理想の暮らし理想の暮らし
汗を流して働くというのは、素晴らしい事だ。
朝日と共に目を覚まし、身支度を整えて各々仕事を始める。食料の殆どを自給自足しているこの村では、その日食べるものを自分達で用意するだけでも大変だ。
まずは牛を放牧場へ連れ出して、牛小屋の掃除。のんびり草を食んでいる姿を眺めながら欠伸をこぼしていると、村の子供達がすれ違いざまに挨拶してくれる。きゃいきゃいと話しながら農具を持って走っていく姿に、子供なのに偉いよなぁ、なんてぼんやり思った。自分達が小学生の頃なんてちょっとお使い頼まれただけで押し付け合いの大騒ぎだったのに。いや小学生どころかつい最近まで似たような状態だったんだけど。
一通り牛の世話を終える頃には日も高くなってきて、天気が良いので釣りへ向かう。途中木陰でおそ松兄さんが昼寝していたのをカラ松が狩りへ引きずって行ったのを見かけた。ここ最近魚ばかり食べているからそろそろ鳥でも捕まえてきて欲しいな、なんて思いながら釣り糸を垂らす。ここらの海は波も穏やかで大きな魚があまり居ないせいか、殆ど入れ食い状態で魚が釣れるのだ。まさか暇つぶしのために通っていた釣り堀での経験がこんなところで役に立つとは、人生ってほんとなにが起こるか分からないよね。
きゅるる、と小さく腹が鳴る音にそろそろ昼か、と認識する。釣り竿は垂らしたまま、適当にそこらに焚き火を組んで魚を焼いた。釣れたばかりの魚はただ焼いただけでも充分おいしくて、夢中で三匹ほど食べて残りは夕飯に回そうとまとめて袋へ仕舞う。美味しい魚、食べられない魚、食いつきがいい餌の選び方や調理の仕方まで全部村人達に教えてもらったものだ。こんな社交性皆無のおれにも優しく接してくれる村の皆は本当にいい人達だなと思う。いやまぁ人ではないんだけど…多分。
ぼんやり波の音を聴いていると、満腹なのもあって段々眠くなってくる。少し遠くから村の女の子が手を振ってくれて、ちょっと照れ臭いけれど小さく振り返してみる。すると向こうから駆け寄ってきてくれて、採れたばかりであろう野菜をいくつか手渡してくれた。ここに来たばかりの頃、中々馴染めないでいるおれの事をなにかと気にかけてくれたあの子は、村の中でも評判の働き者で、いつも忙しく働いている。自分達の今までが恥ずかしくなるようなこの村の住民達の働きぶりを見ていると、こんなおれでも何かしなきゃって気になってしまうのだ。
貰った野菜と魚を手土産に、自分達の畑へ顔を出す。農作業をしていたチョロ松と十四松と合流して、家へ戻った。遠くから聞こえる鳥の鳴き声に、そろそろ夕方に差し掛かる時間か、と思った。
ぼちぼち夕飯の準備に差し掛かろうと取ってきた魚の下処理を十四松に頼む。六人分の食事を毎日準備するのはそれだけでも重労働だ、母さんのありがたみを改めて実感した。そういえば家を出てから結構な日数が経った気がするけど、心配させてたら申し訳ないな、いやあの二人はそういうの別にないか…。
とりあえずと下処理をした魚と野菜を煮込んでいると、徐々に日が落ちてくる。ゆっくりと赤く染まっていく景色に目を細めていると、ずるずると大きな鳥を引きずって歩いてくる人影が見えた。
「おーいブラザーたち!今日は大物だぞ〜!!」
遠目からでも分かるくらいに満面の笑みを浮かべたカラ松の大声に、十四松が歓声をあげる。おれ達の身長と同じくらいはあるだろうか、六人で食べても充分なくらい肉が取れそうで、思わず頬が緩んだ。
「聞いてくれ一松!木に登ったらこいつが昼寝してたんだ、ラッキーだったぞ」
「へぇ…って、え?お前これ素手で捕まえたの?」
「ああ!壮絶な戦いだったぜ…」
「こいつ一回連れ去られかけて、結局トドメ刺したのはあいつらの弓なんだけどね」
兄さんの視線の先を追うと、何やら巨大なイノシシみたいなのを抱えている村人達が目に入った。
「ひひ、おれ達結局助けてもらってばっかりだね」
「で、でも今回はオレも結構頑張ったんだぞ!」
「はいはい、お陰で今日の夕飯は豪華になるね」
そう言うと途端に調子に乗った表情になるのが面白かった。こいつは最近村の子供達の一部から謎に人気を得ていて、一緒に遊んだり遊ばれたりしているのをよく見かける。夕飯を作っている間も食っている間もこいつから出る話題の殆どがその『カラ松ボーイズ』についてのものだった。面倒見てやってるみたいな口ぶりだけれど、色々面倒みてもらっているのはこいつの方なのだろう。
久しぶりに食べた肉は、ちょっと固かったけどそれなりに美味かった。兄さんが貰ってきた酒も少しだけ飲んで、いい気分になって床に寝転がる。この村では時間なんて分からないけれど、明日も早いし寝るかぁ、なんて口々に言いながらのろのろと寝る準備を始める。朝から働いて、夕飯を食べ終わる頃には眠くなって寝る。ニートだった頃より睡眠時間は短いはずなのに、やけにすっきり目が覚めるのがなんだか不思議な感じだ。健康的な生活をすると心まで健康になるのか、ここ最近はこんな人生も悪くないかな、なんて思うようになった。自分には案外こういうのが向いていたのかもしれない、こうやって六人で一緒に居られるのならずっとこのままでもいいかな、なんて思い始めていた。
ほどよい疲れに身を任せて意識が落ちそうになった時、ふと隣から微かな布擦れの音が聞こえてくる。なんとなく薄目を開けてみると、真っ先に寝支度をしていたはずのカラ松がそっと家から出て行くところだった。カラ松はいつも一旦眠ったら途中で起きる事なんて殆どないから不思議に思う。なんだかやけに周りを気にしてこそこそしていたように見えたし、どうしても気になってしまってそっと後を追いかけてみることにした。
そっと身体を起こして、扉の近くにカラ松がいない事を確認してから出来るだけ音を立てないように外へ出る。茂みの奥の方へと歩いていく人影を後ろからゆっくりつけて行くと、やがてカラ松はその場にしゃがみ込んでなにやら怪しい動きをし始めた。やたらと周りを気にする素振りにそこでやっと、こいつが何をしようとしているのか察する。察したと同時に、笑いが漏れそうになった。
「……熊でも出たらどうすんの」
「っっ!?えっ、な、い、いち、」
そっと真後ろに近づいて声をかけると、飛び上がる勢いでこちらを振り向いて口をぱくぱくさせていた。
「ひひ、わざわざ夜に起きてまでなにやってんだよ」
「だ、だって…わかるだろ…」
「まぁね、こないだはチョロ松兄さんが似たような事してたし…まぁ兄さんの場合は昼間だったけど」
慌ててずり下げかけていたズボンを引き上げる姿を眺めながら、ちょっとした悪戯心でその手を取ってみる。
「っ…いちまつは…平気なのか」
「……正直、つい最近までそんな暇無かったっていうか、忘れてたっていうか…」
「オレは結構ずっと我慢してたんだが…」
すり、と腰元に回ってくる手のひらに、ごくりと唾を飲み込んだ。ぞわ、と背中を這い上がるような、長いこと忘れていた感覚にゆっくりと息を吐く。
「…そんなの適当にそこらに隠れて昼間のうちに済ませりゃよかったじゃん」
「最近昼間はカラ松ボーイズ達がずっと近くにいてだな…」
「あぁ…そりゃ無理か…最中に見つかったら大変な事になりそう」
「最悪村人全員集まって来かねないからな…」
「ひひ、そりゃ悪夢だね」
顔を近づけて来ようとするのをそれとなく躱してみると、あからさまに不機嫌そうな顔になるのが面白い。
「…したいの?」
「そりゃ、もちろん…」
「物好きだね」
「今更どうしたんだ」
「…いや、別になんでもない」
手探りでお互いの身体に触れ合って、じわじわと熱が上がっていくのを確認し合う。おそらく数ヶ月ぶりだというのに、身体が勝手にどんどん思い出してしまう。
忘れる事が出来るかもしれない、なんて一瞬でも思ってしまった自分が馬鹿らしくなる。なんだか少し逞しくなった気がする腕や腹回りをなぞって、ぴくりと反応を示すのに気を良くして、段々動きが大胆になっていく。
「…お前さ、最近ちょっと黒くなったよね、今はなんも見えないけど」
「それは一松もじゃないか?昼間は殆ど外にいるからなぁ」
「っ、ちょ、ひりひりするからあんま触んな…」
「ふふ、なんだかちょっと逞しくなった気がするな」
「…まぁ…それなりに動き回ってるし…」
腕をなぞられて、ぴり、と走る痛みに肩をすくめる。同じ事を考えていたのがちょっと恥ずかしくて、曖昧な返事をした。じわじわと追い詰められて、木の幹に背中がつく。くい、と顎を持ち上げられて、唇に柔らかいものが触れた。濡れた舌の感触、ずるりと口の中を蹂躙される息苦しさ、それを認識した途端にずんと一気に身体が重くなったような感覚に襲われる。あぁ、忘れてた、おれってこうだった。大きな石が喉の奥に詰まっているみたいな、重くて息苦しいような感覚。きっとおれは、こいつがこの世に存在している限りこれを捨てる事は出来ないのだろう。一度薄らいでみて分かった感情の大きさは、もうおれ一人では到底手に負えないものだ。
「いちまつ…」
名前を呼ばれる。おれしか知らない、他のみんなの前とは違う声色で。どくどくと身体中を血が巡って、息が上がって、身体がどんどん熱くなる。穏やかな時間に慣れた身体が、こんな激しい感情はいらないのにと悲鳴をあげているような気がした。
それなのに、どうしてだろう、この苦しさの中にいる時が一番、おれは自分が生きている事を実感してしまうのだ。
掠れた声で、はやく、と囁きかける。逃げる事が叶わないのなら、いっそのこと早く溺れてしまいたかった。