばたきもしない。立ち去る様子もない。
今、食べたほうがいいのだろうか。
木の根元にしゃがみ込むと、ならうように彼もしゃがみこんだ。思い切って包みを開ける。
「いただきます」
「どうぞどうぞ」
ひとつ手に取り、口にする。
うっとりとするような、バターと砂糖の香り。さくりと歯を立てた。おいしい。食べている途中に、もうひとつ、と堪らず手が伸びてしまいそうなおいしさだ。
しかし、咀嚼している間もずっと向けられる視線に、うまく飲み込めない。砂糖がまるで砂利のようだ。
「君は警戒心がないと言われたことは?」
ゆったりと、気怠げに、そのひとは言った。
輪郭がぼやけ、影が濃くなるような、錯覚。
ぞわりと背筋を這い上がるものを、口の中の菓子と一緒に飲み込む。
恐れは生き抜く上で必要だ。けれど、今は違う。
「僕も鼻が効くんです。食べ物に関しては、きっと、あなたより」
ぺろりとくちびるを舐める。
甘い。喉が焼けるほどに。
蝉の声が、大きくなった気がした。
うわん、うわん、と反響する。
すん、と鼻を鳴らすと、彼は空を仰いだ。
「さて、番犬に見つかる前に退散するっす」
長い脚を気怠げに伸ばし、立ち上がる。長く濃く伸びる影。
「先生に……会わないんですか?」
「うーん、そうっすねー」
手足をだらりと揺らし、頭をもたげる。本能を滲ませた獣じみた仕草。
さらりと肩を滑り落ちた髪が、視界を覆った。
つやつやと真っ黒な、髪の毛。まるで帳みたいだ。
「もう少しだけ、秘密にしようか」
ふたりだけの、と低い声が耳朶を打つ。
くらりと世界が回った。
呼吸半分、まばたきもできない間だった。
音も、熱も、気配も残さず、そのひとは消えていた。
あとはただ、命を削るように、蝉が鳴いていた。