恋も愛も余談 私はこの街が嫌いだ。
私が生まれ育ち、少女と呼ばれる時期を過ごした街。かつて漁港と温泉観光が盛んだった、今はただ潮と廃油のにおいだけがする、薄汚れた灰色の街。私の実家はよく言えば抒情的な、悪く言えば埃をかぶったような商店街の片隅で、代々続く小さなパン屋を営んでいた。このしみったれた街に嫌気が差して都会に飛び出してみたものの、理想と現実の差に夢破れ、一昨日に部長の机に辞表を叩きつけてこの街に舞い戻ってきたのが、ひとり娘のこのわたしというわけだ。
家業としてのパン屋はすでに街に残った兄が継いでいるのだが、働かざる者食うべかざるというのが我が家の方針であり、実家に転がり込んだ翌日から店に立たされることになった。とはいえ、パン作りではなく店番のほうだ。厨房で父と兄が黙々とパン生地をこねている間、私は店先に焼き立てのパンを並べ、パンをひとつひとつ包んで笑顔とともにお客に手渡す。
お客はほとんどが商店街の住人であり、昔から見知った顔ぶればかりだ。「都会から逃げ帰ってきた娘」に裏で何を言われているのかには興味はないが、表向きは私は概ねかわいがられ、数年ぶりのこの街にも無事に受け入れられていた。悲しいことに、あれだけ毛嫌いしていた場所に馴染んでいるともいえた。
小雨の降る気怠い昼下がりだった。お客の足が途絶え、眠気に抗いながらカウンターにつっ立っていると、ふいにからんころん、とドアベルが軽やかに鳴った。あわてて姿勢を正して開いたドアの方向を一瞥して、私ははっと目を見張った。
青だった。それはもう、この曇天を切り裂くように鮮烈な。凡そ人並みな姿かたちをした彼をいちばんに印象づけてしまうくらい、澄んだ青色の瞳だった。やや癖のある黒髪から雫を飛ばしながら、彼はこちらを見てふにゃりと照れくさそうに笑い、ゆっくりと丁寧に傘を畳んだ。このあたりでは見慣れない青年だった。観光客だろうか。寂れたとはいえ一応は海を擁する観光地ではあるので、旅人が訪れることが極端に珍しいわけでもなかった。しかしここは街の名物を置いているわけでもない、ただの一介のパン屋なのだが……。
そんな私の思案も知らず、彼はいそいそとトングとトレーを手に取り、ちょうど焼き立てのパンを並べたばかりのテーブルに近寄った。テーブルの端から端までじっくりとながめながらうろうろとする様子はまるで子犬のようだ。
やがて青い瞳はいくつかのパンを見定めると、そこからは手際よくパンをトレーに取り分けていった。食パンを一斤、チョココロネをひとつ、それから定番のメロンパンと、バターとピューレを練りこんだ人気商品のプレミアムメロンパンを見比べてわずかに迷って、プレミアムメロンパンを選んだ。
そのままカウンターにまっすぐに向かってきた彼に、私は彼を観察していたことが伝わりやしないかと内心どぎまぎしつつ、それでもできるかぎり自然に笑みを浮かべてみせた。
ジャケットの内側から色が深くなった革財布を取り出しながら彼もにこりと微笑む。かたちのいい唇がほころぶ。
「ご近所に素敵なパン屋さんを見つけられてうれしいです。オレ、最近ここに越してきたんです」
えっ。
あなたが、こんな街に?
私は彼の笑顔の前に口から飛び出しかけた言葉を飲みこんで、パンの詰まった紙袋をさげて雨上がりの赤煉瓦造りの通りを歩いていく彼の後ろ姿を見送った。
それから、彼は週にいっかいは店にやってきてパンを買う。
私がパンを包み、彼が支払いを済ませるまでの間、愛想笑いで挨拶と、お客が少なければ二言三言世間話を交わす、それだけの関係だった。毎日焼き上がり、季節の移り変わりごとにすこしずつ装いをかえるパンたちをきらきらとした瞳で眺めるくせに、彼は結局同じパンを買っていった。ときどき他のものに手を出してみることはあれど、いつも必ず食パン、チョココロネ、プレミアムメロンパン。
「こどもっぽいかもしれないけど、いつまでたってもチョコが好きで……」
彼はいつも照れくさそうにそういいわけをして、ずっしりとした紙袋を受け取る。そのくり返しだった。
あまりにまっすぐなルーチンに、いっそ何かの罰ゲームか苦行なのかも、とすら思ったこともあった。
彼はとてつもない偏食の物好きなのかもしれないし、選んだひとつをとことん突き詰める人間なのかもしれなかった。
週末に雪が降った週明け、彼ははじめて店に顔を出さなかった。
店じまいの時間が近づいた頃、わたしは一日のなんともいえない座りの悪さに、あの平凡な、それでいてどこか浮世離れしている常連の来店が、もはや日常的なサイクルとなっていたことに気づいた。しかし彼にだって都合やハプニングはあろう。他にもっと洒落ていておいしいパン屋を見つけたのかもしれないし、例え彼がまたどこかに引っ越していたとして、やっぱり私には何の関係もないのだ。ぐっと伸びをして、床でも掃こうかと思ったとき、ふいにドアベルが控えめに低く鳴った。
反射的に顔をあげたとき、わたしはどんなに間抜けな顔をしていたのか知れない。
それはひとひらの蝶を見つけたときのような。
切り取られた一瞬の時間の停滞。
とても美しい男がそこにいた。
透き通るように白い肌、そしてまた、青。
けれど彼の瞳は深くてくらい海のような青だった。
節くれだった長い指先がドア横のトングとトレーを確かめるように握る。表情の読めない青い瞳がふっと店内を見渡すと、地味な黒のコートの上に散らばる金髪がさらりと輝いた。
売れ残りのパンを寄せ集めたテーブルの隅に目を止めた彼は、そのまましばらくじっとパンの群れを見つめていた。やがて静かに差し出されたトングが、まるで壊れもののようにパンをつついた。何故だか私まで緊張してきてしまい、固唾を飲んで見守る。果たして彼が不器用にトングを鳴らしながら取り分けたのは、食パン、チョココロネ、最後のひとつのプレミアムメロンパンだった。
カウンターでどうにも見慣れたパンを包んでいるあいだ、突然結ばれた点と点に、私の頭は下世話な推理でいっぱいだった。彼はいったい誰なんだろう。
「彼」の友人なのだろうか。
もしかしたら「彼」のかわりにこの青年がここに来なければならない理由があったのかもしれない――。
悶々としていると、呆れるようなため息が聞こえた。空想が弾けると、片眉を跳ね上げていたずらっぽく微笑んだ青年が、黙ってカウンターに置いた紙幣を指さしていた。
あわててパンを袋詰めにして会計を済ませながら、私はついうっかり口を滑らせた。
「その……お好きなんですかね?メロンパン……」
にこやかな美貌がぴしりと固まった。
「……すき……?」
たったそれだけの呟きでも、初めて発せられた彼の声は明朗でよく響いた。
わずかにさまよった青い瞳に、私は直感した。
これは、困惑だ。
瞬きののち、さっと精巧な人形のような顔に戻った彼は、紙袋を受け取ってさっさと店を出ようとする。
咄嗟に彼に声を掛けようとしたけれど、言うべき言葉が見当たらずに、私は途方に暮れて立ち尽くした。
びゅうっ、と重々しく開いたドアから冷たい夜風が吹きこんだとき。
「――ああ、あの馬鹿だけれどもね。風邪を引いて寝込んでいるよ。どうも、ご心配ありがとう」
きゅっと唇を歪めた彼は、今度は本当にたのしそうに笑っていた。
嵐のように去った男にあっけに取られながら、私はいくつかの違和感をすっかり拾い損ねていた。
それから季節はひと巡りして、花が咲き、風がほの甘く香る。
あの夜以来、元気になった「彼」はまた毎週のように店を訪れるようになり、それからは時折、ほんの時折だが、「彼」もいっしょに店に現れることがあった。彼らはやはり毎回同じパンを選び、毎回「彼」が紙袋を受け取って、ふたり連れ添って赤煉瓦の通りを歩いていく。
それはパン屋の娘である私にとって日々の営みの一部であり、しかしやはりどこかつかみどころがなく、彼らの並んだ背中にはるか遠い空だか、海だかをながめている心地になるのだった。
「でも、オレもここのパンが食べられなくなっちゃうのはさみしいなあ」
だから、彼の口からその言葉が出てきたことにもさして驚きはなかった。
むしろついにこの日がきたか、と神妙な気持ちにすらなった。
「また、お引越しなんですか。大変ですね」
すっかり慣れた手つきでパンを包みながら、当たり障りのないやり取りをする。
果たして、彼らは来週も店にくるだろうか。
もしかしたらこれが最後になるのかもしれないな、と思いながら、やはり私の心は凪いでいた。
「ええ、でも意外と楽しいですよ。旅の道連れがいますしね」
眦をうっすらと染めながらちらりと見やった先には、店の隅で退屈そうに佇む彼の姿があった。
最後の最後に惚気ていったなあ……。
私は彼らのことを何も知らないのに、なんだか感慨深くなって、肩口で切りそろえられた金髪を指先で弄っている彼をぼんやり見つめていた。ふいにばちりと深海の瞳に射貫かれ、また口先だけでにっと笑った美貌に、あわてて手元に目を落とす。
「お待たせ、」
紙袋を抱えた青年が、しっぽを振る子犬のように彼に駆け寄っていく。
青年の声にふっと顔をあげた彼は、うすい唇をつぐんで、きゅっ、と両目をすがめた。
そのとき、私はずっと勘違いをしていたことに気づいた。
「彼」が本当に笑うときは、まるで間近で星の瞬きを目にしたかのように、とても眩しそうに瞳を細めるのだ。
彼らは街を去り、私はあたたかい小麦とバターの香りにまみれながら、ここで頬杖をついてパンを売り続ける。
愛することとは、古びることだ。
あれほど忌み嫌い遠ざけたこの街が、いつか私が、誰かが帰るための古巣となっていく。
新しい街で、彼らがまたよいパン屋に巡りあえますように。
願わくばまたこのしみったれた街に、うちのパンを食べにきてください。