A Christmas Blessing 終わらない。キーボードを叩く手、書類を睨みつける目、自然と口を突いて出る独り言。事務仕事は嫌いじゃないけどこの量はさすがに勘弁してほしい。もう丸三日は家に帰ってない。シャワーは辛うじて浴びてるけどそろそろベッドで寝たい。
「キバナさま、あとはオレが」
オレと同じくらい、それ以上に疲れが顔に出ているリョウタを「いいから」と手だけで追い払い、とにかく終わらせようとモニターの数列やら文字列やらを増やしていく。
もうすぐ年末だ。年末ということはチャンピオンカップが終わり、毎年恒例のレポート締切が迫っているということである。ジムの運営状況、来年の予算申請、オレを含むトレーナーの実績や成績、保護しているポケモンの状態と今後の育成に関する報告などなど、内容は多岐に渡り、オレは毎年同じことを思う。
どうして毎月コツコツまとめておかなかったんだ、と。
もちろん全くやってなかったわけではない。最低限のことはしていた。写真や動画を撮ったり、レシートを保管しておいたり、その程度だけど。だからこんなことになってるんだけど。今年は特に酷いんだけど。
とにかく終わらせてしまえばこっちのものだ。形になっていればいい。毎年やってることだ、今年もなんとかなる。なんとか終わらせたら明日はクリスマスイブ、明後日二十五日からはハッピーホリデーの始まりだ。
「キバナさま、コーヒーどうぞ」
レナがデスクにマグカップを置いてくれた。ああ、すげえ助かる、ちょうど飲みたかったんだ。
「サンキュ」
軽く礼をいい、早速一口喉に流し込むと、
「今年はいいんですか?」
不意に尋ねられ、首を傾げた。オレの表情を見て察したのか、レナはオーバーに肩をすくめて慌てた様子を見せる。
「もう七時過ぎですよ! SNS更新しておかないと!」
なんで?
また首を傾げたオレに、
「キバナさま! 今日はクリスマスイブです!」
「……へ?」
ちょっと信じがたい言葉が突き刺さった。
連日の事務仕事で時間の感覚がおかしくなっていた。てっきり明日だと思ってたのに大失態だ。何の根回しも準備もしていない。
「あー……どうすっかな……」
しぱしぱする目を指で押さえ、眉間を押したり揉んだりする。
「ジムで過ごしたことにします?」
レナの他、ヒトミとリョウタも仕事の手を止め、オレのデスクに集まってくれた。
「ケーキとかまだ売ってますかね……」
探してきましょうか、と言うヒトミに、
「いや、いい。大体こんな疲れ切った顔集めて写真撮ってもしょうがねえだろ」
そう返すと、確かに、と皆黙り込む。
「悪い、オレさまのミスだ。何か考えるから、お前らは仕事に戻ってくれ」
はい、と返事をして三人とも自分のデスクに戻っていく。両手で顔を覆い、オレは大きくため息を吐いた。
そう、今日はクリスマスイブだ。大体毎年事務室に引きこもって書類仕事に追われているオレだが、SNSはきちんと、しっかり更新している。駅前のツリーの前で写真を撮り、集まってきた野次馬やファンの人たちと軽く交流したり、カフェでコーヒーと小さなケーキを頼んでささやかなイブを満喫している態の写真を撮ったり、ワイルドエリアから仰ぐ夜空とジュラルドンの写真を撮ったり、フォローしてくれているファンへのサービスと言えば聞こえはいいが、要はアリバイ作りだ。
ナックルジムリーダーのキバナは今年のクリスマスも一人で過ごしています。聖夜を一緒に過ごすような特定の相手はいません。変な想像や勘繰りはしないでください。
ないことないこと書き連ねるゴシップ誌の記者だとか、推察考察という名のデマブログを運営している有象無象の素人ブロガーに妙な想像をさせないよう、毎年しっかりと根回しと準備をしていた。――はずだったんだけど、今年はすっかり抜けてしまっていた。
少しぬるくなったコーヒーを口に含み、さあどうする、と自分に問いかける。
リョウタたちと疲れ切った顔で写真を撮って「年末進行で死にそう!」と開き直るか。いや、あまりにも夢がない。意外とウケるかもしれないけど、子どものなりたい職業トップ10に入るポケモントレーナーとしてそれはどうか。
無難なところで駅前に行ってツリーの写真を撮るのはどうだろう。写真はいいとして、ファンの人が声をかけてきたら、ろくに寝ていないふらふらな身体で対応できるだろうか。ちょっとしんどいかも。いや、かなりしんどい。数年前、二時間くらい寒空の下で握手会とサイン会になったことを忘れたか、キバナ。
ワイルドエリアも今の体調で行くものじゃない。慢心は思わぬ事故に繋がる。SNSどころか新聞や朝のニュース番組に不名誉な形で名前が載るのは避けたい。
ううむ、困った。何も思いつかん。何も更新しなかったらまた火のないところに煙が立ってしまう。この忙しいときに面倒は増やしたくない。
「うーん」
デスクに頬杖をつき、鏡を見なくてもわかるしかめっ面をしていると、事務室のドアがノックされた。
はーい、と返事をしてヒトミがドアへ駆け寄る。荷物が届く予定でもあっただろうか。アポ無しの来客は追い返すように言ってあるので、耳だけドアの方へ向けていると、
「こんばんは」
聞き慣れた声が飛び込んできて、ガタン!と椅子を倒さんばかりの勢いで振り返ってしまった。
「あ、カブさん、こんばんは。どうかされました?」
「頼まれていた資料が見つかったので持ってきました。ちょうどさっきまで近くで取材を受けていたのでついでに」
いや。
いやいやいや。
確かに頼んでた、頼んでました、レポートの資料にエンジンスタジアムでの行われた試合動画と戦績のデータをできれば今日中にくださいと頼んでおりました。おりましたけど、それはカブさん個人にではなくエンジンジム宛であって、クラウドサービスとかにアップしてくれれば良かったのに、なんでよりにもよってカブさんがUSBをお持ちになっているんですか。
「ありがとうございます! 今まさにほしかったところだったんです」
「それはよかった。あ、あとこれもよかったら」
差し出した手には白い箱が乗せられている。
それは、もしや。
「わあ、ケーキですか?」
「うん。ここに来る前に受付の人と電話したら、みんなまだいるって教えてくれたから」
繋げ!
まず! オレに! 繋げ!
ロビーで受付兼ショップ店員兼電話番をしているおっさんの顔を思い浮かべ、ギリギリと歯ぎしりをする。昨日今日は緊急でない限り電話は繋ぐなと頼んであったけどこれは緊急の部類だろ。どう考えても一大事だろ。
一人でデスクに突っ伏したり頭を掻きむしったりしていると、
「キバナさま! カブさんからケーキいただきました!」
ヒトミの弾んだ声が飛んできて、ようやく椅子から立ち上がる機を得た。
「あ、あー、ええと、すみません、お気遣いいただいて……」
険しくなっていた顔を撫で付けながらドアへ向かう。それまでヒトミに隠れて顔まで見えなかったカブさんと目が合い、精一杯明るく笑って見せた。つもりだったが、
「……随分、お疲れみたいだね」
思い切り心配そうな顔を向けられてしまった。苦笑いでごまかしたけど、ごまかしきれるものじゃない。
気を利かせたらしいヒトミがケーキを持って給湯室へ向かい、ドアの前にはオレとカブさんだけが残った。オレを見上げ、カブさんの表情は曇ったままだ。
「大丈夫……ではないね。寝てないのかい?」
「ベッドでは寝てないですね、しばらく」
カブさんが肩に掛けたバッグのベルトをぎゅう、と握る。結構、かなり、心配させているらしい。ちょっと嬉しいと思ってしまうのは、疲れて思考回路がおかしくなっているせいだろうか。多分違うと思う。
「何かぼくに手伝えることはあるかい?」
「いやいやそんな。えと、気持ちはすげえ嬉しいんですけど、外部に出せない数字とか多いんで、すみません」
「そうか……そうだね」
しゅん、と俯いた頭が可愛い愛しいと思ってしまうのは、疲れているからではなくオレの通常運転である。
優しい。可愛い。顔が見れて嬉しい。こんな疲れ切ったオレを見せてしまって恥ずかしいけど、見せることができてちょっと嬉しくもある。貴方にはオレのこと、何でも、全部、知ってほしい。
そう、オレが毎年この時期を一人で過ごしているもう一つの理由がこの人だ。書類仕事があってもなくても、他の誰かと過ごすつもりなんて全くない。カブさんと過ごす予定も全くないのが片想いの悲しいところだけど。
「あ」
そのとき、ふと、気づいた。
気づいて、思いついてしまった。
小さく声を出したオレに顔を上げ、カブさんが小首を傾げる。
オレはにーっと口元を上げ、
「カブさん! ちょっと手伝ってもらえますか!」
疲れてるのにめちゃくちゃ元気な声が出ることに自分でもびっくりしつつ、きょとんとしているカブさんの手を取った。
「はい、あーん」
大きく口を開けたオレに、カブさんがフォークに刺したケーキを差し出してくる。
「はーい、撮りまーす」
スマホを構えたリョウタの声の後、カシャ、とシャッターの音が響いた。
はぐ、と差し出したケーキに食らいつき、甘さを口いっぱいに堪能して、
「おいひいれす」
もぐもぐしながらカブさんにありがとうとお礼を言うと、ふふ、とカブさんはくすぐったそうに笑う。
「こんな感じでいいのかい?」
「バッチリです! もう一枚撮りまーす」
リョウタに向かって、はい、と返事をしたカブさんは、皿の上のケーキをフォークで大胆に切り分け、オレに差し出してきた。さっきよりも大きめだ。
「はい、キバナくん」
あーんして、と言われるまま、オレはめいっぱい口を開け、
「撮りまーす」
シャッター音を聞きながら、クリームたっぷりのケーキに食らいついた。
――年末の書類作成で疲労困憊な中、エンジンジムリーダーのカブさんが陣中見舞いに来てくれました。おいしいケーキありがとうございます! 甘い! うまい!
と、そういう写真とテキストを更新するのである。今年のクリスマス、キバナは仕事で事務室にこもりきり。遊びに行く暇も、誰かと会う予定も無し。アリバイはバッチリだし、それより何よりオレのSNSにカブさんの写真が載るのは今日が初めてだ。成り行きとは言え、クリスマスイブになんという奇跡。神さまありがとう。ケーキおいしいです。しかもカブさんにあーんしてもらえる――手を合わせて頼み込んだことは置いておく――なんて夢みたいです。しかもその決定的瞬間をSNSで全世界に発信してしまうのだから、これはもうオレとカブさんは世界中が認める仲良しだと言っても過言ではないのでは。
「はー、幸せ」
事務室の一角、比較的物の少ないデスクの前という全く色気のないシチュエーションではあるけれど、そんな些細なことはどうでもいいくらい幸せだ。
「疲れたときには甘い物がいいって言うからね」
オレの気持ちを知らないカブさんは、オレのすぐ目の前で穏やかに微笑んでいる。うん、とオレは曖昧に頷き、
「急にすみません。本当に助かりました」
できるだけ大人の顔でお礼を言うと、
「お役に立てたならよかった。……あ」
微笑んでいた顔がオレの顔の一点でぴたりと止まる。楽しそうに笑ったカブさんは、
「キバナくん、クリームついてる」
す、と伸びてきた手がオレの顔に触れ、親指がオレの上唇をそっと拭う。そうして、
「ん、甘い」
クリームのついた指をぺろりと舐めた。
ばくん
心臓が跳ねる。
ひゅ
息を飲む。
頭の中が真っ白になって、カブさんの舌が赤くて、指先がしっとり濡れていて、何でもない顔でオレを見上げてくるカブさんがすぐ目の前にいて、
「あ、の」
じわりと熱くなる胸の奥、激しくなる鼓動が耳まで響いてくる。
「オレ、あの」
腹の底から喉まで何かがせり上がってくる。喉から何かが飛び出しそうで抑えきれない。
「カブさん」
「うん?」
「オレ、」
顔を寄せようとしたその時、カシャ!とシャッター音が響いた。
「キバナさま」
弾かれるように振り向いた先、リョウタが人の好い笑顔を浮かべている。
「『それ』は今ではない方が良いかと」
ですね。全くその通りです。気持ちが先走りしすぎた。危ない危ない。
すうっと落ち着いていく胸を手で軽く押さえ、リョウタからスマホロトムを受け取った。
「それじゃあ、ぼくはこれで」
「はい、ありがとうございました」
ドアの前で頭を下げる。カブさんはバッグを肩に掛け直し、どういたしまして、と微笑んだ。
SNSに投稿して数分も経たないうちにカブさんと撮った写真はバズりにバズった。止まらない通知をオフにし、事態をあまりよく飲み込めていないカブさんに一日経てば落ち着きますからと説明して、名残惜しいけどお見送りの時間だ。
「あまり無理をしないようにね」
ちゃんとご飯も食べて、布団で寝るんだよ、とお母さんみたいなことを言われ、はあい、と苦笑した。カブさんもちょっと笑って、
「良いお年を。来年もどうぞよろしくお願いいたします」
綺麗な所作で丁寧に頭を下げる。
「あ、は、はい、こちらこそ」
慌ててオレも頭を下げ、そうか、次に会うのはもう来年なのか、と寂しく思う。普段も頻繁に会っているわけじゃないけど、年越しを挟むことを考えると、なんとなく物寂しさを感じてしまうのはどうしてだろう。
名残惜しい。
もう少し一緒にいたい。
今日会えて嬉しかったです。
嬉しかったから、もう少し。
口から言葉は出なくて、それは必死に抑えたからで、そんなことを言っても困らせるだけだと知っているからだ。まだ書類仕事も残っている。
カブさんがオレに背を向ける。引き留めたくて手が上がりかける。何か言いたくて口が開きかける。
そのとき、
「キバナくん」
背を向けたまま、カブさんがオレの名前を呼んだ。
「ら、来年もまた、一緒にケーキ、食べれるといいね」
へ?
言われた言葉を咀嚼する前に、カブさんは廊下を猛ダッシュで駆けていった。すごい速い。あっという間に見えなくなってしまう。オレだけがその場に残され、動けない。
何?
今、何て言った?
来年?
来年の今日ってこと?
まだ全然先だけど、一年後だけど。
でも、それって。
「あ、うぁ……」
かーっと顔が熱くなる。
それって、それってもしかして。
オレ、期待しても、いいんですか?
「キバナさま、全部顔に出るからわかりやすいんですよ」
「もうダダ漏れです、こっちが照れちゃう」
「ね、カブさんに気づかれるくらいですもん。でも良かったですね!」
キーボードを叩く音、紙をステープラーでまとめる音、プリンターは絶賛稼働中。レナとヒトミはぱたぱたと駆け回り、リョウタはオレのデスクにファイルを置く。
「こちらで最後です。今日はゆっくり休んで、明日がんばってくださいね」
ご武運を、なんてサムライとかブシドーみたいなセリフを言って、リョウタは自分のデスクに戻っていく。
ああ、がんばるよ、がんばりますとも。
来年の今日もカブさんと一緒にケーキを食べられるように、今度は二人きりで過ごせるように。
「あーーーっ! もう! 好き!!!」
堪えきれずに天井に向かって吠え、にやけた顔のままモニターに顔を向けた。
待っててね。
すぐに行くから。
来年なんて言わずに、もう明日から一緒にいよう?
明日も、来年も、その先もずっと、貴方と一緒にいたいです。
ずっと貴方と、いたいです。