怖くないよ「目、閉じて」
大きな手が顔を包み、低い声が囁くように促してくる。ぼくの目はわかりやすく泳ぎ、躊躇い、迷い、すぐ目の前にいる彼が「ん?」と小首を傾げるのを見てもまだ決心がつかない。
ここはエンジンスタジアムの控え室で、ほんの今さっき、明日のエキシビションマッチの打ち合わせが終わったところで、だからここにはぼくと彼――キバナくんしかいなくて、着替えようとロッカーに向かおうとしていたら急に、いや、正確にはスタジアムの通路を二人で歩いていたときから何となく予感はあったのだけれど、とにかく控え室に入ってドアを閉めた途端、やんわりと、少し強引に肩を押され、壁に背を付ける格好になって、目の前にキバナくんの顔があって、息を飲んだぼくが笑ってごまかす前に、彼の少し低い声がぼくに目を閉じるように言った。
「だめ?」
ぼくを壁と自分の身体で挟みながら、彼はぼくの許可を待っている。ここまでしたのだから最後の一歩も強引に踏み出せばいいのに、決してそれをしない。
駄目ではないし、嫌でもない。場所が場所だからどうしても躊躇ってしまうけど、すること自体は嫌じゃないし、触れたいと思ってもらえるのは嬉しい。ただ、素直に頷くことがどうしてもできないだけだ。
「君が、したいならぼくは、」
視線を外し、ようやく出した声に、
「そうじゃない」
腰を折ったままの姿勢でぼくと目線を合わせ、彼は真っ直ぐに言う。
「一人でするもんじゃないでしょ、キスって」
ひく、と肩が跳ねてしまった。したいと思われていることを改めて言葉にされると、どうしても緊張してしまう。
「オレはあなたに触れたい。今、ここで。カブさんは?」
心臓の音がうるさい。顔が火照って仕方ない。視線が定まらない。胸の前で握った手に力が入る。
「言葉にするのが難しかったら、目、閉じて?」
それだけでいいから、と言う彼の声は優しい。その優しさが苦しい。もっと強引でいいのに。好きにしてくれて構わないのに。ぼくに考えさせたり、自覚させたり、求めさせたりしないでほしい。怖い。それはとても、怖いことだ。
とても、怖い。
「カブさん」
手のひらがぼくの頬を撫で、耳を軽く摘まむ。
「怖くないよ」
やっぱりお見通しだ。彼の青い目はぼくのことなんて全部見透かしている。
こく、と息を飲み、ぼくはすぐそこにある彼と目を合わせる。青色に飲み込まれる前に、ぎゅう、と目を閉じ、ついでに口も引き結ぶと、瞼の向こうに、ふ、と軽い笑みを感じた。
「ほんと、かわいい」
囁く声が唇に触れると同時に、柔らかい感触に包まれる。優しい触れ方とは反対に、がちん、と身体全体が固まる。
これで何度目だろう。両手には足りないくらい、片手には余るくらい、だろうか。何度触れられても、触れ合っても慣れない。触れ合うまでにかかる時間も短くならない。
ぼくが臆病なせいだ。彼はこんなに優しいのに、ぼくはいつまで経っても進歩がない。
ちゅ、と音を立てて彼とぼくの間にわずかな隙間ができる。
「怖い?」
怖い。触れられることじゃなくて、もっと別の――もっと先のことが怖い。
「カブさんって、ほんとオレのこと好きだよね」
「え?」
唐突な言葉に思わず声を上げ、目を開ける。焦点の合わない位置にある彼の顔はなんだかだらしなく緩みきっている。
なんで?
口を開きかけたぼくに、
「好きになるのが怖いくらい、オレのこと好きなんでしょ?」
「んう!?」
噛みつくように唇を奪われ、そのまま舌を差し入れられる。わざと音を立てて吸われ、掻き回され、逃げようにも壁に阻まれどうにもできず、立っているのが精一杯になるまで散々乱され、ようやく解放されたときにはすっかり息が上がっていた。それは彼も同じで、少し距離を取った先、ぼくを見下ろしながら手の甲で口元を拭う彼の目は熱を帯びながら揺れている。
「カブさんが泣きながら別れてくださいって言っても、ぜってー離してやんないから」
だから大丈夫、安心して。
不穏なことを言いながら、声は優しい。熱っぽい目はぼくを――ぼくだけを見ていて、さっきまで触れ合っていた唇がやけに赤く見えて、
「怖くないよ」
もう一度、今度は溶け合うように、交わるように重ねられた唇に、ぼくはゆっくりと目を閉じた。