あまったれエスプレッソ.
薫は目覚めのよい方だ。今朝だって眼裏が明るさを感じれば意識は素直に覚醒に至った。
日中の気温の高さを予感させる鮮やかな朝日。それが閉じたブラインドの隙間から室内に潜り込み、寝床を照らしている。手をつき、上半身を起こそうとする。ずぶずぶとどこまでも沈んで行きそうなマットレスに、僅か、眉を顰める。
「…………」
硬めのマットレスと低い枕を愛する薫にとって、掌の沈む柔らかな寝具はどうも馴染まない。ふかふかの羽根枕を抱き込む、隣の男とはつくづく趣味嗜好が合わないものだ。広い背中を睨めつける。手前味噌の筋肉布団が十分すぎる程ぶ厚いくせに、虎次郎は厚ぼったく柔らかい寝具を好む。いつだかウォーターマットを寝室に導入したこともあった。あの時薫は片すまでここには泊まらないからなと宣言したし実行したものだ。確かこいつの辛抱は二週間と持たなかったと記憶している。
「んー……」
ゆっくりと太陽の位置が変わり、差し込む陽の明るみが虎次郎の頬を黄色く彩った。眩しさにだろう、低く呻く声。横向きの姿勢をもぞもぞと。枕を抱え直す動きに、肩回りの筋肉のはたらきがよくよく見えた。広背筋から上腕二頭、三頭筋、そして三角筋。ミルクたっぷりのカフェオレめいた肌が朝のひかりで陰影を色濃くしている。本人に伝える気などさらさらないが、素肌の隆起はふるいつきたくなる程魅力的だった。
いい位置を見つけたのだろう。やがて動きは止んだ。うんうん唸りながら布団をこねるなんて、まるきり飼い慣らされた猫の仕草だ。猫ほど可愛らしくもない大型獣をそれでも幾らかゆるんだ眼差しで見つめているのを、薫も自覚するところだった。何かと格好つけのこの男がこうも寝汚くいるだなんて。とびきり甘く囁かれるより余程、このざまを眺める方が特別。ニンマリとする口元を隠す必要もなく、薫はぐぅぐぅ寝転ける虎次郎を見下ろした。
枕に押し付けてむにりと歪んだ頬。無防備に半開きの唇。そこから白い歯がチラリと覗く。口元、顎下、ポツポツと無精髭。毎日丁寧にあたってもこう。脱毛すればいいのに。楽だぞ。言っても聞きやしない。太い首、広い肩、ぱつぱつの胸板。よく焼けた肌に点々散る、鬱血の痕。それら全てを余すことなく。
そこで、ブブブ、とバイブレーションだけのアラーム――敢えてこのようにしておいたのだ――がリビングスペースから鳴り響いた。いつもはすぐに止めてしまうのを、ここでの起床だと放置する。
控えめな音は薫にとってはちょうどよい塩梅。だけれど虎次郎にとってはそうでなく、些か身動ぎをしたかという程度ですぐ大人しくなった。
キッチリ一分でアラームは止まり、また静かになる。次は五分後。その振動音はやはり隣の寝坊助の目覚ましにはならない。案の定少し布団をこねてからまた寝入ろうとする。
唸り声が静かな寝息になる前に、うしろ頭を鷲掴みにする。わしゃわしゃと犬にでもするように濃色の髪をかき混ぜると、ただでさえ広がり気味の癖毛がより鬱陶しさを増した。薫は己が施したマヌケなスタイリングに満足して、ふふん、鼻で笑う。起きていればさんざ文句を言うだろうに。虎次郎は未だ眠りの淵に引っかかっている。
薫はボサボサ髪から垣間見える耳をギッと引いた。のほほんとした寝顔も、流石に歪む。
「…………」
「さっさと起きろノロマ」
ごそり、ごそり。布団に沈めばそれで隠れられるとでも思っているのか。愚かな巨体がシーツの上でのたうつ。いっそ愉快。殊更強く抱いた枕をひったくろうとする。より強く抱き込んだ。あぁ愉快。薫はほくそ笑む。
これこのように、虎次郎は朝に弱い。仕入れのために市場に行くだとか、尤もらしい用事でもなければこんなものだ。
「朝だ。起きろ。アラームはとうに鳴ったぞ」
「うるせぇ…………」
低い声が返ってくる。地を這うとはまさにこのこと。カサカサに乾いた喉から這い出た声はひどいものだ。ひび割れて掠れ、ぼそぼそと不明瞭。完全に寝起きのそれ。
「はッ、ウシガエルの方がまだマシな声だな」
嘲ってやる。それなりに思うところがあるのか、反論はない。恨めしそうな目で睨め付けてくるだけだ。ただ、その目元は腫れぼったく重たげで、まだ眠気と親しいことはすぐ見てとれた。
それでも半覚醒くらいにはなったのだろう。のたのた枕を腹の下に敷いて上半身伸ばし、ヘッドボードを探り出す。水のボトルでも求めているのか。
「ないぞ。昨日飲み干しただろうが」
「オマエがな」
「いいやお前だ。たった数時間前のことも忘れたのかノータリン」
「数時間って……ん? まて、いま何時だ?」
「六時」
「十三分です。マスター」
「ありがとうカーラ」
「早起きしやがってジジィかてめぇは!」
「同い年だ、ド阿呆」
「お、れ、は、ジジィじゃねぇ」
「いつまでも若い気でいるのもイタいぞ」
「ああ言えばこう言いやがる……」
喋るうちに調子が出てきたようで、発語は明瞭さを増していった。ただ、掠れ声は相変わらず。いつもの、エスプレッソみたく艶やかに苦く甘いものではない。数時間前――正確には「おやすみ」と額に口付けてきた約四時間二十分前とは、随分な違いだった。
「もーいい。二度寝だ、二度寝」
纏わりつく眠気に勝てなくなったらしい。いがみ合いを投げ出して、虎次郎は枕を抱え直して寝の体勢に戻った。そのまま沈黙。すぐさま寝息を立てるでもないが、言葉通り二度寝するのだろう。
顔も見えなくなったうつぶせ寝の体勢を暫し眺めやる。かすか呼吸に上下する肩。広く厚い胸囲から、グっと引き締まったウエストを象る上掛けの生地。みっしりと筋肉の詰まった丸い尻と太く鎧われた脚――は、今は露わでないが上掛け越しに見ておく。直の肌は昨晩散々楽しんだ。
十分に鑑賞する間も転がった肢体は静かなままだ。折角手ずから起こしてやったというのに。まぁ、睡眠を優先するならそれはそれで構わなかった。
「コーヒー貰うぞ」
ひとこと。
それだけ言って、ベッドへ沈む恋人を置き去りにする、刹那。
「俺が淹れる」
片手が捕まった。五指は絡まり、やんわりとシーツにに押し付けられる。体温にぬくもるマットレス。柔らかすぎるそれは加重を呑み込むように受け止める。グッと沈む身体。虎次郎はあんなに執心した枕を捨て、薫のことを抱き込んでくる。ふかふかの胸板、逞しい腕、そんなもので薫を後ろから捕まえて、虎次郎は寝起きの熱い体温に負けず劣らずの熱っぽさで囁く。
「さびしーことするなよ、かおる」
寝起きの、低い、掠れた、ひどい声で。
そのくせ甘くあまく引き留める。
だから。
いつまで経っても馴染まない柔らかなマットレスの上。薫はすっかり慣れた体重移動で、留める腕に任せて寝転がってやるのだ。
「二度寝はどうした」
「独り寝なんてゴメンだね」
お前がいるのに。拗ねたように尖らせた唇で嘯く。さっきまでぐうすかやっていた癖によく言う。
とはいえ、向かい合い、睫毛の影さえ見えそうな距離に迫るまなざしから、眠気はひとまず失せていた。片腕一本を背に回し腰を捉え、そうやって薫を捕まえながら、もう一方の手でそっと頬へと触れて来る。覚醒しておきながらベッドへ引き込むとは、どういう了見であろうか。羽枕以上にがっちりと抱え込まれふにゃふにゃ微笑まれる。強引さと優しさとが同居する、伊達男っぷりを取り戻してしまったことにひと匙の不満。
「もうコーヒーの口になってる」
「だから、俺が淹れるっての」
「腹も減った」
「なんか摘むもんだって出してやるから」
不満の味をそのまま口調に乗せても、聞いた方はどこ吹く風。ああ言えばこう言う、のは、別に薫に限った話でない。
実のところ薫程にも口八丁の立派な男はほどほどの減らず口でこちらの言い分をいなしてしまう。だらしのない欠伸をひとつ。それから先程まで散々こねていた布団からのっそり起き上がって適当な衣服をひっかけキッチンへ向かう。薫の腰を抱いたまま。そう。手八丁だって立派過ぎるほどなのだ。そうやって辿り着いたキッチンで、虎次郎は薫を連れ回しながら朝食を仕立てる。
薫だっていい歳をした大人だ。料理のひとつやふたつ普通にこなすし、エスプレッソマシンでコーヒーくらい淹れる。虎次郎だってそれを知っている。
知っていて、それでなお。
仕事でもないのに、苦手な早起きをして。必要もないのに、薫の世話を焼いて。
口元がニンマリとするのを堪える。もう目覚めてしまった虎次郎に、この緩んだ顔を見られるのは耐えられない。
肩に腕を回し、指を絡め、腰を抱いて。何をするにも身体のどこかしらを触れさせたまま。熱いコーヒーとトースト、昨晩のスープが温め直されて食卓に並んでいく。そうしてそのまま、肩をくっつけあって朝のひとときを過ごそうというのだ。この男は。
全くもってこの甘ったれめが。寝坊助で甘えん坊でとびきりに可愛い。
広いソファのど真ん中。身を寄せ合っての朝食は、窮屈だけれど悪くない。
.