疲れに効く未来 久しぶりに「キて」しまった。リーグ戦で連戦が重なったこととか、来週末のイベントの準備とか、こういうときに限って処理しきれないほど溜まっていく事務仕事とか、そういった小さいことが積み重なって、決め手になったのは本当にどうでもいい、いつもだったら鼻で笑って捨て置くようなB級ゴシップサイトの記事だった。そう、毎度毎度懲りずに書かれるオレと知らない誰かのウワサ話。すれ違っただけ、偶然出くわしただけ、たまたま言葉を交わしただけの誰かとオレが、真剣交際してるとかしてないとか。
――してねえよ、バーカ!
心の中で罵倒しつつ、スマホを握りしめたまま、オレは今、控室の床にへたり込んで動けない。シャワーを浴びたばかりでまだ髪も身体も濡れている。拭いて乾かして着替えないと風邪を引く。わかってる。わかってるのに動けない。辛うじて腰に巻いたタオルだけが体温を守ってくれている。
疲れた。
うん、疲れてるんだと思う。ちょっとがんばりすぎた。なんとなくそんな気はしてた。でもまだもう少し踏ん張れると思ってたんだけどな。見誤った。
ほんと、こういうの嫌だ。
疲れてるときにこういうデタラメが目に入るのはつらい。知らない誰かの宣伝に利用されたのか、ネタがなくて適当に選んだのがオレだったのか、どっちにしてもオレだったら「ああまたキバナか」と読者や世間に思われるだろうしこのくらい別にいいだろう、と軽く見られているのがわかるのがつらい。
派手だから、目立つのが好きだから、本人もそれを望んでるから。
そうだよ、そうだけど、それはオレがオレのためにやってるんであって、見ず知らずの他人のためじゃない。知らない誰かに勝手にオレを使われて、そこまでは有名税だって我慢もできるし、してきたけど、もしこれを知ってる人に見られたら。大切な人に見られてしまったら。
三度目だ。これで、確か三度目。その度にオレは大慌てで言い訳を捲したてて、あの人は「キバナくんも大変だね」って笑って、それだけで。気持ちを伝えたわけでも付き合ってるわけでもないから、そのくらいの反応で当然なんだけど、でも、だから、さみしくて、つらくて、そうじゃないって信じてほしいのに信じてもらえそうもなくて。
髪の毛の先から床に雫が落ちる。床暖房でよかった、なんて呑気なことを思いながら、それでも身体はゆっくりと冷えていく。
結局、言い訳もさせてもらえない。オレはいつでも派手で目立ちたがりで、交友関係もまた然り。大変だねって笑うあの人もきっとそう思ってる。思わせてしまう。
しんどい。
言わないって決めたのはオレだ。十数年来の恋心が玉砕するのも怖いし、困らせるのも嫌だし、その後距離を置かれるのも耐えられない。だったら今のまま、ちょっと派手で目立ちたがりな年下の同僚の位置にいたい。
なんで疲れてるときにこんなことされなきゃいけないんだろ。腹を立てる気力もない。がんばってるのになあ。オレなりに、がんばってるのに。でもあの人は毎日もっとがんばってて、本当にしんどい時間を過ごして、それを乗り切って今がある。その背中に憧れて、好きになったオレがこんなことで弱音を吐くとか、ちょっとかなりみっともない。
しゃんとしろ。
両手で顔を叩き、頭を振る。控室に誰もいなくて良かった。こんなところ誰かに見られたら恥ずかしくて死――、
「キバナくん」
死ぬ。
いや、今死んだ。
その声は間違いなく、聞き間違えるはずもなく、
「か、ぶさ」
ぎぎ、と軋む音を立てるように顔を出入り口の方に向けると、三十分以上前に帰ったはずのカブさんが立っている。
「大丈夫かい? 気分悪い?」
駆け寄り、膝を付いてオレと目線を合わせてくる。
「あ、や、なんでも、ほんとに」
「こんなに冷えてるのになんでもないわけないよ」
ぺたぺたと無遠慮に背中や腕に触れられ、手の硬さと温かさに身体が震えてしまう。刺激が強い。いろんな意味で。
「か、カブさんこそなんで、忘れ物、ですか」
よろけながら立ち上がり、開けっ放しになっていたロッカーからバスタオルを取り出す。冷えた身体を擦りながら尋ねると、
「君が心配で」
オレを追うように立ち上がり、困ったような笑顔を向けてくる。
え?
今、なんて?
「駅で電車を待っていたら、スマホで君の記事を見かけてね。前にも同じようなことを書かれていたから」
見られた。
身体じゃなく、腹の底が冷える。
でも、心配って。
「あることないこと書かれると、ほら、つらいだろ?」
カブさんはやっぱり困ったように笑う。
ああ、そうか。この人も昔、ありとあらゆる媒体にあることないことを散々書かれていたんだった。
「それとも本当にやらかしちゃってたかい?」
やらかしてない!
ぶんぶんと首を横に振り、力任せに否定すると、
「よかった」
今度は安心したように、ふにゃ、と顔をほころばせる。
「ぼくなんかでよければ、愚痴でもなんでも聞くから。一人で床にうずくまるのはやめておこうか」
ね、と小首を傾げるように言われ、ぎゅうっと身体の奥底から熱いものが込み上げてくる。
好き。
オレはこの人が――カブさんが好きだ。
ほんとに。
本当の、本当に。
他の誰でもなく、今目の前にいるこの人が、この人だけが。
「……あ、の、オレ」
口から出る言葉を止められない。
言いたい。
言わなきゃいけない。
「オレ、カブさんにだけは、信じてほしい」
ぱち、とまばたきだけを返す顔を見下ろし、
「オレ、好きな人がいて、今も昔もこれからも、その人だけ好きで、だから」
こく、と息を飲む音がやけに大きく響いて、
「だから、その、オレ、」
「キバナくん」
遮る声は優しく、見下ろした先でカブさんはふわりと目を細めた。
「まずは着替えようか」
へ、と頓狂な声を上げてしまったオレに、
「風邪ひいたら大変だよ」
至極真っ当なことを言われ、また床にへたり込みそうになる。
いやあの、今、オレさま一世一代の告白をしようとがんばってたんですけど。カブさんの言うことはもっともなんですけど、最後まで言わせてほしかった、です。
「ほらほら、早く服を着て。髪の毛も乾かさないと」
「ふぁい……」
がっくりと肩を落とし、気の抜けた返事をするオレに、カブさんは小さく声を出して笑って、
「待ってるから。その、続き……聞かせてくれるとうれしい、かな……?」
ほんのり頬が赤く染まったように見えたのは決して気のせいじゃない。
腹の底から出した声で返事をして、音速で着替え、光速で髪を乾かし、十数年の想いを伝えたオレが、カブさんの照れくさそうな笑顔と未来をもらうのは約五分後のこと。