昔のことは何も知らない夕暮れって俺は苦手だ。
真っ赤な太陽が発する最後の光が消えていくのを見ながら、ぽつりと弟が言う。理由を訊くと、夜が来る前触れだからと言った。その言葉に俺はそうだな、とだけ答えて考えを巡らせる。
弟は昔のことを何も知らない。
夜に鬼となった母親に襲われたことも、その後に夜な夜な鬼を狩る日々を送ったことも。
それでも昔から夕方になると辺りが暗くなるのを人一倍怖がった。その性格は、身長180を越えた高校生になっても直らない。
「兄ちゃんは怖くなさそうだよね」と弟は言う。本当は俺だって最初は怖かったのだ。でも、鬼になった母親から家族を守ろうと必死だった。
鬼狩りとなれば、夜目で足りない分は五感を研ぎ澄まして鬼の居場所を探った。怖いという感覚は鬼との先の見えない戦いのなかで忘れていった。それだけのことだ。
「怖いって言ってられねえぐらいに、いろいろあったからなァ」
何?また前世の話?と弟が屈託のない笑顔でこちらを見る。よく知らないけど、前世では兄ちゃんは苦労したんだよね、という口調はいかにも他人事だ。
弟は昔のことを何も知らない。
今でも夜を怖がってるように見えないけど、と続ける弟の手を取る。もうすっかり大人らしく骨ばった手は温かい。
「怖いなら、手を繋いで帰ってやろうか?」
もう17歳になった弟の頬が、安心したというように緩む。
空はみるみる暗くなっていくけれど、手を繋いでいれば弟が怖がることはない。
一番星と三日月のきれいな空の下を2人で並んで歩く。
弟は昔のことを何も知らない。
でも、俺はそれでいいと思う。