さよなら逃避行 電車は夜と雪の中を走る。ガラス窓にぶつかる雪がぱたぱたと音を立て、ぼくはひんやりとした感触に頭を預けながらぼんやりとそれを見つめている。四人掛けのボックス席。向かい側と通路を挟んだ横には誰もいない。この電車の乗客自体、きっと片手で数えられるくらいだろう。
たたん、たたん、と電車は規則正しく休まず走り続け、エンジンシティを出てからもう何時間経ったのか。途中、ブラッシータウン駅で数分の待ち合わせをして、そこからはどの駅にも停車していない。おそらく特急列車なのだろうけど、終点まであとどのくらいかかるのか、ぼくにはわからない。ぼくのすぐ隣でぼくの右手をしっかりと握ったまま寝息を立てているこの子に聞けばわかるだろうか。顔と目線を少しだけ下に向け、ぼくの肩にもたれている頭を見つめながら、自然と口元に笑みがこぼれた。
***
「カブさん、オレとカケオチしよう」
痛いほど強く握られた小さな手に引かれ、駅の改札をくぐったのは陽が落ちてすぐのことだ。
今日はいろいろと大変だった。試合の直前、突然控室に入ってきたスポンサーの人から叱咤激励を二十分ほどいただき、勝て、とにかく勝て、との指示通り、スタジアムへ向かう通路の途中で急遽わざの構成を変え、なり振り構わず「勝つ」ための作戦に切り替えた。試合では最後まで立っていた方が「勝ち」だ。頭ごなしに、とにかく勝て、勝てなかったら今後のことを考えなくてはいけなくなる、と怒鳴られたぼくは、何も考えずに、考えられずに、そうすることが最善なのだと思い込んでしまった。そうして、試合には「勝った」。観客席はブーイングの嵐で、罵声やら何やらを浴びながら控室に戻ってくると、今度は委員会の偉い人がぼくを待ち構えていた。あれはなんだ、君らしくもない。心配と困惑と怒りがごちゃまぜになった顔と声を向けられ、反射的に謝罪をすると、そうじゃないと悲しそうな顔で首を横に振られた。君をここに呼んだのはあんな試合を見るためじゃない。最近調子が悪いのは知っている。勝てなくなっていることも心配している。だがあれはいけない。あんな試合をしていたら観客に見捨てられる。君の居場所がなくなってしまう。叱咤激励は三十分近く続き、それは確かにぼくの将来やぼく自身を心配する言葉ではあった。試合前のスポンサーの人の言葉より、いくらかは。
ふらふらする頭と身体をシャワーで洗い流し、のろのろと着替え、裏口から外に出た途端、腰の辺りに鈍い衝撃が走った。小さな子に飛びつかれたと理解するのに少し時間がかかり、その子が泣いていることに気づいたのは、その子が顔を上げてからだった。
「キバナくん?」
よく知っている子だった。名前を呼ぶくらいには。
「どうしたんだい?」
仲の良い友だちだった。頭を撫でてあげるくらいには。
「なんでカブさんがあんなこと言われなきゃいけないんだよ」
大きな目から涙をあふれさせ、小さな友だちは震える声で言う。今日もぼくが送ったチケットで試合を見てくれたんだろう。ブーイングや罵声を聞かせてしまったことを申し訳なく思う。
「仕方ないよ」
ぼくが勝てないのが悪い。魅せる試合ができないのが悪い。ポケモンくんたちは十分がんばってくれている。それを十分引き出すことができていないぼくが悪い。
「次はもっとがんばるから。また応援してくれるかい?」
頬を伝う涙を拭い、精一杯の笑顔を浮かべてみせる。ぎゅう、とぼくの背に回した腕と手に力を込め、キバナくんは俯いてしまった。
「がんばらなくていい」
くぐもった声が言う。
「カブさんはカブさんのままでいい」
言いながら、しゃくり上げる。
「カブさん泣かないで」
泣いているのはキバナくんなのに、おかしなことを言う。ぼくは震える頭や肩をそっと撫でながら、うん、とだけ言った。視界がぼやけていたのは気のせいだと思う。
「カケオチしよう」
唐突に言われたのは、キバナくんが泣き止んですぐのことだった。
また昔の映画かドラマでも見たのかい?
茶化そうとした口は、見上げてくる真剣な眼差しに止められた。
「カブさんの居場所、オレが守ってあげる」
聞いていたのか。ブーイングや罵声だけじゃなく、全部。勝手に控室に入ったら駄目だよって何度も言ってるのに。
「カブさん、オレとカケオチしよう」
いつもなら迷わなかった。迷わず、やんわりとはぐらかし、断っていた。
何を言ってるんだい、大人をからかうものじゃないよ、今日は来てくれてありがとう、明日には元気になってるから心配しないで、またメールするね、駅まで送るからもう帰ろう。
そうやって、いつものように手を繋いで駅まで歩いて、改札の前で「またね」と手を振って別れていた。
でも、今日はいろいろと大変だった。だから迷ってしまった。
迷ってしまったんだ。
それが、答えだった。
***
「オレに任せて、電車の時間調べたから」
「切符もちゃんと買えるよ。大丈夫」
「急いで! あれが今日の終電みたい!」
「カブさん、オレがついてるよ」
「大丈夫、ずーっと一緒だからね」
ぼくはキバナくんと駆け落ちをした。
***
『終点、カンムリ雪原駅、カンムリ雪原駅です』
アナウンスを聞きながらキバナくんを起こし、ホームに降りると、猛烈な寒さと強風で一気に目が覚めた。キバナくんも同じだったようで、軽い悲鳴のような声を上げながら背筋がぴしりと伸びる。
ぼくたちの他に人影は見当たらない。手を繋ぎ、身を寄せ合うようにして改札をくぐると、駅員さんが駆け寄ってきた。
「お急ぎですか? フリーズ村へ行かれます?」
見下ろすぼくと見上げるキバナくんの視線が合い、
「はい」
頷いたのは二人同時だった。駅員さんはとても申し訳なさそうな表情を浮かべる。
「外は猛吹雪で出歩くのは危険です。駅員室をお貸ししますので、朝までそこで休んでください」
もう一度キバナくんと視線を合わせ、
「ありがとうございます、お言葉に甘えさせてください」
ぼくが頭を下げると、キバナくんも「ありがとうございます」と頭を下げた。
案内してもらった駅員室には小さなソファーとテーブル、懐かしい形のストーブが置いてあった。ストーブの上に置かれたヤカンからは湯気が上っている。
「トイレは廊下の突き当たりです。向かいの給湯室も自由に使ってください。冷えますが、寝る前にストーブは消してくださいね。消し方はわかりますか?」
毛布と湯たんぽを受け取りながら、ぼくは頷く。
「それでは私はこれで」
キバナくんと二人揃って頭を下げ、今夜は電車の中で寝るらしい駅員さんを見送った。
「カブさん、それなに?」
キバナくんが湯たんぽを指さしながら尋ねてくる。ストーブと同じく、ぼくには懐かしい形だけど、キバナくんは知らないみたいだ。
「湯たんぽ。一緒に作ろうか」
ソファーに毛布を置き、キバナくんに湯たんぽを持たせて、ぼくはヤカンを手に取る。
壁に掛かっている時計の針は、もうすぐてっぺんを回りそうだった。
***
自分の身震いで目を覚ます。見慣れない色の壁やカーテン、テーブルやストーブ、身体を包んでいる毛布に視線を巡らせ、寄りかかっている小さな重みと握られた手に、昨日駆け落ちしたことを思い出した。カーテンの隙間から漏れ零れる光に吹雪が止んだことを知る。
壁掛け時計の短針が指しているのは七の少し前。ぼくが起きるには少し遅い時間だけど、キバナくんはどうだろう。起こしても大丈夫だろうか。
「キバナくん」
そっと声だけかけてみる。反応はなく、寝息だけがわずかに聞こえてくる。
「キバナくん、朝だよ、起きて」
毛布の中で手をくすぐると、むずがるような声が聞こえ、開いた瞼から見慣れた青い色が煌めいた。
「おはよう」
「……はよ、ござ、ます」
寝ぼけているのだろう。青い目がゆらゆらと揺れ、瞼はまた閉じてしまいそうだ。
「駆け落ちはもう終わりかい?」
毛布の中に沈んでいく頭に頬を擦り寄せると、びくん、とわかりやすく身体が跳ねた。
「ま、まだ! これからだから!」
わたわたと毛布から抜け出し、
「顔洗ってくる!」
キバナくんは駅員室を出て給湯室へ飛び込んでいった。
つづきます。