そして、これから #05「ここにサイン?」
はい、と頷く後見人氏と視線を交わし、書類の末尾に自分の名前を書き入れる。内容には最初から最後まで目を通し、問題ないことを確認済みだ。何年も前のあの日に教わったことは、今でもしっかり身についている。
「確かに。お預かりします」
書類――同意書をファイルに入れ、後見人氏は満足そうに頷いた。
それは家の売却に関する書類で、オレはたった今、ようやくあの大きな家を手放すことができた。手放すと言っても、もう何年もまともに帰っていないし、自分の家だという感覚も感慨もほとんどない。せいせいした、と言うのは違うけれど、重荷がなくなったような、すっきりしたような、ほっとした気持ちになっているのは確かだ。
「今月末までは自由に出入りしていただいて構いません。お忘れ物などのないように」
大学に入るときにアパートを借り、そのときに大半の荷物は運び出した。荷物と言っても本と写真立てくらいだったけれど。ああ、でも、そうだ。
「ハウスキーパーさんってまだいます?」
オレが幼い頃から家に務めていた女性のことを思い出す。未だ名前すら知らない彼女にお礼とお別れは言いたい。
後見人氏は一瞬の間のあと、
「……ええ、いらっしゃいますよ」
オレの先輩と似た顔で穏やかに微笑んだ。
なんだろう、まあいいか。それより時間がない。壁に掛けられた時計を見ると、開始時間まであと一時間を切っている。
「押してるんで、面談始めてもらってもいいですか?」
「ああ、そうでしたね。すみません、大切なときに」
無理を言ってここまで来させてしまったのはオレだ。いいえ、と首を振り、まずはここ一年の報告から始めた。
大学を卒業したのはついこの間の五月。成績はまずまずだが、入学時も在学時も留年せず、つつがなく卒業できたのは僥倖だ。何せオレには時間がない。卒業式は来月だけど、出席できるかは当日の予定次第だ。昨年卒業した真面目な先輩――リョウタは出席したらしく、節目ですから出た方がいいですよ、と有り難い助言をくれた。
「そうですね、できれば出席された方が良いかと」
後見人氏はやはりリョウタと似た笑みを浮かべる。
「空に向かって帽子投げたり?」
「ええ。卒業証書を手に持って、学校の正門に立っていただいたり」
確かにそんな写真をリョウタに見せてもらったことがある。黒いマントと帽子と卒業証書。誇らしげな笑み。お決まりな感じだけど、リョウタには似合っていた。オレに似合うかなあ、と苦笑いを浮かべつつ、次の報告へ。
チャンピオンカップへの挑戦は昨年の冬で四度目。四度目にしてようやく決勝トーナメントまで辿り着くことができた。試験や卒論の準備を進めながらジムチャレンジに挑戦するのは正直しんどかったし、何より、
「ジュラルドンが全然言うことを聞かなくてですね」
視線を落とした先、今も腰に着けたボールの中から言いようのない威圧感を放っている。
「誰に似たんですか、こいつ」
「おや、私に言わせるんですか?」
「言わせたいですね、是非とも」
口の端を上げて見せると、やれやれ、と肩をすくめ、
「会長ですよ。あの方からお預かりしたものですから」
ですよね。わかりきっていたけどどうしても聞きたかった。
後見人氏からジュラルドンを渡されたのは昨年の夏、四度目の挑戦の直前。「会長からです」と渡されたハイパーボールには、敵意なのか警戒なのか判別がつかない気配を漂わせる白銀のポケモンが入っていた。
――扱えそうなら渡してやりなさい。
生前、そう言って後見人氏に預けていたという。
三度目の挑戦でジムバッジを七つ集め、四度目こそは八つ全て集めてトーナメントへ、と息巻いていたオレは少なからず高揚した。ボール越しでもわかった。こいつは相当強い。そのうちワイルドエリアの奥まで行って自分の手で捕まえてみたいと思ってはいたけれど、こんなに早く出会えるとは夢にも思わない。
お祖母さまがどこまでオレの進路や将来を見越していたかを想像すると空恐ろしいが、俺の手の中にはジュラルドンがいて、彼はとても強く、とても難しい性格をしていた。
まず言うことを聞かない。キャンプをしてもオレの方に寄ってこない。他のポケモンたちとは何か会話や意思疎通を図っているようだが、オレが声を掛けても金色の目で一瞥するだけでとりつく島がない。野生のポケモンだってもう少しわかりやすい挙動をすると思う。彼が纏うのは拒絶や嫌悪に似ていて、ボールから出す度にオレはお祖母さまの視線や声を思い出し、少なからず心にダメージを負った。
四度目のジムチャレンジでも何度かバトルに出してはみたが、指示とは違う行動をするし、勝手にボールに戻るし、最終戦で勝手に出てきたと思ったらはかいこうせんで相手を一掃して、結局彼が八つ目のバッジを獲ったといっても過言ではない。扱うどころではなく、振り回されてばかりだ。
「扱いきれないのであれば、ナックルジムに預けますか?」
尋ねてくる後見人氏に歯を見せて笑う。
「まさか」
亡くなった後もオレの人生に介入してくるお祖母さまの過保護には、呆れるやら恐ろしいやら笑ってしまうやら。でもこれを乗り越えないとオレはオレの道を歩めない。
試すなら試すがいいさ。オレがしくじったり膝をついたりしたら、空の向こうでお祖母さまは笑うのだろう。そらみたことか、と。出来損ないのまま、私の言うとおりに生きていれば良かったのに、と。そして笑いながら悲しそうな目で寂しそうに言うのだろう。
――どうして辛い道を選ぶの。
と。
オレだって好きで選んでるわけじゃない。誰だって楽に生きたい。何も考えず、笑って楽しく生きていられたら、それは――それも多分、幸福なのだろう。
でもオレは諦めたくない。諦められない。オレを動かすのはただそれだけの熱だ。オレはオレの歩む道を諦めない。歩む先にいる、きっといるだろうあの人を諦めない。
軽く閉じた目の奥、あの人の炎を思い浮かべていると、控え室のドアがノックされた。
「キバナさま、そろそろ時間です」
ドアの向こうからリョウタの声がする。了解の返事をし、椅子から立ち上がると、後見人氏も傍らに置いたバッグを持って立ち上がった。
「私もこれで。もうお会いすることはないかと思いますが」
折り目正しい歩き方でオレの前に立ち、手を差し出してくる。
「リョウタの家に行けば会えるでしょ?」
差し出された手を握ると、力強く握り返された。
「家にはあまり帰らないので」
ふ、と細められた目はリョウタとそっくりで、オレはそれ以上何も聞けなかった。
「そうだ、最後に一つお聞きしたいことが」
握手を解いた後、後見人氏は思い出したように手を打った。
「どうしてナックラーだったんです?」
お祖母さまの葬儀の後、後見人氏に声を掛けられ、逃げたオレは自分のポケモンを捕まえるためにワイルドエリアに飛び込んだ。もう何年も前のことだ。
何も成せないままのオレでいるのが嫌だった。せめて一つでも自分の力で成したかった。だから砂嵐の中で手を伸ばした。最初に捕まえるのはお前だと決めていたから。どうしてもお前が良かったから。オレが一つだけ何かを成すとしたら、それは。
「『勝ち虫』って知ってます?」
聞き慣れない言葉に首を傾げる後見人氏にオレは言う。
「むかーし昔、遠い国のサムライが勝利のシンボルにしてた虫のことなんですけど」
少しでもあの人のことが知りたくて図書館で必死に調べた。あの人に関わるあらゆることを。
「あと昔のサムライって偉くなると名前が変わっていったらしくて」
ふむ、と後見人氏は顎に手を当て、
「つまり?」
「あー、まあその、『験担ぎ』です」
小さい頃から調べに調べたあの人のこと。あの人が生まれ育った地方のこと。それが講じて大学の専攻は文化人類学になり、卒業論文の主旨が「ホウエン地方のサムライとガラル地方の騎士の類似と相違について」になったのは余談だ。
結局のところ、オレはあの人に繋がる何かが欲しくて、自分が強くなれる希望を得たくて、そのために縋れるものを手に入れたかった。あの人が生まれた国で勝ち虫と呼ばれている蜻蛉、蜻蛉になるまでに姿や名前を変え、成長していく小さなポケモン。オレもそうなりたい。そうなれればいい。希望を信じて願って起こす行為や行動を、あの人の生まれた地方では験を担ぐ、と言う。オレがナックラーを捕まえたい、フライゴンになるまで育てたい、と思ったのはまさにその験担ぎだった。
こじつけだと笑うなら笑え。オレは大真面目だったし、今でも大真面目にそれを信じてるし、現に今、あの日捕まえたナックラーはフライゴンに進化してオレの傍らにいる。大切な勝ち虫だ。
「理解しきれない部分はありますが、あなたの顔を見るに、それは良いことなのでしょう」
そんな優しい目で見られると逆に恥ずかしい。リョウタにも言ったことないのに。じわりと熱くなる頬に気づかないふりをして、出入り口のドアへと向かう。
ドアを開けると通路の先から地響きのような歓声と足を踏みならす音が聞こえてきた。今日の主役の紹介が始まったのだろう。観客の入りは上々。十年以上ナックルのジムリーダーの座を守ってきたベテランドラゴン使いが、若手ドラゴン使いに喉元を狙われている。盛り上がらないなんて嘘だ。
「今日のお相手はあなたの遠いご親戚に当たる方ですよ」
オレの後に続いて控え室から出てきた後見人氏が言う。
「ナックルジムは代々竜の騎士の家系が継いでいます。ご存じありませんでしたか?」
ありませんでしたが? リョウタはそんなこと一言も言ってなかった。
ドアの横に控えていたリョウタに目を向けると、素知らぬ顔でそっぽを向かれた。こいつ、知ってて黙ってたな。
「あなたが彼に挑戦するのは偶然なのか必然なのか。結果が楽しみですね」
「キバナさまは勝ちます」
遮るようにそっぽを向いたままのリョウタが口を挟む。後見人氏は小さく笑い、綺麗な仕草で頭を下げると関係者通路へと歩いて行った。
「偶然ですし、必然です」
スーツ姿の背中を横目で見送りながら、リョウタがぼそりと呟いた。
「あなたは自分で選んでここに来た。オレはそれを知っています」
頭一つ分低い位置にある目が、オレを見上げてくる。
「勝ってください」
眼鏡の奥、いつもは穏やかな視線がオレを射抜く。いいね、嫌いじゃない。なんかすげえ燃えてきた。
「勝つよ。ここで負けたらオレ無職になっちまうし」
「キバナさま!」
そうじゃないでしょ、と小言を言い始めるリョウタの肩を叩き、スタジアムへの通路を進む。
歓声は次第に大きくなっていく。全身の血が沸き立つのを感じる。
「勝つよ」
その言葉はオレに、リョウタに、そしてあの人に。
次にこの通路を歩くとき、オレはナックルジムリーダーだ。
(多分続く)