おいでぷすケエコオと農場の鶏が鳴き、いつも通りの朝がやってきた。昨晩アイロンをかけ直したばかりのかっちりと整った制服を纏い、出勤準備を整えた徳州はスケジュール帳を確認しながら今剥いたばかりの朝食のりんごを齧っていた。時計は6時15分43秒を指している。蒸気の上がった卓上ケトルを手に取り、紅茶のティーパックが入ったマグカップに湯を注いだ。
茶葉の形も見えやしない、湯の温度もおおよそにしか分からず、茶器は若からいただいたニワトリ柄のマグカップ。何もかもが「なっていない」とたまに龍井居士に見つかっていやに品よく非難されることもあったが、徳州にとっては濃いめに淹れた熱いお茶の苦味と心地よい喉への刺激で目覚ましになれば充分だった。
龍井居士の、徳州には正直よく理解できない芸術的な小言を思い出しながら後々起きてくるだろう弟のりんごを剥いていると、この時間にはありえない声がした。
「徳州、おはよう」
時計は6時16分12秒。珍しいこともあるものだ。声の主の寝癖だらけの金髪が窓から差し込む朝日を受けて麦畑のようにきらきらと郷愁的な輝きを放っている。
「符?お前がこんな時間に起きるなんて」
徳州が果物ナイフを置き、驚きながら微笑で返事をすると、符は幸福に満たされきったようなはにかみを見せた。
「どうしたんだ、いいことでもあったの」
「なあ、徳州」
徳州の質問に対し食い気味に符は口を開いた。
「できたんだ」
「出来たって、なにが」
わかるだろ。そう言うと符は寝巻きの裾を捲りあげ、はちきれそうなほど膨らみ、血管がいく筋も張り巡らされ縦筋の入った腹を見せつけた。
「できたんだよ、兄貴の」
符はこの上なく幸せそうに自らの腹を撫でた。こんなにも素直に喜びに溢れている彼を見るのは珍しい。
「兄貴?」
符が幸福に瞼を細めながら強烈なその赤い二つの光で徳州を見つめた。なに固まってんだよ。あ、わかった。ビビったんだろ。彼は軽く笑うと兄の両手を掴み、膨らんだ自らの腹にそっと当てさせた。
とん。
符の腹の内側から微かな衝撃を感じた。「蹴った」というやつだろうか。
「な?こいつ、兄貴と俺の────」
ずぷり。
その腹に、徳州は果物ナイフを突き刺した。
ぐぢぢぢぢぢ。
縦筋をなぞるように、正確に、0.1ミリメートルもずれないように。
符の腹が正円の直径を示すように縦に裂け、大量の血と羊水と、名称も分からない液体が勢いよく飛び出し、散った。符はぽかんと無垢な眼差しで徳州を見つめたまま、下腹を開いて無言で突っ立っている。
ことん。
符に詰まっていた体液の海の中に、胎児が落ちた。胎児ではない、卵だ。ぬらぬらと血で汚れた透明な膜に覆われて、床に落とされた衝撃で罅の入ったそれがひとりでに揺れてにちゃにちゃとグロテスクな音を立てる。
徳州は「胎児」にゆっくりと近づいた。
かりかり、ぱきっ。
卵に開いた小さな穴から、徳州のよく知る真っ赤な瞳が覗いている。
怯えるような、責めるような、それでいて徳州に縋り、期待し、愛を乞う眼差し。徳州のよく知る彼の瞳。
卵の中身が産声をあげる前に、徳州は卵を踏み潰した。
「どうして」
これまでの行為を黙って見ていた符が唐突に口を開いた。
「どうして俺を拒むんだよ」
その声に、徳州は我に返った。自分はなんてことをした、符を───弟を犯し、孕ませ、その愛の成れの果てを殺した。
「符……」
謝罪の言葉を並べようとしたが、単語がばらばらに頭の中で飛び散ってうまくいかない。今すべきことは謝罪ではないからなのかもしれない。謝って許されるのならこの世に警察も、仏も神も精霊も不要なのだ。謝罪どころか、自らの命を以てしても償えぬ罪がこの世にはある。
「徳州、どうして」
「どうしてオレをそんな目で見るんだ」
上手に構築されなかった償いの言葉は刃物となり、極めて強い攻撃性をもって徳州を貫いた。
ごめんなさい、符。
徳州は自らの両目にナイフを突き刺した。
「!!」
飛び起きると、全身が汗びっしょりで冷えきっていた。心臓が壊れそうなほどばくばくと暴れて、震える指先をしっかりと握りしめ左胸に当てて徳州はうずくまった。
まだ夜は明けていない、寝ついてから30分ほどしか経っていないようだ。
「……おはよ」
ぶっきらぼうな声がすぐ側から聞こえてきた。
「……あ……符?起こしてしまったか、すまない」
「ああ……ちぇ、夢……いいとこだったのに……」
「いいとこ?」
符は下品なジェスチャーをした。軽くその指を叩いて窘めると、へへへと笑いながら身体を半分起こした徳州の腰に抱きついた。
「夢の続きをさ、これからするってのは?」
符はいたずらっぽく言いながら徳州の腿を意味ありげに指先でなぞった。
「……今は気分じゃない」
徳州は弟を振り切るようにベッドから降り、流しに向かい水を飲んだ。冷たく清らかなのどごしが心地よく、深呼吸をすると吐き出した息とともに先程の悪夢の余韻も抜けていくような気がした。
「どんな夢見たわけ?」
同じく起き上がってきたらしい符は懲りずに徳州の腰に抱きつき、コップを奪い取って残っていた水を飲み干した。別に兄の夢の内容に関心があるわけではないのだろう、適当な理由をつけて半端に昂った自らの性欲を発散しようとあの手この手で兄を誘おうとしているだけだ。
徳州は蛇口をひねり、手を洗う。脂にでもまみれたように落ちない手汗の感覚をどうにかしたかった。
「とくしゅ〜……」
「いいから。もう寝よう」
徳州が振りほどこうとするが、夢うつつの弟はしつこく絡みついたまま離れない。
「符、悪いけどオレは気分じゃないから。どうしても……気になるのなら一人で処理しなさい」
徳州はタオルで手をがしがし拭き、なんとか弟を振りほどくとそそくさとベッドに戻り、今にも落ちそうな端っこに身体を収めて頭まで布団を被った。
「どうして俺を拒むんだよ」
「!!」
聞き覚えのある言葉に、徳州の心臓が再び万力に挟まれたようにぎちぎちと締め付けられる。
「昨日のこと、お前は嫌な思い出なわけ?」
「符、それは……違う、ちがうよ、嫌とかではなくて、それは」
「俺は嬉しかったのに。お前は初めて会った時からそうだ、俺を無理矢理汽車に乗せて上京させた時から。俺が話しかけても無視して、贈り物をしても素っ気なくて。いつだって俺に……まるで、壁を作ってる。でも、昨日は……昨日のお前は初めて、壁もなくて、温かくて……そう俺に接してくれた。だから嬉しかったんだ」
でも、それは俺のバカな勘違いだったってわけだ。お前は相変わらず冷たいし、俺を弟と呼んで束縛しながら、こうして突っぱねる。お前は何も変わってない。はぁ、アホくせえ。一人で浮かれて喜んで、夢にまで優しい兄貴を見たんだ。ほんと、くだらねえし、何もかもがクソったれだ。
符は捲し立てると徳州の眠るベッドを避けてソファに寝転がった。彼は兄の傷つけ方をよく知っていて、上手だ。そしてその諸刃の剣で自らをも傷つけている。
「……符、お前は誤解してる。オレはそういうつもりで断ったんじゃない。ただ、良くない夢を見た、本当に良くない夢を。それだけだ」
「俺を殺したとか?ははっ!吉夢じゃねえか!」
「符!!」
徳州は起き上がり、符の横たわるソファの傍に腰を下ろした。背中を向けようとする符を無理矢理兄に向き直させ、あたかも説教をする時のようにその両頬をしっかり掴み目を合わせる。
あの目だ。
なぜ怒るの。
俺だって努力してるのに。
なぜ無視するの。
お前に近づきたいのに。
なぜ殴るの。
本音を言っただけなのに。
なぜ犯すの。
俺たち兄弟なのに。
なぜ殺すの。
俺を弟と呼んでくれたのに。
お前は俺のことなんか─────
「…………」
「……なんだよ、お得意の説教は?」
急に深刻な顔で黙り込んだ徳州に不安になったのか、はたまた苛立ったのか、今度は符が徳州の頬を両手で力強く挟み引き寄せた。驚いた徳州が視線をゆらゆらさせたかと思うとさっと目を伏せてしまう。
「おい、俺を見ろよ!」
符が無理に向き直させると、徳州は見たこともないような顔をしていた。眉根を寄せて、なにかを堪えるように力の入った下瞼をぴくぴくと痙攣させて、薄情そうな唇を噛み締めてばつがわるそうに、申し訳なさそうに符を見上げている。符は思わず笑い出した。
「なんでそんな顔すんだよ。叩かれた犬みたいな顔してんぜ!待て、その間抜け面……写真撮ってやるから動くなよ。誤爆のふりして全体グループに送信してやる」
「……符」
爆竹が弾けるように思い浮かぶ嫌がらせたちに水を浴びせるような静かな声が符を絡め取った。
「符、ごめん……オレたち、兄弟なのに」
「………やっぱりそれかよ」
「兄弟なのに、オレはお前に興奮して、犯して、あまつさえできた子供を踏み潰した」
「子供?」
「責められて当然なんだ。オレは、兄として……心を持つ魂として、最低の行いをしたから」
「おい、俺を置いてくなって。何の話だよ」
「それなのに、お前の目が、オレは恐ろしくて───」
「徳州!夢から覚めろ!!」
「ごめん……符……」
弟に叩かれてずきずき痛む頬に氷水を当てながら徳州がぼそぼそとまた布団の中でうずくまっている。
「しつこい。うぜえ」
符は落ち込んで丸まっている兄に腕枕をしてやりながら考えていた。昨晩のことがあってから徳州はやけによそよそしく、日中はわざとあれこれと仕事を詰め込んで符と会わないようにしていたのだろう。弟を性的対象とした事実は符が考えていた以上に徳州に罪悪感を与え、本気で苦しめているようだ。頭でっかちなところがある兄らしい悩みだ。どうすれば弟とセックスをした徳州を徳州自身が許すことが出来るのだろう。
「はぁ、なんつーか……そういう難しいことはさ、時間が経てば赦してくれるさ」
「……うん」
「待つから、俺。お前の不能が治るまで」
「こら、符。そういうことでは」
「こら、じゃねえよ。あんなイイこと教えられたってのに、速攻でお預け食らうこっちの身にもなれよ」
「…………」
徳州がふふっと小さく笑った。兄が布団からようやく顔を出してくれたのを逃さず符は抱きしめて頬にキスをした。
あにき、すき。だいすき。
もちろん口には出せなかったが、体温で伝わるのかもしれない。兄の呼吸が穏やかで規則正しくなったことがわかると、符はもう一度徳州の額にキスをした。