青くてまぶしい「あ、あの! 手伝いましょうか……?」
幼いその声がぼくに向けられたものだと気づくのに少し時間がかかってしまった。ぱたぱたと足音を立てながらぼくの前に立ち、抱えている段ボール箱に隠れてしまいそうな背丈をぴょこぴょこと軽いジャンプで補いつつ、
「一個持ちます!」
きらきらした青い目の男の子は眩しいくらいの笑顔でそう言った。
ナックルスタジアムは古いお城を改造して使われている。スタジアム自体はさすがに大がかりな改築工事をしたみたいだけど、控室や事務所、リーグ委員会関連の書類や本を置いてある部屋は、昔むかしに王様や貴族、名のある偉い人が使っていたものだ。赤い絨毯が敷かれた廊下も昔のまま。ぼくは声をかけてくれた男の子に段ボール箱を一つ任せて、ゆっくりと絨毯の上を歩く。
「大丈夫?」
「はい!」
男の子は元気に返事をして、に、と白い歯を見せて笑う。つられて笑顔になり、ぼくはほっと息を吐いた。
段ボール箱の中身は本や書類だ。委員会の会議で使う部屋のリフォームをすることになり、みんなで手分けして少しずつ荷物を移動をさせている最中だった。ぼくが任された箱は大きくはないけれど中の紙が意外と重たくて、指定された部屋に向かう途中で腕が震えてしまって正直どうしようかと思っていた。
「君はトレーナーくんかい?」
男の子は大きなバッグを肩にかけている。スタジアム内で迷子になっている様子もない。並んで歩きながら尋ねると、
「はい! この間二つ目のバッジをもらいました!」
それはすごい。見たところまだ十歳くらいなのに。将来有望だ。
「今日はここでベンキョーカイがあって、いっぱいベンキョーしてきました」
わざのこととか、トクセイとか、セイソクチとか、と、まだ彼にはちょっと難しいだろう言葉を楽しそうに話す。
まぶしいなあ。
目を細め、うんうん、と彼の話に耳を傾けていると、うっかり指定の部屋を通り過ぎてしまいそうになった。
「あっ、と、ごめんよ、ここでした」
少し後退りをして、木の扉の前に立つ。真鍮のドアノブを回して扉を開けると小さな物置部屋の中はほぼ空っぽで、奥の壁にある小さな窓から青空と光が差し込んでいた。ひんやりとした風が頬を撫で、窓が開いていることに気づく。ほこりっぽいから誰かが先に換気をしてくれたのだろう。
「適当に置いてくれるかい?」
「はーい」
ぼくが先に中に入り、後に続いてきた彼が、
「んしょ」
お尻で扉を閉めたのでちょっと笑ってしまった。
部屋の隅に箱を下ろし、まだ少し震えている腕と手を伸ばす。彼も持っていた箱をその横に並べ、
「はー、重たかった」
ぺたん、と木の床に腰を下ろし、ぼくを見上げてきた。
「ありがとう、とても助かりました」
「どういたしまして!」
彼は本当に嬉しそうに笑う。
いい子だなあ。まぶしいなあ。
きらきらした目に照らされ、ぼくの中のどこかに少し、影が落ちた気がした。
「それでね、こないだテレビでカブ選手の試合見ててね」
ぼくと彼は床に座って「お話」をしている。
荷物を持ってくれたお礼がしたい、と言ったぼくに、
「カブ選手とお話したいです!」
と彼が身を乗りださんばかりに言ってきたからだ。ジュースかお菓子がいいかな、と思っていたぼくは面食らい、きらきらした視線を向けられて断ることもできず、
「まだお仕事があるから……うーん……五分くらいでもいい、かな?」
しどろもどろになりつつ了承し、大袈裟なくらい喜んでくれた彼に申し訳ない気持ちになった。
「最後ギリギリでカブ選手が勝って、オレ、テレビの前でやったー!ってなって」
彼は楽しそうに、嬉しそうに、ぼくの試合の話をしている。話をしたいと言ったのは彼なのに、どうしてぼくのことばかり話すんだろう。君のことを聞かせてくれたらいいのに。ぼくのことなんて別に特別面白いわけじゃない。
この間の試合だって、彼の言うとおりギリギリだった。わかってる。ぼくは今、少し、だいぶ、悩んでいて、参っている。
「いつもね、カブ選手が前見てるのカッコいいなって、思ってます」
前しか見えてないことも知っている。悩んでいる暇があったら前を向かないと。下だけは向かない。後ろは振り返らない。相手を見据えて、睨みつけて、負けない、負けられないと全身に力を込めていないと。
「オレ、カブ選手の試合見るの、好きです」
そう。
そう、なんだ。
じゃあこれから君をがっかりさせてしまうかもしれない。そうならないように一生懸命頑張るけど、頑張りきれなかったらごめんなさい。
ああ、まぶしいなあ。
照れくさそうに笑いながら、彼がぼくを見つめている。
まぶしい。
とても、まぶしい。
「カブ、選手……?」
不意に彼の表情が曇った。
「ど、したの……?」
何がだい?
出そうとした声が言葉にならない。息がうまくできない。苦しい。
「大丈夫? どっか痛いの?」
大丈夫、大丈夫です、ごめんなさい。
彼が身を乗り出してぼくの顔を覗き込んでくる。手を上げて止めようとしたけど、力が入らない。小さな手のひらがぼくの頬に触れ、躊躇いがちに撫でてくる。
触らないで。泣きそうになる。もう泣いてるのかもしれない。涙は出ないけど、声も出ない。我慢することだけうまくなってしまってこの有様だ。
「カブさん、ちゃんと吸って吐いてして」
してるよ。ちゃんとしてる。してるんだけど、おかしいな。どんどん苦しくなるんだ。本当、おかしいね。
「苦しいの? 痛い? ごめん、ごめんなさいカブさん」
君のせいじゃないよ。ちょっと、いろいろ上手にできないだけだから。
首だけ振って「大丈夫」を伝えるけど、うまくいかない。薄らと白くなる視界の向こうで彼が心配そうな顔をしている。
駄目だなあ、こんな小さな子に心配をかけて、こんなにもまぶしい子の顔を曇らせて何をしてるんだ、しっかりしろ、カブ。
自分で自分を責めて奮い立たせようとしたけど、やっぱりうまくいかない。今日は駄目な日だ。全部駄目。たまにはこんな日もある。でも今日でなくても良かったのに。この子がいるときでなくても良かったのに。いい大人がなんてみっともない。
「カブさん」
頬に触れていた小さな手がぼくの手を握ってきた。ぎゅう、と力を込められ、心地よい痛みに一瞬力が抜けて、
ふわり
と。
それは青空の見える窓から吹き込んできた風と、唇に触れた優しくて柔らかなあたたかさだった。
「……息、して?」
唇に優しい言葉が触れる。手に指が絡められ、すう、と呼吸が楽になって、彼に触れられた唇が緩くほどける。
優しく。
柔らかく。
彼はぼくを見つめている。
目を閉じたのはどちらが先だっただろう。
もう一度、そっと彼と唇を重ね、ぼくは彼の手を握りしめた。
「ご、ごめんよ、その……みっともないところを見せてしまって」
「ううん、ヘーキ……」
寄り添うように並んで座り、ぼくと彼はもじもじと身体を揺らしている。
「そろそろ、戻らないと」
運ばなくてはいけない荷物がまだ残っている。でもそう言いながら腰を上げることができない。触れている腕や肩の熱が名残惜しい。目を合わせることもできないのに、まだもう少し、と思ってしまうのを止められないでいると、
「また、会えますか……?」
彼はぼくのほしい言葉を少しも間違えることなく口にした。
だからぼくも、
「……君のお名前は?」
彼の頭に自分の頬を乗せ、そう尋ねる。
「キバナ」
「キバナくん」
こくん、と頬の下で彼が頷く。
「次の勉強会って、いつかな?」
息を飲む音が聞こえた後、彼は――キバナくんは、えへへ、とくすぐったそうに笑った。