君を攫わせない暖かくなり桜の花は見頃を迎えていた。
自宅近くの公園にも桜の木があり、時折はらはらと散る様は美しい。
買い出しがてら見に来た甲斐があった。しかしぽかぽか陽気で過ごしやすい気温のわりには人影が見当たらない。
木陰には自分と環と二人きりだ。
「もう春やなぁ」
「そうだね」
他愛のない会話をしているとびゅうっと突風が吹いた。
一瞬目を瞑ってゆっくり開くと環に桜の花びらが纏うように降り注いでいた。
「びっくりした…春一番かな。ふふ…凄い、花びらのシャワーみたいだ」
そう言ってひらひらと舞い落ちる花びらを背景にはにかむ姿はあまりにも可憐で、心を奪われる。そして同時にこのままどこかへ攫われてしまうんじゃないかという錯覚に陥った。
身体が勝手に動いて環の手を握る。
「ファット?あの、ここ外…」
環は不思議そうに見上げてくると人目を気にして離れようとする。
手のひらには確かに環の感覚があるのに焦燥感は消えなくて思わず抱きしめた。
「ファ、ファット…?ホントにどうしたんだ…?」
普段なら誰もいないとは言え、外で恋人の触れ合いをすると恥ずかしそうに断りを口にする。だが今は態度がいつもとかけ離れている所為か戸惑いつつも背中に手を回して心配した声色で問いかけてくる。
「……桜が風で舞った時…環がこのままどっかに攫われてまう気がして、怖くなってん」
若干涙が滲む始末。
環は何も言わず静かに聞いてくれた。
「………」
「すまん…情けないこと言ってもうて」
拭い切れない面持ちで力を緩める。
顔が見えると「ファット、屈んで」と言われてその通りにしたら頬に手のひら、唇には柔い感触、眼前には伏せられた綺麗な睫毛が映った。
環からキスされたと理解するのに時間はかからなかったが誰が通るかわからない状況での出来事に驚きが強くて言葉が上手く出てこない。
「環…」
「俺はどこにも攫われたりしない。言ったでしょう。ずーっと一緒に、って」
「ッ……そう、やったな」
その言葉にほろほろと焦燥感は溶けていって表情が明るくなるのを感じた。環も同じように思ったらしくふわりと微笑んでくれた。
一方的な不安を瞬時に取り除いてくれる姿は恋人を通り越して女神のようだ。
嗚呼、離れるのが惜しい。
出来ることなら目の前の微笑みごと掻き抱いて愛らしい唇をこの場で塞いで彼の腰が砕けるまで味わい尽くしたい。
そんな欲に塗れた衝動に駆られるがそのとろけた表情を見ていいのは自分だけだと言い聞かせて思い留まる。
「環、帰ろ。帰って、もっとキスさして。環はどこにも行かんって実感さしてや」
「ファット……しょうがないですね。晩御飯、あり合わせでもいいんですか?」
「構わへんよ。味見しながら、一緒に作ろ」
「…うん、わかった。早く…連れて帰って」
ほんのり色づく頬と優しい上目遣い。
しっかりと指を絡めて繋ぎ、彼がきゅっと握り返してくれたのを合図に春の風を切って家路を急いだ。
環が少し振り返る。
小さくなっていく桜は、変わらず美しかった。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
走って数分、少し息を乱しながら玄関の前に着いた。
ガチャガチャと鍵を若干乱暴な動作で開けて中に入り、バタン!と扉を閉める。
靴を脱ぐのも惜しくて立ったまま環を掻き抱いて唇を奪った。
「んっ…!ふ、う……んんっ…」
戸惑う舌を自分のそれで導き出し、絡めては吸って口内を堪能する。歯の羅列をなぞって柔い粘膜を舐れば環の目尻は赤く染まり、熱い雫が光った。
息継ぎをする暇を与えてやれず夢中で口づけを交わす。
環とのキスは甘い。そして今日はいつもの三割増で甘く感じてこのまま愛しい唇を味わい尽くして頭も身体も溶け落ちるまで繋がっていたいと思ってしまう。
そんなことを考えていると流石に息が苦しくなったのか環が力ない手で背中を叩いてくる。
離したくない気持ちを抑えて唇を解放した。
「っはあ、はあ……んっ……ファ…ット……加減、してくださいっ…」
「す、すまん……離れとうのうて…」
不安の消えない表情で言うと環は照れながら困った顔をしつつ右手を絡ませて優しく握ってきた。
「…ちゃんと、ファットの傍にいますし今日は…ファットの気が済むまで離れないから…ゆっくり…して?」
深く弱い部分を唯一晒せる恋人に潤んだ上目遣いで言われては自制など効く筈もない。
この場でもう一度唾液で濡れる唇を奪いたくなったがなんとか我慢して玄関を上がった。
リビングまでは遠く感じて一番近い寝室に入る。
ベッドに環を押し倒して絡めた右手はそのままに、左手も同じように絡めてシーツへ縫いつけた。
ゆっくりと言われたのに、と思って環の表情を伺うと慈しむような瞳を向けられて堪らず唇を塞いだ。
「ん…っ…は、んぅ…っ……」
普段なら無意識にやってるのに今は全然できなくてゆっくり、優しく、と考えながら口づける。
くちくちと粘膜の擦れる音が心地よい。
ゆったりとお互いの熱を交換するようなキスを繰り返す内に不安な気持ちは少しずつ薄らいでいった。
滲んだ球体が揺らめいてそろそろ息継ぎをさせねばとキスを止める。
「ふあっ……ん…っ…はぁ……っん…」
「ごめんな…環、苦しかったやろ…」
「ううん……ファット…気持ちいいから…もっとして、いいよ…?」
「ぅ……な…なんでそんな煽るようなことばっかり言うてくるん…?」
「だって…ずっと泣きそうな顔してるから…可愛くて…」
「可愛いて…年上の余裕ものうてがっついてるおっさんがか?」
「ファットだって俺のこと可愛いって言うくせに」
「それはそうやろ…環は可愛いんやから」
「…だったらいいだろ…恋人のこと可愛いって言っても」
「っ…なんや、今日の環は男前やな」
いつも可愛いとばかり思っていた環が年相応の青年に見えて笑みがこぼれる。
「……やっと笑った」
「へ…」
「やっぱり、笑ってる方が似合ってる。でも弱ってるファットも可愛くて、俺は好きだよ」
「…っホンマ、環には一生適わんな」
「…ファット」
「ん?」
「ファットのこと、ぎゅってしたい」
「…嬉しいわぁ。ちょっと待ってな、今横んなるから」
「ううん、そうじゃなくて…」
ベッドでは横になった自分にぎゅっとくっついてくることが多かったのでそれを提案したが違うくっつき方をしたいらしい。
今日は環の望むようにしよう、と思った。
「うん、そう。顔がここら辺にくるようにして」
言われた通り環の胸あたりに顔がくる形で上に乗って体重をかける。腕は程よく引き締まった腰に回してくっつくと布越しに環の体温を感じた。
「重ない…?」
「重くないって言ったら嘘になるけど…この重さがファットとくっついてるって実感できて、安心する」
「んええ……可愛すぎやろ…」
「ファットの方が可愛いよ」
恋人の胸元に漂う猫っ毛。
壊れ物を扱うように優しく丁寧に形の良い指で髪を梳かれて撫でられる。
これは正に自分から彼に対する触れ方で、意識して再現してくれていることに愛しさが込み上げた。
そうして時間を忘れるほどに心地よい感覚に耽る。環の心音も子守唄のように響いていつの間にか瞼が下りていた。
「…ファット?」
「………すー…すー…」
「寝ちゃった…」
環の可愛らしい囁き声と撫でられる気持ちよさに酔いしれながら、意識を手放した。
「おやすみなさい、太志郎さん…大好きだよ」