214告白する勇気は、正直まだなかった。
けど、せっかくのバレンタインだから。
閉店間際のショコラトリーに駆け込んで手に入れた一箱。大事に抱えて帰ったら、さっき帰国したばかりの後輩が満面の笑みで待っていて。
「旭さん、チョコ食いましょう!」
バックパックから無造作に取り出されたカラフルなパッケージと、ラムの瓶。チョコレートとラム酒が土産だなんて、金曜の夜には最高の組み合わせじゃないかと感心したけれど、完全に自分のタイミングを逃した俺は、背中に箱を隠して苦笑いした。
それが、ほんの一時間前の事。
なのに一体なんなんだ。今現在の状況は?
高い体温と重みを感じる左肩に、俺の全神経が集中している。目は開いているはずなのに何も見えていない。少し鼻にかかった甘い呼吸音を拾った耳が、ピリピリと痺れる。程よく回ったアルコールのせいかもしれない。鼻息が荒くなりそうで、必死に息を止めた。
小さな頭が動いて、こちらを見上げる気配がした。こめかみの辺りに強い視線を受けて穴が空きそうだ。微動だに出来ずにいると、西谷はまた俺の肩口に頭を擦り付け、カシミヤのニットに遠慮なく皺を作った。
「アンタ…なんでそんなにイイ男なんスか…」
声の後に聞こえたのは、明確なため息。怒っているのか、呆れているのか、あるいは何かを諦めているような。言葉の意味を理解するより先に、反射的に「ごめん」が口をついて出る。ああダメだ。なんでそうやってすぐに謝るんだと、きっとまた叱られる。
だけど
相変わらずのマイナス思考でも、至近距離に西谷を感じるこの状況は、どうにも手放し難かった。時折ここへ泊まりにくる西谷の為に、思い切って買い換えた大きめのソファの上。まるで都合のいい夢をみているみたいで、少しでも身動きしたら目が覚めて、全部消えてしまうんじゃないかって。だから、ただ息をひそめる。出来るだけ長く、この幸運を味わっていられるように。
西谷は、俺を叱らなかった。その代わり少し間を空けて座り直すと、独特のざらついた甘さのチョコを一欠片と、ストレートのラムを口に含んだ。なんだかヤケクソに見えるその仕草にほんの少し緊張を覚え、ラムで濡れた唇と血色のいい丸い頬には、芳醇な香りを想像する。まだ、夢は覚めていないだろうか。
「さっきの箱」
不意に、西谷の視線がキッチンの戸棚へ。隙を見て押し込んだ箱が、確かにそこにある。
「早く、渡しに行ったらいいじゃねぇすか」
え、と思った直後、背中を強く叩かれた。
「相手、喜びますよ。アンタこんなにイイ男なんだから」
俺の目を覗き込んだ西谷は、笑っていた。いつの間にか大人びて、でも、寂しさを隠しきれていないその表情に、胸が締め付けられる。まさか、なんて考える前に、脳から盛んに送られる電気信号が、俺の体を突き動かした。
ソファから立ち上がると一瞬視界がブレたが、勢いのままキッチンに向かう。戸棚の奥から箱を掴んで戻り、西谷の隣に座り直して、深呼吸。濃厚なカカオとラムの香りが燻って、胸焼けしそうだった。
「西谷」
名前を呼ぶだけで心拍数が上がった。情けない事に手まで震えている。手のひらに収まる小箱は、こんなにも重かっただろうか。
「お前に、渡したかったんだよ」
受け取ってくれるだけで、構わないから。
目を丸くしている西谷にそっと差し出す。数秒間が途方もなく長く感じた。この沈黙の先は夢の終わりかもしれないけど、目を覚ました後、せめて今まで通りのお前でいて欲しいと願うのは、傲慢だろうか。
箱の重さがどんどんと増していくみたいだった。思わず手を引っ込めそうになったところで、小さな手のひらがひょいとそれを掴んで、傾け、裏返し、しげしげと眺めている。品良く並んでいたはずの中身が転がる、カタカタと軽い音がした。
「開けていいですか?」
頷けば、オレンジ色のリボンが躊躇なく解かれる。ひらひらと床に落ちたそれを気にもとめず、化粧箱を開けた西谷は、四つのマスに詰められたボンボンショコラの一粒をつまみ上げた。
「きれーっすね…」
きっと、最初にそれを選ぶと思った。真っ赤にコーティングされたルビーのようなチョコレート。シンプルなボール型の中には何を秘めているのか、興味をそそられる。艶やかな表面をしばらく観察した後、西谷はそれを口の中に放り込んで静かに咀嚼した。
「うめぇっ」
大きな瞳をいっぱいに開いた、無邪気な笑顔だった。純粋で素直で、高校の頃から変わらない、俺の大好きな顔。それが見られただけで十分な気がして、ほっと肩の力が抜ける。
「気に入ったんなら、よかった」
いそいそと二つ目をつまんだ指先の動きを愛おしく思う。次はピスタチオのトリュフだ。たぶん西谷は、抹茶味だと思っているだろうな。そんなところも可愛らしいと思考をふやかしていたら、目の前にずい、と寄越される黄緑色。
「はい!旭さんも!」
有無を言わさず押し込められるトリュフをなんとか受け止め、戸惑いを待ってくれない眼差しに急かされて、噛み砕いて飲み込んだ。
「うまいですか?抹茶味」
ほら、やっぱり。思わず笑ってしまって、西谷が首を傾げる。
ああ。なんだか、幸せだ。まだ夢は続いているのかもしれない。
「ねぇ、西谷」
呼んで、顔を近付けてみる。避けられないし、押し退けられもしない。幅の狭い肩に触ってみても、嫌がる素振りはなかった。
「西谷のは、どんな味だったの?」
教えて。願うように呟いたら、唇に柔らかくあたたかいものが触れた。フランボワーズの甘酸っぱい香りはロマンチックすぎやしないかと、こっちが口説き落とされている気分だった。
翌日。
俺たちの間で行われたやり取りを全く覚えていないという西谷が、実家に顔を出すと言ってビュンと去った後。俺は一人、皺だらけになってしまったカシミヤをせっせと手入れしていた。
ソファは、もう少し大きくてもいいかもしれない。
そんな事を考えながら。
了