その後の話◎
人は眠ることで記憶を定着させ、その過程で夢を見る。
悪夢とはすなわち辛い記憶の再演だ。
忘れたい、いいや忘れてはいけない。
相反する想いが苦しい時間を引き伸ばしていく。
「もうよい」
──声が、聞こえる。
「無理に思い出さなくてもよい」
今にも泣き出しそうな、震えた声が聞こえる。
「徒に苦しむだけなら忘れたままでよい」
これは憐れみ、いや気遣いの言葉だ。
「もうよいのじゃよ、水木」
でも。
「いやだね」
大人しく聞き入れてやるわけにはいかない。
「何故じゃ」
「不公平だからだよ」
俺はこいつの名前も顔も思い出せないのに向こうはこっちのことをよく知っている。
それがとても気に食わなかった。
「絶対に思い出すからもう少しだけ待ってろよ、 」
その言葉は、ずっと呼びたかった名前は、間違いなく自分の口から出た筈なのに、何故か聞き取れなくて。
けれど向こうの耳にはちゃんと届いていたのか、大粒の涙を零しながら笑っている、ような気がする。
ああ、やっぱり不公平だ。
俺にも教えろよ、こいつの名前を。
◎
「うーん……」
何か、とても大事なことを忘れているような気がしてならない。
墓場で拾った赤子の顔を見る度にそう思う。
「何だろうなぁ」
「う?」
赤子に問うたところで返ってくるのは言葉になりきらない声のみ。
まぁ当然といえば当然だ。
土の下から這い出てきただの生まれつき左目が無いだのと言っても所詮は赤子。
自分が生まれる前に起きたことなど知る由も無いのは当然だ。
「せめてお前の親父かお袋さんが生きてれば話を……」
聞けたかも、と言いかけたところで己の落ち度を思い出す。
あの時、自分に追い縋る包帯男の言葉に耳を傾けていたら。
怯えて逃げたりなどしなければ知ることが出来たのかもしれない。
その機会を棒に振ったのは他でもない自分だ。
「……ごめんな、こんな薄情者が養い親で」
せめて名前だけでも聞いておくべきだった、と悔いたところでようやく思い至る。
「そうだ、名前だ」
赤子の名前、赤子の両親の名前、そして赤子とよく似た顔をした男の名前。
「やっぱり、逃げなきゃよかった」
今となっては後の祭り。
赤子の両親が化けて出てくるでもしない限り答え合わせは出来ずじまいとなるだろう。
◎
ちゃぶ台の上に目玉が転がっている。
──いや、人であれば頭があるべき部分に目玉を乗せた小人がちゃぶ台の上に立っていると言った方が正確か。
尋常ならざる光景ではあるのだが、怖いとは微塵も思わなかった。
恐らくだがサイズ感のお陰だろう。
「お前、何者だ?」
「ワシは……」
暫し逡巡した後、目玉の小人はちゃぶ台の傍で眠っている赤子の方を見やる。
「ワシはこの子の父親じゃ」
「父親……っまさかお前、あの包帯男か?」
「……ああ、そうじゃよ」
「どうしてそんな……いや、まずは──」
その場で正座をして深く深く頭を下げる。
「なっ、何じゃいきなり土下座などして」
「事情も聞かずに逃げたことと、思い留まったとはいえお前の息子を殺そうとしたこと。その謝罪だ」
「お主……」
「お前も色々と言いたいことはあるだろうが、これだけは先に答えてくれ」
頭を上げ、目玉の小人をじっと見据える。
「お前とこの子の名前は何だ?」
「……ワシら妖怪に名は無い。人間が付けた呼び名を己の名として使っているものが大半じゃ」
「じゃあお前もこの子も名無しか?」
「いいや、倅には名を付けた。妻と共に考えた名じゃ」
「勿体振らずに教えろよ」
「鬼の太郎と書いてきたろうと読む。それが倅の名じゃ」
「鬼太郎……」
妖怪のセンスはイマイチ分からないが赤子──鬼太郎にとっては実の親が贈った大切な名前だ。
嫌うことが無いように手を尽くそう。
それがこの親子にしてやれる罪滅ぼしの一つだ。
◎
目玉おやじ──鬼太郎の実父が劇的な変化を遂げた姿に当たる目玉の小人を紹介された水木の母が最初にしたことは採寸だった。
「ご、ご母堂……」
「こら動くんじゃないよ」
今日何度目になるか分からないお叱りを受けた目玉おやじはひょえ、と小さく悲鳴を上げて姿勢を正す。
「……よし、じゃあ次は両腕を真横に伸ばしておくれ」
「こうかの?」
「そうそう、水平を保つんだよ」
竹製の定規を添えられた状態で水木の母が指定したポーズを維持することにもそろそろ慣れてきた、と目玉おやじが調子付こうとした一時間後。
「も、もう限界じゃあ……」
「はいはいご苦労さん」
ちゃぶ台の上で突っ伏す目玉おやじをよそに水木の母は裁縫の準備に勤しんでいた。
「時にご母堂、何故ワシの服を仕立てる必要があるのじゃ?」
「鬼太郎のためだよ」
「倅のため、とな?」
「子どもってのは親を手本にするもんだからね、父親のあんたが裸でいたらあの子も裸でいるのが普通だと思い込んじまう」
慣れた手つきで型紙を作りながら水木の母は淡々と言葉を紡ぐ。
「妖怪だろうと人間だろうとそういうところは同じとあたしは思うがね」
「ご母堂……」
「──で、最初に仕立ててもらったのがその着流しか」
「うむ、似合っとるかの?」
「……まぁ、悪くはないな」
「もっと率直に褒めんかい!」
「馬子にも衣装って言わないだけマシだと思えー」
「何じゃとー!」
目玉おやじと水木のしょうもない喧嘩が鬼太郎のむずがる声によって中断されるのはこれより二分後のことだった。
◎
龍賀製薬の社長とその親族の訃報が新聞に載ったのは水木が口止め料を握らされた三日後のことだった。
「大っぴらに騒がれたくないって魂胆が見え見えにも程があるだろ」
お陰様で懐は暖かくなったが、元より贅沢をするために金を欲していたわけではない身。
鬼太郎の養育費という体の良い使い道が無ければ持て余すことになっていただろう。
「……あれは不慮の事故で片付けて良いものじゃなかろうに」
「何だ目玉、龍賀製薬に知り合いでもいたのか?」
「哭倉村にはおったよ。本当に短い付き合いじゃったがの」
哭倉村。
龍賀製薬を経営する一族が生まれ育った地であり、原因不明の災害によって壊滅したとされる地。
「……奇縁って奴か?」
「何じゃ藪から棒に」
「俺もあの村には行ったことがあるんだ。そこで何をしたかはとんと覚えてないがな」
例えるなら特定のページを破り捨てられた日記、辺りだろうか。
「もしかしたらすれ違うくらいのことはしてたのかもな」
「……そうじゃのう」
目玉の奴が酷く寂しそうに俯いた理由を後に知った時、俺は自分の軽率さを呪った。
この仕打ちは、あんまりだ。
◎
墓場で鬼太郎を拾ってから三年余りが経ったある夏の日、水木は高熱を出して寝込んでいた。
「水木ぃ〜しっかりせぇ〜」
「とーしゃ、しかいぃ」
「目玉も鬼太郎も大袈裟に騒ぎ過ぎだ、寝てりゃそのうち治る」
「とてもそうは見えんぞぉ〜」
「大丈夫だ、って、」
「水木?どうしたんじゃ水木?水木ぃ!」
──ここは、どこだ。
山奥にあるのどかな村──いや違う。
此処は、地獄だ。
血液製剤の原材料として狩られた幽霊族。
一族の務めという体で凌辱される女たち。
理不尽な都合で未来を奪われた子どもたち。
歪な富の下で虐げられた者たちの怨念が蠢く地獄。
俺は、此処を知っている。
「──地獄ばかりを見てきたわけではなかろう」
そうだ、楽しいひと時もあった。
墓場で天狗の仕込み酒を飲み、あれこれ話した。
「……誰と?」
ぼんやりとしていた記憶が鮮明になっていく。
あの夜、共に酒盛りをしたのは──
「水木ぃ!」
「──、」
「ようやっと目が覚めたかぁ〜」
「とーしゃ、おきぁ」
「…………」
「む?どうしたんじゃ水木よ、さっきから黙りこくりおって」
はぁ、と深い溜め息を吐いて目玉を睨みつける。
「お前なぁ、そこまで見た目が変わったら分からねぇだろ」
「な、何じゃいきなり」
「そんな姿になってまで約束を守ってくれたんだな」
「っ……お主、まさか──」
「すぐに気づいてやれなくてごめんな、ゲゲ郎」
ああ、やっと呼べた。
夢の中でいつも泣いていたあいつの名を。
今目の前で泣いている相棒の名を。
「とーしゃ、いたい?」
「そ、そろそろ泣き止めよ。鬼太郎も困ってるぞ」
「お主のせいじゃろうがぁ〜……」
◎
記憶を取り戻した、と言っても鮮明に思い出せたのはゲゲ郎に関することだけ。
それ以外──例えば東京に連れて行ってやりたかったある子どものことは今もぼんやりとしか思い出せない。
哭倉村で体験したことを全て覚えているゲゲ郎に聞けば仔細な情報を得られるだろうけど、そこまで知りたいことでもない──というのは嘘だ。
正直なことを言ってしまえばあの子と向き合うのが怖い。
向き合ってしまえば間違いなく後悔の念に押し潰される。
──それは、駄目だ。
まだ幼い鬼太郎を放り出すわけにはいかない。
またゲゲ郎のことを忘れたくない。
ああ申し訳ない、恨めしそうな顔をしているお嬢さん。
臆病な僕のことをどうか許さないでください。
◎
夜の墓場に幽霊が出る。
そんな噂が流れ始めたのはつい十日程前のことだった。
「鬼太郎との散歩ついでに探してみたらどうだい」
「探すって、幽霊を?」
「ひょっとしたら鬼太郎の母親かもしれないだろう?」
「どうだかなぁ……」
可能性は、まぁまぁある。
もし母さんの予想通り幽霊の正体が鬼太郎の母親であるならゲゲ郎にも会わせてやりたいところだ。
「おさんぽ、おさんぽ」
「鬼太郎は本当に墓場が好きだなぁ」
妖怪だからなのかここで生まれたからなのかは、まぁ正直どっちでも良いか。
「さて幽霊はどこにいるのやら、っと」
「あっち」
自信満々に指差す鬼太郎の髪が一束立ってるように見えるのは気のせい、じゃないな。
「とーさん、あっち」
「……そうかあっちか、よし行ってみよう」
こんな時に限ってゲゲ郎の奴はどこをほっつき歩いているのやら。
「みっけた」
「おや」
夜の墓場に現れる幽霊、その正体は。
「ゲゲ郎……!」
「とーさん!」
「思ったより早く見つかってしもうたのぅ」
白い髪に青い着流し姿のそいつは悪戯がバレた子どものような笑みを浮かべる。
「お前、その姿どうやって」
「簡単に言えば妖術の類じゃよ」
こんな出で立ちの奴が妖術とやらでぽんと現れたら幽霊呼ばわりされるのも当然だ。
いやそんなことはどうでも良くてだな。
「ゲゲ郎お前、そういうことはすぐに教えろよ!」
「もう少し安定させてからお披露目したかったんじゃよ」
「安定?」
「今はまだ自由自在に姿を切り替えられる段階に至っておらんのじゃ」
「結論を言え結論を」
「暫くの間、目玉の姿にはなれん」
「具体的にはどれくらいだ」
「あと二時間ほどかのぅ」
そいつは不便なこって。
「とーさん」
「おお倅よ、父と遊びたいのか?」
「折角だから抱き上げてやれよ、お前ずっとやりたがってただろ?」
「そ、そうじゃな」
まるで壊れ物を扱うかのようにおっかなびっくり鬼太郎を抱き上げようとするゲゲ郎の姿は失礼ながら少し滑稽だった。
◎
「引っ越す?」
「うむ、人が寄り付かぬ森の奥にな」
「急……って程でもないか」
いつかは来ると思っていた時が今訪れた、ただそれだけの話だ。
「何じゃ、もしや気づいておったのか?」
「お前が何かコソコソやってることまではな」
「ふむ、ならば話が早い。お主も共に来てくれ」
「えっ?」
「人間の薄情さはお主もよく知っておろう」
「……まぁ、な」
鬼太郎が赤子のうちは優しい対応をしてくれた人たちも今では腫れ物を扱うような振る舞いをするようになってしまった。
ゲゲ郎が見切りをつけた理由は恐らくそれだろう。
「完成した電波塔は見に行ったしクリームソーダも喫した。やり残したことはもう──」
「そう急かすなって」
折角のお誘いを断るつもりは無いが、今すぐには応じられない。
「せめて母さんの四十九日が終わるまでは待ってくれよ」
「……そうじゃな、ご母堂には大変世話になった。ここを去るのはきちんと礼を言ってからにしよう」
「悪いな、我儘言って」
先延ばしにするのはこれっきり。
約束を違えることは、もうしない。
◎
身辺整理を済ませて森の奥に引っ越してから約半年。
意外と不便を感じない生活にもすっかり慣れ、都会の喧騒が恋しくなる気持ちは失せつつあった。
そんなある日のこと。
「水木さん、父さんを見てませんか?」
「ゲゲ郎?見てないがどうかしたのか?」
「今朝早くから出かけたみたいなんですけど、行き先が分からないんです」
あの馬鹿、遠出をする時は俺か鬼太郎に一言残しておくよう散々言ってあったのにまたすっぽかしやがったな。
「砂かけの婆さんには聞いてみたか?」
「まだです」
「じゃあ今から聞きに行こう」
あの婆さんは結構口が固いから仮に何か知っててもだんまりを決め込まれる可能性は高い。
だからといって何もせずに待ち続けるのは癪だ。
せめて手がかりの一つだけでも掴んでやる。
──と意気込んだ数時間後。
「まさか婆さんを見つけることすら出来ないなんてな……」
「どこに行っちゃったんでしょうね、父さんも砂かけ婆も」
いくら何でもタイミングが良すぎる。
口裏を合わせて姿を眩ませた、と考えるべきだろう。
「ゲゲ郎の奴、帰ってきたらこってり絞ってやる」
「それは怖いのぅ」
「──、」
「おかえりなさい、父さん」
「ただいま鬼太郎、良い子にしておったか?」
オイコラ何事も無かったかのように鬼太郎と話すな。
こっちは心臓が口から飛び出しかねないところだったんだぞ。
「水木よ、そう睨むでない」
「どこに行ってたか素直に白状すればやめてやる」
「哭倉村じゃよ」
「っ、」
何で、よりにもよって。
「……安心せい、あそこはもうただの廃村じゃ」
「そ、そうか」
「父さんはそれを確かめに行ってたんですか?」
「うむ、まぁそんなところじゃ」
どこか含みのある物言いに疑念は抱いたがその場で問い質すことは控えた。
然るべき時が来たら自分から話す、ゲゲ郎はそういう奴だ。
◎
──ふと目が覚めると墓場にいた。
そうなった経緯はとんと思い出せない。
記憶が無くなるまで酒盛りでもしたのだろうか。
それにしては頭が痛くないし、寧ろ身体が軽い気がする。
「やはりここにおったか」
「ゲゲ郎?」
「約束通り迎えに来たぞ」
「迎え……」
そうか、俺は死んだのか。
だから墓場にいて、ゲゲ郎が迎えに来ている。
「もう少し長生きするつもりだったんだがなぁ」
俺が死ぬまでは人間のままでいさせろ。
死んだ後は南方の戦友やゲゲ郎のカミさんに挨拶をして、そこから先はどうしてくれても構わない。
それが森の奥へ引っ越す前に交わした約束だった。
「……さて、早速じゃが挨拶回りに行くとするかの」
「ちょっと待った、鬼太郎はどうした?」
「ここにおるぞ」
ゲゲ郎の後ろから出てきた鬼太郎は浮かない顔をしている。
その原因は十中八九俺だ。
「鬼太郎」
「……」
「辛い思いをさせてごめんな」
母さんが亡くなった時も鬼太郎は暫く塞ぎ込んでいた。
どんな形であれ、見知った顔との別れは辛いものだ。
「……大丈夫、です」
いっちょまえに強がる鬼太郎の頭を撫で、もう一度ごめんなと呟いた。
◎
「さて水木よ、お主の処遇についてじゃが」
「おう」
「結論から言うとお主は既に人の理から外れ、妖怪に変じておる」
「は?」
何だそりゃ、どういうことだよ。
「窖の底で幽霊族の血を浴びたせいか、ワシや鬼太郎と共に過ごした時間が長かったせいかは分からぬ。ワシに分かるのは悪いモノに変じてはおらぬ、ということぐらいじゃ」
「……そうか」
悪霊の類になってないならまぁ良い。
「ちなみにどんな妖怪になったかは分かるか?」
「ふむ」
俺のことをじっと見据えた後、ゲゲ郎は徐ろに口を開く。
「煙々羅、じゃな」
「えん……何だよそれ」
「煙の妖怪じゃよ」
そういうものだと意識をしてみたら指先が白い煙に変化した。
「……どうせなら腕っぷしが強い妖怪になりたかったな」
「ワシにケチをつけられても困る」
◎
妖怪になったことで得た煙の身体は思った以上に便利なものだった。
まず怪我をすることがほぼ無くなった。
殴られたり斬られたりしてもその部分が煙に変わるだけですぐ元に戻せる。
まぁ肝が冷えることには変わりないから怪我をする状況そのものを回避すべきである点は今も昔も同じだが。
ちなみにほぼ、と前置きしたのは妖術の類で負傷することがあるからだ。
そっちの対応はまだ慣れてないから余計な傷を負いがちだし、何よりそのせいで鬼太郎やゲゲ郎に心配をかけてしまう。
今度天狗の旦那辺りに頼んで稽古を付けてもらおう。
他に便利な点を挙げるとすれば隠密行動のしやすさか。
勘の鋭い奴を相手取らなければ一度も気づかれることなく目的を果たせる。
そんな技術を活かさなければならない事態は起きないのが一番だが、そうもいかないのが世の常というものだ。
少なくとも人間の頃より出来ることの幅は広がっている。
活用しなければ宝の持ち腐れだ。
◎
「──今一度、哭倉村へ行くぞ」
ゲゲ郎がそう言い出した時、俺の頭に浮かんだのはやっとかの一言だった。
まさか一度死んで妖怪に変じてから聞くことになるとは思いもしなかったが、まぁそれは良い。
「鬼太郎はどうするんだ?」
「連れて行く。あの村に残る問題はワシとお主だけでは解決しきれん」
「そいつは残念だ」
俺の反応が予想外だったのかゲゲ郎は虚を衝かれたような顔をする。
「何だよ、俺がゴネるとでも思っていたのか?」
「胸倉を掴まれるくらいは覚悟しておったわ」
「一昔前ならやってたかもな」
鬼太郎を巻き込むな、と怒鳴る己の姿が目に浮かぶ。
「今は落ち着いた、とでも言いたげじゃな」
「実際少しはマシになっただろ?」
「……その沈着さを有事の際にも発揮してもらいたいものじゃのう」
これはまだ怒ってるな、この間踏んだドジのことを。
◎
一つきりの出入り口──哭倉トンネルを抜けた先には廃村としか呼びようが無い光景が広がっていた。
「……静か、ですね」
「ここは終焉を迎えて久しい地じゃからのう」
今から数十年前、この村は狂骨──犠牲を強いられた人々の怨念が生んだ妖怪に滅ぼされた。
因果応報、その一言に尽きる結末だった。
「正直拍子抜けだな」
「阿鼻叫喚の巷と化していたのはとうの昔、あるのは今も燻る怨念の残滓だけじゃよ」
「それを片付けに来たってわけか」
「すぐには終わらぬぞ」
「上等だ」
妖怪になったお陰で時間の余裕はたんまりある。
それこそ何十年だって付き合ってやるさ。
「指鉄砲!」
「ギアアアァァ!」
鬼太郎が放った光の弾に撃ち抜かれた狂骨の断末魔を聞くのはこれで何度目だったか。
「……この辺りにはもういなさそうですね」
「ふむ、ならば別の場所に──」
「父さん?」
「っ……」
「水木さんもどうしたんですか?」
そうか、鬼太郎は知らないんだったな。
朽ちた鳥居の向こうに佇む幽霊が誰なのかを。
「裏鬼道衆……!」
ゲゲ郎──幽霊族にとっては怨敵とも呼ぶべき一団、そのリーダー格を担っていた人物。
地下工場で狂骨に殺された奴がどうしてこんなところにいるんだ。
「……さ、……」
その幽霊は掠れた声で何かを繰り返し呟くばかりでこちらには見向きもしない。
「おとめさま……どちらにおられるのですか……」
虚ろな目をした幽霊はふらりと歩き出し、闇の中へと消えていく。
「あれは……放っておいて良いんでしょうか……?」
「良いんだよ、あれはただの亡霊だからな」
「……そうじゃな、あれはただの亡霊じゃ」
叶わぬ望みを抱いたまま彷徨い歩く亡霊にかけてやる情けは、無い。
◎
哭倉村の後片付けは数年に一度の単位で行われることになった。
理由は狂骨を倒した後に湧き出す瘴気は手荒な方法を用いて祓うよりも自然消滅するのを待った方が後々面倒なことにならないからだ。
急いては事を仕損じる、急がば回れ。
長丁場の方向性が当初の想定と少し変わっただけだと思えば大した問題じゃない。
──気がかりがあるとすれば、あの廃村を彷徨う亡霊たちの方だ。
狂骨のように倒して終わり、とはいかないし無闇にちょっかいを出せば痛い目を見るのはこっちだ。
ゲゲ郎は狂骨を倒していく内に亡霊たちも成仏していくだろうと踏んでいるが、果たしてそううまく行くのやら。
◎
「少し来ない間に様変わりしたなぁ」
出張で千葉に訪れたのは数十年も前の話、大なり小なりの変化があって当然だ。
「ん?」
不意に妙な気配を感じた方向を見ると一軒の民家があった。
暫く辺りを見回した後、気配の正体が民家の庭に咲く赤い花だと気づく。
「……ありゃあ南方の花か?」
距離があるせいで正確な造形は分からないが似たものを戦地で見た覚えがあったような、無かったような。
「誰かいるのかい?」
「ゲッ」
民家から誰かが出て来る直前に煙化し、塀の後ろに身を隠す。
「……どうやら気のせいだったみたいだね」
悪あがき同然の工夫が功を奏したのか、家主と思しき女性はあっさり引き上げてくれた。
「……暫くは煙のままでいた方が良さそうだな」
妖怪の姿はその存在を信じている奴の目にしか映らない。
増してや煙の妖怪がいることなんて早々信じられはしまい。
「花の形を確認したらさっさと引き上げるか」
そう独りごちて庭を覗き込むとさっきの女性とは異なる人影が赤い花の傍らに佇んでいた。
背格好から見て若い男だろう。
「っ、」
そしてその男が着ている服は嫌というほど見覚えがあるものだった。
「──そうか」
南方のものと思しき花、兵隊の装いをした男の幽霊、恐らく一人暮らしであろう女性。
これらが導き出す答えは。
「あんたは、帰って来られたんだな」
どんな方法を使ったかは分からないがこいつは帰って来た。
遥か南方の戦地から待ち人の元へ。
「──?」
「ああ、俺も南方からの帰還兵なんだよ。色々あって妖怪になっちまったけどな」
「──、──」
「分かってるって、野暮なことはしないから安心しな」
都合よく吹いてきた風に乗ってその場を後にする。
「じゃあな」
残すのは別れの言葉一つ。
それ以上は野暮ってもんだ。
「ただいま」
「おかえりなさい、水木さん」
「今回の旅路はどうじゃった?」
「まぁまぁ、だな」
赤い花の話は、まぁしなくても良いか。
悪さをする心配は無さそうだったしな。
◎
この家に訪れる妖怪の顔ぶれは凡そ決まっている。
砂かけの婆さん、ねこちゃん、ねずみ君の三人に至っては来ない日の方が珍しいくらいだ。
たまにしか顔を出さない奴もそれなりにいるが、名前を忘れたことは無い。
まぁつまり何が言いたいかというと。
今目の前にいるお客人──雪のように白い蛇とは初対面だ。
「これはこれは……」
ゲゲ郎が畏まった態度を取ってるのを見るに、お偉いさんであることは間違いなさそうだ。
「──、──。──?」
「その節以来になりますか。いやはや、お懐かしゅうございます」
白蛇の方が何を言ってるのかはさっぱり分からないが、多分ゲゲ郎と世間話をしているのだろう。
そんな雰囲気がする。
「鬼太郎や、こちらにおいで」
「は、はい」
俺と一緒に隅の方へ避難していた鬼太郎はゲゲ郎の隣──白蛇の正面に座らされる。
「──、──」
「ええと……ありがとう、ございます」
どうやらあの白蛇は鬼太郎のことを褒めてくれているらしい。
それを我が事のように喜ぶゲゲ郎の心中は察して余りある。
「──、──?」
「……ん?」
いつの間にか白蛇がこちらをじっと見ている。
「其奴はワシの友であり、この子の養父でもある男にございます」
「──!──、──」
「ええ、とても良き縁に恵まれました」
今度は俺が褒めちぎられる番みたいだ。
相変わらず何を言ってるのかさっぱり分からないが、会釈くらいはしておこう。
「──、──」
「承知致しました」
「──」
話が済んだのか、白蛇はするりと家の外へ出ていく。
「……父さん、あれは何だったんですか?」
「水分神様じゃよ」
みくまり、水の分配を司る神か。
そりゃあ中々の大御所だ。
「とても情け深いお方でな、ワシも少しの間じゃが世話になった」
「その縁で会いに来たってとこか?」
「うむ、そんなところじゃ」
何の報せも無く来る辺りはいかにも神様らしい。
「……僕は苦手です、あの神様」
「そうなのか?」
「何ていうか、その……凄く、疲れます……」
そういえばあれこれ聞かれてる感じだったな。
鬼太郎は他人と話すのが苦手な方だから余計に気疲れした感じか。
「あの方は話好きじゃからのう、ワシもよく付き合わされた」
「父さんは疲れなかったんですか?」
「……無理矢理中断させたことなら数度ある」
「お前よく大丈夫だったな……」
「情け深いお方だと言うたであろう」
そのレベルだった、とまでは流石に読めねぇよ。
◎
「理解できませぬ」
故あって水分神様の下に身を寄せてから早二ヶ月、苦言を呈するのはこれで何度目だったか。
「何故、人間なんぞに情けをかけるのですか」
水分神様は水の分配を司る神。
住処である水源地と繋がる全ての川を氾濫させることも涸らすことも容易く行える。
だと言うのに。
「私は私の勤めを果たしているだけだよ」
「あんな恩知らずどもに水を分けてやる必要などありませぬ!」
「……いつになく気が立っているね、何かあったのかい?」
「人間たちが川にゴミを捨てていました」
「ああまたか。水が淀んで困るのはそなたたちなのだから止めるように、と再三言ったのに」
「そんな手緩い対応をしているから侮られるのですぞ!」
他者の優しさや甘さに付け入って己の欲を満たす醜悪な生き物。
それが人間だ。
「何故お怒りにならぬのですか、何故罰を下さぬのですか。貴方様にはそうするだけの理由があるというのに、何故」
「……そなたは優しい子だ」
「は、」
何を言ってるのか分からなかった。
わしが優しい、とはどういうことだ。
「他者を思い、怒りを抱く。それはとても良いことだ。でもね、」
その瞬間、水分神様の目から感情が消えた。
さながら水が氷に変じるかのように、淡い青色が冷たい光を帯びていく。
「その怒りのままに暴れることを、暴れた理由を他者に押し付けることをしてはいけないよ。それらは応報となってそなたに襲いかかる」
「応報を受けるべきなのは人間どもの方でしょうに……」
「よしよし、不満は積極的に吐き出しなさい。感情も水と同じ、無理に堰き止めれば淀んでしまうものだからね」
この方はおためごかしを言うばかりで何もしない。
それがどうにも腑に落ちなかった。
酷く腹立たしかった。
──下流の集落が水底に沈んだのはそれからひと月ほど後のことだった。
「水分神様、これは……」
「彼らの自業自得だよ」
「自業、自得……」
「川の流れを堰き止める量のゴミを捨てたのも、長雨への対処を怠ったのも彼らの落ち度だ」
そうだ、何もかも人間たちが悪い。
だと言うのに。
「心苦しいかい?」
「っ……そんな、ことは……」
「そなたはやはり優しい子だ」
この方は何を以てそう結論付けるのだろう。
「私はね、この惨状を見て何とも思わないんだ。嬉しさも悲しさも感じない、あるがままの現実を受け止めているだけなんだよ」
「水分神様……?」
「……つまらない話を聞かせてしまったね。雨が上がったら野湯に浸かろう、良い気分転換になる筈だよ」
「……随分と懐かしい夢を見たものじゃ」
目玉一つきりの頭を起こし、軽く伸びをする。
「……貴方様はあの時、ワシに何を伝えたかったのですかな」
あの方が思う優しいとは何なのか、今でも分からず仕舞いだ。
「今度酒盛りでもしながら水木に問うてみるかのぅ……」
望む答えが得られるかはさておき、議論する価値はあるだろう。
◎
「ゲゲ郎が優しい、ねぇ」
まぁ分からなくも無い評価だ。
「神様のお墨付きともなりゃあ筋金入りだな」
「腑に落ちぬ……」
「おいおい、何がそんなに不満なんだよ」
「お主もあの方も、何を以てそう結論付けておるのかワシにはさっぱり分からん」
「そうかぁ?割と簡単な話だとっ、」
「ならば教えよ水木。お主ならあの方が言わんとしていたことを正しく理解出来るのであろう?」
「待て待て待て、一旦落ち着け」
酔いが回ってるせいもありそうだが、いつになく圧が強い。
「何か、取っ掛かりになりそうな話はあるか?」
「ふむ……」
暫し考え込んだ後、ゲゲ郎は徐ろに口を開く。
「川の氾濫で人間の集落が水没した時、あの方はこの惨状に対して自分は何とも思わないと言うておられた」
また凄まじいネタを選んできたな。
「ワシはあの方と共にその惨状を見て心が痛んだ。憎んでいた筈の人間が自業自得で沢山死んだというのに、喜ぶことが出来なかったんじゃ」
「……なぁるほど、そりゃあ優しいって言われるわけだ」
「今の話のどこにそう言い切れる根拠があるんじゃ」
「いやお前、自分で言っただろ。憎んでた奴が死んでも喜べなかったって」
「……言ったのう」
「それが優しいって評される理由だよ」
「……憎い相手の不幸を喜べぬことと優しいことがどう繋がるんじゃ」
ああ、そこが分かってないのか。
「神様の方は何とも思わなかったんだろ?」
「うむ、嬉しさも悲しさも感じないと言うておられた」
「つまり自分は優しくない奴、無感情な冷血漢だと思ってるわけだ」
「なんと……」
「それに比べたらお前は優しいって言いたかったんだろうよ」
あくまで憶測だけどな、と付け加えて酒を煽る。
──人間のことなんて放っておけば良かったのに、その身を呈して怨念を鎮めに行ったお人好しが優しいと言われるのは当然のことだろうに。
◎
「縁とは思わぬ形で結ばれるもの、か……」
先日訪ねてきた神様の言葉を反復し、深い溜め息を吐く。
「ああいうのを余計なお世話って言うんだ」
僕には父さんや水木さん、ねこ娘たちがいれば良い。
結ぶ縁はそれで充分だ。
これ以上縁を増やす気なんてさらさら無い。
──そう思った矢先に紙切れを咥えた黒猫が窓から入ってくる。
「これは……」
紙切れに書かれた文字を少し読んで、ふと思い出す。
先日拵えたポストのことを。
「……まさか本当に来るなんてなぁ」
これがあの神様の言う思わぬ形で結ばれる縁だとしたら、少し恨みたくなってきた。
「まずは父さんに相談だな」
本音をいえばこんなの無視してしまいたい。
でもそうすると後で水木さんにこってり叱られることになる。
それは、嫌だ。