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    kappam

    @tge4nwto

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    kappam

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    実弟ちゃんオンリーで展示した短編で、死神になった実弟ちゃんが老人になったウィを迎えにいく話です。

    色あせた名前 誕生日が命日になった。
     苛々した気持ちのままウィリアムは数日を過ごした。ストレスの原因は、酷い死に方をしたことよりもその後の手続きにあった。まずは、名前。何よりも、名前。ウィリアムの前に出された「通知書」に記載されていたのは、ウィリアムではなく養子の三男だったのだ。おそらく同時に死んだであろう他の面々はとっくにあの世へ行ったのに、ウィリアムだけが「本人の名乗りとこちらにきている情報が一致しない」と言われ手続きが保留になっている。
     とにかく、待つしかないようだ。仕方なく、市中をぶらぶらとすることにした。
     僕をこんな目に合わせた奴らは?
     つい気になって諸悪の根源を探し出すと、彼らは後見人の屋敷の庭で仲良く談笑していた。
    「ウィリアム、ルイス、そろそろお茶の時間だよ」
     兄の声に思わず振り返る。悪態をつこうとして、声が届かないのを思い知る。声だけではない、その姿も彼らの目には映らない。そうだ、僕は死んでいるんだっけ。どこか冷静なもう一人の自分がいた。
    「はい、兄さん」
     ウィリアムの代わりに嬉しそうに答えたのは、あの憎らしい金髪の少年だった。
     僕はこいつ、こいつらに殺されたんだ。叫んで回りたかったが、無駄な足掻きになりそうでやめた。もう、何もかも手遅れだ。それに、自分たちを上回るずる賢さに脱帽している部分もあった。完敗だった。ここまで悪知恵の働く奴らとわかっていたらビジネスパートナーとしてそれなりに上手くやっていけたのかもしれない、とも思った。
     屋敷に戻っていく兄弟を見届け、ウィリアムはロンドンの中心地を目指した。広場を抜け銀行や商店が並ぶ通りに出て、角にある郵便局の扉を開ける。ここが「手続き」を行う場所だ。中へ入ると五人の男女が長椅子に腰かけ呼び出しを待っていた。
    「ねぇ、まだ?」
     ウィリアムは窓口にいる職員の一人に話しかけた。申し訳ありません、と男が頭を下げる。
    「何度も確認したのですが、私どもにきている情報と、あなたの仰る『モリアーティ家次男のウィリアム』が一致しないんですよ。ええ、たしかにあなたはモリアーティ様です。ですが、『モリアーティ家の養子の三男』のはずなんです」
     窓口の冴えない中年男は困った表情で頭を掻いている。
    「だから、僕はそんな名前でも身分でもないって何度説明したらわかるわけ?」
    「しかし書類上、あなたは昨年からモリアーティ家に養子となっていて、不幸な火事で亡くなった……」
    「いやだから違うし」
    「そう言われましても、困ったなあ……どうしましょう、とりあえず上に苦情として訴えておきましょうか」
     ウィリアムのしつこさに多少でも信憑性を感じたのか、男はすぐに書類を作ってくれた。ただ、確定されない以上はウィリアムはウィリアムと認められず、死んだ養子の三男として死神業務に携わることになった。
     
     文句を言いながら仕事をこなしていくうちに、ウィリアムはベテランの死神になっていた。不真面目で適当な仕事ぶりが「湿っぽくならずにさっさと気持ちよくあの世へ行けた」と客からはかえって好評で、上層部からも仕事が早いと褒められ、いつの間にかそれなりのポジションに出世していた。
     途中、同僚の顔ぶれが何度も変わった。ある程度役目を果たせば「あちら側」へ行けるから、たいていの者は長くは留まらない。だから残っているのは変わり者ばかりで、おかげで退屈とは無縁で過ごせた。
     転機が訪れたのは一八七九年のことだった。十三年も前に訴えた苦情がようやく受理され、ウィリアムの人違いが証明されたのだ。
    「お待たせして申し訳ありませんでした。しかし、よかったですね」
     ウィリアムは一通の黒封筒を窓口の男から受け取った。
    「あの時、間違ってお渡ししてしまった通知です。本来受け取るべき方へお届けください」
     行き先は、建設中のタワーブリッジだった。ずいぶん街の景色も変わったものだと観光客の気分で赴いた。
     ウィリアムが橋に到着した頃には、騒ぎは収束しかけていた。名探偵と犯罪卿、世紀の対決。決着は夜明け前についたようだ。現場は静かだった。ロンドンの街のあちこちから上がっていた火も鎮火され、空が白みはじめている。
     彼は橋の上部、崩れた足場の近くに立ち、自らが落ちた川の流れを見下ろしていた。
    「派手に暴れたみたいだね」
     ウィリアムは彼の背後から声をかけた。
    「……やぁ、久しぶり」
     振り返った彼の表情からは、その心を占める感情を読み取ることはできなかった。怒り、悲しみ、安堵、喜び。多分、どれも。
    「君がここにいるということは、僕はもう死んでいるんだろう? 行き先は地獄ってやつかな。散々酷いことをしてきたから」
     いや、少なくとも「怒り」はない。ウィリアムが知る彼とは違うからだ。以前の彼には強い怒りが滲んでいた。
    「半分正解、半分はずれ。たしかに僕は死が確定した者の前にしか現れない。でも、僕たちはまだ境界線にいる。つまり君の心臓はまだ動いているけど、間もなく止まるってこと」
    「……そう、よかった。ちゃんと僕だけ逝けるんだね」
     言葉とは裏腹に、彼はどこか寂しそうに見えた。
    「僕が死ぬ時はきっと君が来るんじゃないかって思っていたんだ。恨み言、たくさんあるだろう?」
     違う。寂し〝そう〟ではない、寂しいのだとウィリアムは理解した。寂しさは、イコール未練だ。何が「よかった」だ、白々しい演技をしやがって。そう言ってやりたくなった。おかげでこれからやろうとしていることへの自信がついた。
    「恨み? ああ、あるよ」
     ウィリアムは大きく息を吸ってから一気にまくし立てた。
    「ありすぎて時間が足りないね……ま、とりあえず。君が手をかけた貴族たちを送り届けたの、僕だからね! 最後のほうなんか調子に乗って殺りまくったろ短期間にバッサバサと。おかげで休日出勤だよ繁忙期でもないのに。前々から事故に見せかけたりしてやってたのもバレてるからね僕には。あと何なのさ兄さんの前でだけぶりっ子してベタベタと甘えちゃってキモいんだけど」
     彼は最初驚いた様子で目を見開き聞いていたが、ウィリアムが話し終えると楽しそうに笑った。ウィリアムの態度から全てを悟ったようだ。
     
    「おや、ありがとう助かったよ。キモいのは個人の感想だからそれにはノーコメントだ」
    「それだけ? 奴ら、犯罪卿被害者の会を作ろうとして、危うく僕が会長になりかけたんだからね」
     これ以上余計な仕事を増やされてはたまったものではない。ウィリアムが彼を睨みつけると、彼は今度は顎に手を当て考え込むそぶりをした。
    「それは気の毒だが、ちょっと見てみたかったかも……」
    「まったく、どこまで僕に迷惑かけるのさ」
    「大丈夫。もう君の手を煩わせないよ。ぶりっ子も、やりたくてもできないし」
    「だといいんだけど。残念ながらそうもいかないんだ」
     ウィリアムは大げさに肩をすくめ、胸ポケットから黒い封筒を取り出した。
    「これ、何だと思う? 僕が人違いだって訴えて、十三年も経ってやっと受理された。だから今頃になって遅れて通知がやってきた——君宛の、死亡通知」
    「そうか。死んだ後まで迷惑をかけてしまったんだね……すまない」
    「マジで文字を見るだけでムカつくんだよね。で、むしゃくしゃした時はさ」
     こうしてやる。宣言するなり、ウィリアムは死亡通知を破き始めた。紙切れはすぐに風に乗り、花びらのように散っていった。彼はかつての自分の名が紙屑になっていくのを静かに見守っていた。
    「通知がなければあちら側へは連れていけない。だから、君には元の世界に戻ってもらう」
    「つまり、『僕』の死は無効になったということか」
     そうだよ、とウィリアムは頷く。
    「だいたい勝手すぎるんだよ。勝手に僕の兄さんと名前を奪っておいて、勝手に犯罪卿なんて名乗っちゃって、勝手に死にたいんです〜なんてさ。そう簡単に死なせるもんかってなるじゃん、こっちは」
    「たしかにその通りだ。僕が君でもそうするね」
    「僕への悪業を振り返ってあっちで大いに反省しろよ、他の奴らのことはどうでもいいから」
    「……わかった、努力する」
     彼は嬉しそうだった。先ほど垣間見えた寂しそうな表情はどこにもなかった。
    「もう一つ。名前のせいで散々な目にあったんだよね。地上のほうがあっさり相続手続き終わってるし。兄さんが全部財産継いではい、終わり。いいよねーそっちは単純で」
    「そうでもなかったさ。それなりに家や土地、株なんかもあったしね。ただ、『お前たちは学業に専念しなさい』って面倒な手続きは兄さんが全部やってくれたから、僕はあまり詳しく知らないけど」
    「なにそれボク兄さんに愛されてるんですぅっていうマウント?」
    「事実を述べただけだが、そうとも捉えられるね。物事には色々な側面がある。貴重な気づきを、どうも」
    「ふん、まあしばらく汚い地上で泥水啜って足掻いてな。今度こそ、おどろおどろしく死の宣告しに行ってやるから」
    「待っているよ」
     嫌味を言いあっているうちに、空と街の境目がオレンジ色に染まってきた。
     時間だ。
    「また来るよ、面倒くさいけど」
     戻ろうとするウィリアムの背中に「ありがとう」と彼の声が被さる。
    「次君に会う時は、ちゃんと君を恐れるような人生にしているから」
     夜明けのロンドンの街へ向け、ウィリアムは橋から飛んだ。彼がどんな顔をしているかわかっていたから、返事も、振り返ることもしなかった。
     
     結局、ウィリアムが彼を連れ帰らなかった件についてのお咎めはなかった。上層部もミスをした後ろめたさもあったのだろう。ウィリアムが訴えを取り下げ、そもそも訴え自体を「無かったこと」にして、全てが終わった。
    「正直なところ、あなたの名前が違ったって私たちはどちらでもいいんです。中身があなたであれば。また一緒に仕事ができて嬉しいですよ」
     窓口の男はそう言って笑った。すぐに日常が戻ってきた。
     
     それからしばらく彼に会うことはなかった。その間、目まぐるしく世界は変わった。
     女王の時代が終わった。世界を巻き込んだ大きな戦争があった。戦後、普及した腕時計がウィリアムたちにも支給された。株券が紙屑になり、失業者が溢れた。女性の服は軽やかで動きやすくなり、馬車に代わり自動車が道を塞ぎ、飛行機が空を飛んだ。映画が流行った。ラジオから音楽が流れてくるようになった。ジャズが好きだと、ウィリアムは思った。
     それにしても、戦争中は多忙で大変だった。短期間で多数の死者を相手にする羽目になったのだ。ドーバー海峡を越え、初めての海外出張も経験した。「あいつ」がウィリアムの名を騙り殺害した貴族たちなど、微々たる数だったのだと痛感した。
     彼に再会したのは、戦争から約二十年が経った一九三四年の春だった。
     ウィリアムは早速彼の居る家へ足を運んだ。
     住所は、かつてモリアーティ家の別荘があった南部のリゾート……ではなく、コーンウォールの海辺にある別荘地だった。弟に最善の療養を。あの兄のことだ、ロンドンから近い賑やかな町ではなく、静かで風光明媚な土地を選んだのだろう。当時と違い交通網も発達している。ロンドンの本宅とも気軽に行き来できる。
     綺麗に刈られた芝生を横目に、丘の上の白い家を目指す。その日は穏やかな晴天で、庭にはたくさんの花が咲いていた。
     先ほど窓口から渡された封筒を開け、名前を読み上げる。
     ——ウィリアム・ジェームズ・モリアーティ。
     今度こそ、本物だ。名前が記された通知を封筒に戻し、朝日が差し込む二階の角部屋を見上げる。軽くステップを踏む動作をして宙に浮き、目当ての部屋の窓の前で止まった。
     ドアから入るな、窓から行け。ただし、服装は自由。この仕事のルールだ。そのほうが「それっぽい」演出だから、と聞かされていた。
    「いかにもってかんじだけど、微妙に恥ずかしいんだよな……」
     ぼやきながら中へ入る。正面にある大きなベッドには、一人の老人が寝ていた。伏せっていた、と言い換えたほうがいいかもしれない。死期が近いのは明らかだった。
    「……やぁ、久しぶり」
     老人は顔だけを窓辺へ向け、優しく微笑んだ。緋色の瞳には以前の射抜くような鋭さはどこにもなかった。けれど今のほうが深みが増していて、積み重ねた年月がどんなものだったのか簡単に想像がついた。
    「しばらく見ないうちにずいぶんと老けたね、皺だらけじゃん」
     一瞬、人違いじゃないかって焦ったよ。ウィリアムが嫌味を言うと、老人は懐かしそうに目を細めた。君は変わっていないね。小さな声が返ってくる。
    「さすがにもうすぐ八十になるからね。でも、同世代に比べたらまだイケてるほうだと思わないかい?」
    「さあ。年寄りはみんな同じに見えるからわかんないや、ノーコメントだな」
    「心外だ、あの頃とそれほど変わらないよウィルは美しいままだって兄さんによく褒められるんだけどな」
    「……ノーコメント」
     ウィリアムは遠慮なく老人のもとへ近づき、見舞い客用と思われる椅子に腰かけた。
    「まあまあのセンスだね」
     室内は最近流行りの都会的な雰囲気とは無縁で、柔らかい色調で統一されていた。懐古主義になりがちな老人の静養にはちょうどよい空間だ。
     部屋を見回すうち、ベッドサイドのテーブルに置かれた新聞が目に止まった。
    「階級制度だ帝国主義だと騒いだ次は独裁者の台頭か……」
     紙面は拡大するファシズムへの警戒で溢れていた。また時代が変わる前触れを予感させる、不穏な見出しだ。
    「戦争の時は酷かったな。こっちは人手不足で大陸まで行かされるし。長蛇の列ができちゃって、列をさばくのに時間かかっちゃってさ。ああいうの、面倒だからもう止めてほしいんだけど難しそうだね……時代の流れってやつ? 次から次へとキリがない」
    「ああ、だけど諦めてはだめなんだ。抗って、努力し続ける姿勢と行動が大切なんだ」
    「ふーん、汚いことばっかりやってきて綺麗事言うんだ」
    「今の君なら悪くは思わないだろう?」
    「まぁね、嫌いじゃない。君たちのことだ、どうせ今も裏でこそこそ動いているんでしょ」
    「手は尽くしている」
    「でも、君の命は尽きかけている」
    「そうだね。だから君がここにいる。今度こそ、本当のお迎えだろう?」
     彼の問いにウィリアムは頷き、お決まりの黒い封筒を彼の前でちらつかせた。
    「迎えが僕で不満かな?」
    「そんなことはない、光栄だよ。君のほうはまだこの仕事を続けているんだな。想像はついていたが」
    「そうだよ、この日のためにね。なかなか通知が来ないから待ちくたびれちゃった」
    「本当はもう一人、連れて行きたい人がいるよね? ただ、あの人は僕よりもずっと長生きだ。これも想像通りではあるが……残念だけど、君はまだしばらく待つことになる」
    「ほんっと残念。まさか、死にたいよ〜なんて言ってた奴らが天寿を全うしちゃうなんてね。バカみたい」
    「実際バカなんだから仕方ないさ。大目に見てほしいな」
    「嘘つけ、自分のことバカだなんて思ってもいないくせに」
     バレた? と彼は悪びれもせず言った。それから急に真顔になり、すまない、と続けた。
    「名前、結局君から奪ったままで返さなかった。これについては謝るよ、申し訳なかった。まぁ、謝罪はしてもかたちばかりで正直悪いとは思っていないが、一応ね。大人だから」
    「ふん、今さらすぎ」
    「あの人の弟でいたかったんだ、ずっと」
    「……それは知ってる」
    「こんな穏やかな終わりでいいのかな」
    「さぁね、決めるのは僕じゃない。もちろん、君でも世間でも、あの人でもない」
     ウィリアムは新聞の一面を飾る独裁者の顔を封筒で隠した。それから「名前の件だけど」と彼に向かって言った。
    「名前、君にあげるよ……君がこれから『ウィリアム・ジェームズ・モリアーティ』だ。あ、勘違いしないでよ? あくまでも今後の手続きの手間を省くっていうのが理由だから。ていうか、あの後僕が訴えを取り下げたから、ウィリアムはこっち側ではとっくの昔にもう君になってたんだけどね」
    「ありがとう。最後に最高のプレゼントをもらってしまったね」
     ウィリアムが笑う。つられて彼も笑った。
    「めいっぱい感謝しろよな。今までは非公認だったんだからさ」
    「名前譲ってもらったから、兄さんのお迎えも僕に譲ってくれないか」
    「うわ、ジジイ早速調子に乗ってるよ」
    「兄さんが目を閉じる時は、美しい世界が広がっているといいな」
    「はいはい、ブラコンは死んでも治せない、か……」
    「治す? そんな必要はないさ。それに、死んでもなおブラコンでいられるなんて名誉なことじゃないか」
    「ホンモノじゃん……こわっ」
    「そういえば、いつ連れて行ってくれるんだい。僕の認識が正しければ僕はまだベッドの中にいる。それとも、もう死んでいるのかな」
     ウィリアムの疑問はもっともだった。彼は一度出した封筒をポケットに戻し、腕時計で時間を確認した。
    「まだくたばってはいないよ。さっき正式な謝罪があったから、寿命をサービスしてあげているんだ。心がこもっていなくても謝罪は謝罪だからね。僕も大人な対応をするようになったわけ。その代わり、最後まで兄さんの前ではぶりっ子してろよな」
    「さすがに恥ずかしいよ。もう、お爺さんだし。それに僕が死にそうだからって皆も駆けつけてくれている」
    「皆って、どうせ昔のお仲間だろ? 奴らもとっくに気づいてるでしょ。これも今さら。何言ってんのってかんじ」
    「たしかに。じゃあ、お言葉に甘えてちょっと挨拶させてもらうよ、ぶりっ子しながら」
    「挨拶は好きにしな。待っててやるから」
    「月並みだけど、『ありがとう』を改めて伝えたいんだ」
     ウィリアムは満足げな笑みを浮かべ、最後の舞台に備え目を閉じた。
    [#改ページ]

     カーテンが風で揺れている。廊下から人の近づく気配を感じ、彼は顔を上げた。聴診器を下げたドクターがナースと一緒に部屋へ入ってくる。
    「ご家族を呼んでくるんだ、早く!」
     ウィリアムの異変に気づいたのはさすがプロというべきか、ドクターが素早くナースに指示を出した。おかしいな、まだ少しは持つと思っていたのだが……ところで、いったい誰が窓を開けたんだ? ドクターの怪訝そうな呟き、慌ただしく遠ざかりまた近づいてくる足音、ウィリアムの名を呼ぶ声。そのうち一人、また一人とウィリアムを慕う者たちが顔を出し、彼らを取り囲んだ。周囲はにわかに騒がしくなった。
     先ほどまで彼が占領していた椅子には頬に傷のある老人が座り、ウィリアムの手を握っていた。彼は集まった面々の間をすり抜け、窓から離れた側の枕元に立った。
    「なんだか〝僕〟がもう一度死ぬみたいだ」
     ふと、目の前の光景こそ思い描いていた理想の最期ではないかと彼は思った。
     温暖な海辺の別荘で波の音を聴き、たまに来る見舞い客とどうでもいい昔話で笑う。世間からは忘れ去られた存在でも、信頼しあえる仲間がいる。死を悼んでくれる友人がいる。ときおり思い出話に登場して、話のネタを提供してやる。この仕事を始めてから夢想するようになった、平凡でつまらない、これ以上ない贅沢なエンディングだ。
     そして、家族。
     皆から少し遅れ、車椅子に乗った老人がメイドに連れられやってきた。
     その人もウィリアムと同じくらい皺だらけの老人になっていた。もう何年も自分の足で歩けてはいないのだろう。使い込まれた車椅子の状態から彼はそう推測した。けれど背筋はしっかりと伸びていて、うねりのある白髪まじりの髪は綺麗に整えられていた。上品な香水の匂いもした。
     兄さん。思わず口にした言葉は誰にも拾われず、消えていった。
    「さあ、こちらへ」
     周囲の者たちが次々と場所を空け、ウィリアムの枕元へ車椅子を寄せる。
    「ウィリアム」
     兄がウィリアムの手を取り弟の名を呼ぶ。もう一方の手を握っていた老人も「ウィリアム兄さん」と繰り返し声をかけている。
     いくつになっても人の声は変わらないものなのか。記憶にあるものと一緒だ。なんだい兄さん。譲った名前なのに、ウィリアムと名を呼ばれるとつい答えてしまうくらいだった。違う、兄が求めているのはウィリアムだ。〝僕〟ではない。わかってはいるけれど、ただ懐かしかった。
     彼はウィリアムの寝顔を覗き込み、その額を軽く小突いた。
     ほら、出番だぞ。舞台は用意した。さっさと最後の演説してきなよ。そう言って隣にいる兄を見た。見覚えのある緑色の目には、まだ生きる力が残っていた。
    「またね、兄さん」
     ウィリアムの目蓋がゆっくりと開かれる。周囲の歓声を背に、彼は窓辺へ移動する。これからウィリアム・ジェームズ・モリアーティによる幕引きのための幕が上がるのだ。そこに自分がいる必要はない。つい長居してしまったから、今後の手続きは早めに済ませなければいけない。そうだ、ウィリアムにも協力させよう。元はといえば全て、何もかも、あいつのせいではないか。そんなことを考えながら窓の外に目をやった。遠くに海が見えた。
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