アバウト・ティーンエイジャー・ラブ Episode 0・
好きなひとがいる。
生涯をかけて、たったひとりの好きなひと。
逞しい体躯、強靭な拳、清潔な香りを纏う黒髪に、鋭い視線と優しい眼差し……
どこを切り取ってもどうせことごとくオレ好みの外見だけれど、それはあのひとがあのひとだからであって、あのひとでなければきっと無味無臭なんだろう。結局のところ、オレの心を浚ったのは彼の芯にあるもの。
あのぬくもりが、琴線にふれて。敵も味方もあっという間に籠絡させてしまう魔性的な引力に惹かれ、気づいたときには好きだった。
きっとこの先どれだけ長く生きたとしても、このひとだけがずっと好き。タイムマシンに乗って未来のオレに確認しに行ってもいい。三十二歳のオレは誇らしげに言うだろうよ。
「ずっと場地さんが好きに決まってんだろ」って。
好きにならないほうがむずかしいと思うくらいに、場地さんが好き。
だけどオレの「好き」は、独り占めしたいだとか、オレだけのものになってほしいとか、オレ以外のひとを見ないでほしいとか、(ぜんぶ同じ意味だけど)そういう「好き」とは違っていて、もっと、無償の愛というやつに近い。
愛ってか友愛? 尊愛? 爆愛? ナニソレ。つまり、恋じゃなくて愛ってことだよ。
(オレの)場地さん、超かっけえだろ?
(オレの)場地さん、超優しいだろ?
(オレの)場地さん、超場地さんだろ?
場地さんの幸せはオレの幸せだし、場地さんの喜びはオレの喜び。もちろん悲しみだって然り。
だから、場地さんに彼女が出来た時は本当に嬉しかった。だって場地さんが嬉しそうだったから。たぶん。
あれは数ヶ月前のことだった。ノリで参加したヤリサーのコンパで、場地さんはひとつ年上の色気ムンっムンのマドンナの心を見事に射止めたのだ。
射止めたといっても場地さんがそそのかしたわけではもちろんなく、女が勝手に落ちただけ。だって場地さんはオレとずっと一緒にいたもん。
で、その翌日くらいにマドンナに告られて、そのまま流れで付き合っちゃった。場地さんってば、はっきり断らないから。いいんですかって聞いたら、まぁいーよって。好きなんですかって聞いたら、わかんねえけど今更拒否って泣かれたらダルいからって。
場地さん、そんなんじゃつけ込まれますよ。相手が超性悪だったらどうするんスか。この人、こういうところあるんだよ。一虎クンに対しても、龍星に対しても、チョット甘すぎっつーかな。まぁあの二人は別にいいんだけど、相手が女となっちゃオレだって黙っていられない。しっかり守ってやらねえと。
というわけで、場地さんに彼女ができたその日から、オレの番犬ライフ〜強化版〜が始まった。
もちろん場地さんだって初めての彼女ってわけじゃない。たしか五人目? でもほら、大学ってこれまでの地元とは違う新たなステージだし、六限目は性教育ってくらい性に乱れるって言うし。道を踏み外さないよう、オレは番犬兼牧羊犬として、場地さんを守るためにここにいるんだってことを示さなくっちゃ。
場地さんと姐さん(慕っている場地さんのジョカノのことは姐さん呼びだと相場が決まっている)のデートには基本的に同伴させてもらった。
初デートは品川の水族館。イルカ可愛かった。二回目のデートは新宿の映画館。帰りにゲーセンに入って、クレーンゲームの中から姐さんが欲しいって言ったカエルのぬいぐるみを場地さんとオレとの協力プレイで勝ち取った。所要時間二十分。獲れた瞬間の歓喜が大きすぎて、渡した時の姐さんの顔をこれっぽっちも覚えてない。場地さんとハイタッチした時の手のひらの痛さは覚えてんのに。
三回目のデートで夜景の見える公園に行ったときのことだ。姐さんからの満面の笑みという名の異様な圧を感じて、空気を読んだオレははぐれたフリをしてそのままひとりで家に帰った。姐さんはそれに味を占めたのか、それ以降いつもデートの終盤にはオレに満面の笑み(圧)をかけるようになった。それで翌日、大学内で場地さんに会うと場地さんは必ず「昨日は悪かったな」と決まりが悪そうに言うんだ。
いやいや、いいんスよ。普通に考えて、デートに同伴してるほうがあたおかなんで。恋人水入らずでヤラシクやっちゃってくださいよ。こんな時まで義理堅くオレに優しくしてくれちゃって、ほんと、場地さんは優しくて愛情深い男です。場地さんのことならなんでも知ってるんですよ、オレ。香港マフィアみたいなこえー顔つきをしているくせに、その足もとに仔猫がたくさん集まってきちゃうこととか。来る者を拒み、去る者追わずなのに、場地さんのところにはいつも人がいることも。それは場地さんの人柄が外側に滲み出ちゃってるからってことも。一度ふところに入れた仲間はなにがあっても見捨てないし、口では「めんどくせえ」って言うけど、絶対に面倒見てますよね。昼飯だって、姐さんと食えばいいのに、どこからともなくオレを見つけて「千冬ぅ、飯行こーぜ」って誘ってくれるのは場地さんじゃないっスか。オレだって他にも友達はいるんだし、恋人を優先してくれたっていいのにさ。
でも、そういう人だから、オレは場地さんを祝福したいんだ。そりゃあ嫉妬しないって言ったら嘘だ。オレだって彼女作って、イチャコラしてえ………………ってより、なんだ、大切な宝物を取り上げられたような、妙な感覚だ。もっと場地さんと遊びてえのに。嫉妬ってのは場地さんに対するよりも、姐さんに対してのほうがでかかった。
――オレから場地さんを奪うんじゃねえよ。
あ、ちがう。今のはちがう、まちがえた。そういうドロっとした気持ちは、湧きあがってくる前に掻き消す。さすがにそれは思い上がりすぎだって。
大丈夫、大丈夫。場地さんは恋人ができたって変わらないじゃん。相変わらずオレになんでも教えてくれるし見せてくれてる。オレは場地さんのことならなんでも知ってる……はず。だけど、わざとはぐれるデートの帰り道は、いつもさびしかった。
恋人と二人きりになったときの場地さんは、どんな顔をするんだろう。どんな声でささやくんだろう。キスするときの体温は。眼差しは。
オレはなにも、知らない。
場地さんのことならなんでも知っていると思ってたのに、結構知らないこともあったんだって、ひとりきりの帰り道でいつも思い知らされた。でもそれでいいんだ。だって場地さんの幸せはオレの幸せ、だし。
って、ずっと言い聞かせてた。のになぁ。
フラれたらしい。場地さんが。
青天の霹靂のように、五限の講義おわりに鳴り響いたスマホからは嫌な予感がぷんぷんしてた。届いたメッセージは一言。
「六時半にいつもの店」
いつもの店っていうのは、オレと場地さんの行きつけの安い居酒屋だ。下宿しているマンションから徒歩圏内で、ワンチャン終電を逃しても歩いて帰れるから、深酒になりそうな時はそこを選ぶ。つまり、今日は深いってことで。
冷静になれ、ミ・アミーゴ。と身構えていたら、案の定、いつもよりもどこかダークなオーラを纏う場地さんが店に現れて、とりあえずビールで乾杯したあと、開口一番にさらっと聞かされた。
「別れたワ」
出ました、場地さんの持ちネタ、スピード破局。付き合い始めたのっていつだっけ。たしか二、三ヶ月くらい前か。なら前回よりは少しだけ長いじゃん。
オレは知っていた。場地さんはいつも長続きしない。周りからは「場地さんって長い付き合いの彼女いそう〜」ってよく言われているけど、実は超スピード破局常習犯。最長記録二週間のオレが言える立場じゃねえけど、場地さんも場地さんで、マジでいつもすぐ別れる。しかもいつもフラれる側。そこもオレと一緒。
「女はわかってないんスよ、場地さんのいいとこ!」
ってオレがフォローしても、「あんまり女のこと悪く言うんじゃねえよ」って相手の肩を持つんだから、こんな時ですら場地さんの優しさは健在である。
そしてビールを呷る、呷る。たった二ヶ月ちょい付き合っただけの彼女と別れたくらいじゃノーダメかと思いきや、場地さんはやや低めのテンションで濃いめの酒を呷りつづけた。
で、今。
ここに男前の酔っぱらいがいる。
正確には、酒もしたたるフェロモンをぶっ放す、恋に傷ついた色男。失恋した時でさえ絵になるなんて、アンタちょっとズルい男っスね。あ、このあとカラオケであれ歌ってあげよう。
「はるな姐さん、いい人でしたね。美人だったし」
「んー……あぁ、うん……」
場地さんは背を壁にもたれさせ、焼酎の入った水割りグラスから唇を離すことなく頷いた。もう何杯目になるだろうか。ビールがハイボールに変わり、ハイボールが焼酎になり、けれどスピードは衰えることなくアルコールをぐいぐい飲みつづけている。いつもはオレのほうが飲んじゃうけど、今夜は逆だ。場地さんのほうが飲むペースが早いし、場地さんのほうが、ほろ酔い以上泥酔未満って感じ。
あからさまに酔っぱらっている様子はないが、いつもよりも無防備に感じてしまうのは、ゆるめに結ったおだんごが少し崩れているから。おくれ毛の束やセンター分けの前髪が濡れているように見えるのは多分ワックスのせいだけど、いつの間にか切れ長の目尻がとろんと垂れ目気味になっていて、それがやけに色っぽく見えるのだ。そう思っていることを悟られまいと、オレもコークハイを呷りながら会話を続ける。
「場地さんってメンクイっスよね。ほらあの子も。高二ん時の」
「あー、友美か」
「そうそう、ギャルの。あとあの、ガソスタのマリコ、パチ屋のみなみちゃんも。コンビニ店員のマユちゃんもレベル高かったス」
「んー……、うん…………」
そのままアツコとユーコもいってください、神7制覇しましょうよ。と言いかけたとき、場地さんから大きめのため息が聞こえてきて、安い言葉をコークハイと一緒に飲み下した。
「オレもう、女はいいや……」
意外だった。場地さんがそんなことを言うなんて。弱音を吐くようなタマじゃないし、そもそも、この深酒が本気の失恋モードだったということに驚いた。
「マジだったんスね……姐さんのこと……」
「いやー、なんつーか……懐いた猫がどっか行っちまうような感じ? さびしい」
「あぁ、それならめっちゃわかります」
「気まぐれはどうしようもねえことだけどよぉ」
前言撤回。推理するに、おそらく姐さんのことは本気じゃない。いかにも失恋したふうを装ってはいるが、これは文字通り懐いた猫がいなくなったような感覚を嘆いているに過ぎない。とはいえ、この落ち込みよう。場地さんなりに悲しんでいるのは本音なのだろう。それはそうだ、好きだって言い寄ってきたかと思えば、気がつきゃ勝手に愛想を尽かせていなくなる。オレが相手なら絶対にそんなことはしないのに。てかそんなことより、場地さんから出た「さびしい」って一声、パンチ効きすぎなんだけど。
「もう女はいい。オマエがいれば」
「ぉオレもですけどぉ!」
思ってもない台詞が飛んできたので、すかさず返事をした。食いぎみに。
場地さんは酒のせいで赤らんだほっぺをふにゃっとゆるめて、嬉しそうにわらった。いつもよりも相当酔っているみたいだ。
「だよなぁ。オマエと一虎とさぁ、あと龍星がいてくれりゃあ」
なーんで二人が出てくるんだよ。オレだけでいいっスよ! とは言えない。
「なーんで二人が出てくるんすか! オレだけでいいっスよぉ!」
言っちゃってた。オレも酔ってるみたい。
「あァー? 一虎とはなぁ、この先どんな地獄が待ってても最後まで一緒って約束したんだよ、オマエも来るかぁ? 地獄によぉ」
「はあ? はあ? はあー? なんすかそれ? オレともしてくださいよ、その約束。言っときますけどオレはその地獄に先回りして場地さんのこと出迎えますよ!」
「ははっ、なんだよ先回りって」
「あ、ご予約の場地様ですね、お待ちしてましたこちらへどうぞーつって。てか、オレがいたらそこはもうパラダイスですよ? マツノチフユがおったらそこは天国や!」
「ぷっ、ははっ、いみわかんねーよ、ばあか」
場地さんがめずらしく口を開けて笑うから、オレも嬉しくてどんどん戯けた言葉が出てくる。ふいに場地さんの手が伸びてきて、オレのほっぺをぷにぷにとつまんだ。
「つーか、オマエちょっと嬉しそう。オレがフラれてそんなに嬉しいか、オマエはよぉ」
「ち、ちがっ、べつに、ヤッターまた場地さんと遊べるーとか思ってないっスよ! うぅうれしくなんかっ! や、遊べるのうれしいっスけど……!」
オレはほっぺをつままれたまま必死に弁明する。だけど笑いとともによだれまで込み上げてきて、唾液が口からだらだらこぼれてしまった。きったねえなーって笑い飛ばされて、醤油の色が染み付いた汚い色のおしぼりで口をぐいぐい拭かれて、マジで汚いんスけどって反抗したら「わりいわりい」って店員に新しいおしぼりを頼んでくれて。
いつの間にか、場地さんはいつものように愉しげに肩を揺らしていた。落ち込んで澱んだ空気を消せるのなら、オレはいくらでもピエロになれるんだ。それが嬉しかった。
そのあと二人でよろめきながらカラオケに行って、もう腹ん中は酒でたぷたぷなのに飲み放題を頼んじゃって、喉が焼けて声が掠れるまで二人で歌った。もちろんズルい女も、プリテンなんちゃらも歌った。グッバイって歌いながら、恋人は可哀想だよな、なんて考えた。だってオレと場地さんにはグッバイなんて無いんだぜ。ずっとダチでいられる。ダチだから、こうしてずっと一緒にいられる。落ち込んだ場地さんを励ますことができるなんて、こんな光栄なことがあるかよ。
だからずっとこのままがいい。このままもう、場地さんに恋人ができないでほしい。もう誰も、オレから場地さんを奪うんじゃねえよ。
あぁ、酔っ払ってるせいで出てきちまった。いつもなら絶対に閉じ込めておくのに。場地さんを独り占めしたいだとか、絶対思っちゃだめなのに。
無償の愛なんて嘘だ。オレは場地さんが好き。それは独り占めしたいだとか、オレだけのものになってほしいとかオレ以外のひとを見ないでほしいとか、ぜんぶ同じ意味だけどそういう意味で好き。報われることのない、秘密の片想い。
だけど今日みたいな、二人とも酔っぱらった夜くらいは許してくださいね。絶対に手に入れることのできない男を大好きだってひっそり想うことくらいは。
「あー……飲み過ぎたぁ……」
「ですねぇ、歩けますかぁ」
オレたちは当然のように終電を逃し、揃いも揃って千鳥足で深夜の帰路に着いていた。肩に絡みついてきた場地さんの腕をしっかり掴んで、転ばないように支えながらとぼとぼ歩いていく。
暗い夜道、平日だからかオレら以外に人影はない。道なりに行けば場地さんの住んでいるマンションのほうが近いから、送り届けてから帰るか、そのまま泊まるか……場面で決めよう。それより今はいそがしいんだ。
「さっみー。千冬ぅ、もっとこっち来い」
「はいはい」
オレに体重を乗せてくる、その重みすらちょっとうれしい。時折耳もとで聞こえる小さなしゃっくりさえ、恋心をくすぐってくる。いつもは隙のないひとだから、こんなふうな格好良くない一面でさえ可愛く思えてしまうのだ。
きっと姐さんは、場地さんのしゃっくりを知らない。こんなふうに酒に酔って、とろとろのまばたきをしちゃう顔も、知らないだろう。ダサい優越感だけど、浸らずにはいられなかった。これくらいいいだろ。だって、オレの知らない場地さんを、あいつはいっぱい見たんだから。
「……姐さんといつもどんな話してたんスか?」
聞いてしまった。それはオレの立ち入れない場所。ふたりきりの時のこと。オレとじゃない誰かとふたりきりのとき、場地さんはいったいどんな顔でどんな話をしているんだろう。
「んー……あー…………オマエのこととか?」
「えっ、オレすか?」
聞き間違えたかと思った。長らく考え込んだかと思えば、出てきたのはそれ。いや、さすがに幻聴か。
「うん、だいたいオマエかなぁ」
やっぱオレって言ってる。つまり……どゆこと? 彼女とふたりきりの時って、もっとロマンチックな話とかするんじゃねえの、わかんねえけど。オレの話って何。オレのなんの話? ロマンチックの引き出しは持ち合わせてねえんだけど。
「あの、もう少しくわしく」
「ぇ? あー、んぅ……うん……」
ずしっと肩にのしかかる重みが増した。だめだこの人、歩きながら寝てる。会話は中断、とにかく力の続く限り歩かなくては。そこから十分、十五分くらいだろうか、立ち止まっては大あくびを繰り返す場地さんを連れて、なんとか彼の住むマンションまでたどり着いた。
エレベーターに乗り込み、目指すは七階。それから、両手をジーンズのポケットに突っ込んで猫背になっている場地さんの尻ポケットからキーケースを拝借する。さすが、オレ。場地さんはいつもキーケースをここに入れているってことを、知っていてよかった。
「はい場地さん、着きましたよー」
「んー、たでーまぁー」
「たでーまたでーま」
乱雑に靴を脱いでどかどかとリビングに上がっていく後ろ姿についていく。すっ転んで頭でも打ったら大変だから。
場地さんちの間取りはベランダ付きの1K。よろめいた体がなんとか洋室の奥のベッドに倒れ込んだのを見て、ようやく一息つくことができた。
「ちふゆぅー、もう危ねえから泊まってけよー」
ベッドに顔をうずめたまま場地さんが呼びかける。酩酊してほぼ意識もなさそうなのに、そういう配慮ができるところはさすがだ。
「全然危なくはないンすけど、帰るのだりーんで泊まりまーす」
ソファの隅で丸まっていたタオルケットをたぐり寄せて、そこに体を横たえる。
場地さんちはいつも野郎たちの溜まり場で、客人はこのローソファか絨毯の上で雑魚寝がお決まり。だからタオルケットは常備されているし、枕代わりになるクッションもある。場地さんが買った物というよりは、オレや龍星や一虎クンが持ってきて置いたままにしてるやつ。
さっさと寝ちまおう。と思ったとき、ふと部屋の中を見渡してしまった。テーブルの上に出しっぱなしのゲーム機とコントローラー。昨日も龍星か一虎クンが来ていたんだろう。床に置かれたブラックニッカ4リットルのボトルは、こないだ場地さんが調達したばかりのものだ。ところが半分くらい無くなっているのは、あいつらのどちらかががぶがぶ飲みやがったに違いない。灰皿にてんこ盛りになった電子煙草の吸い殻も、オレらの中で吸うのはあいつらだけなのだから、ちゃんと捨てて帰れよって日頃からきつく言い聞かせているのにそのまんま。灰がないだけマシだけど。いつもは壁のそばに整頓されている筋トレグッズも、テーブルの下に転がっている。
「あいつら、また散らかしやがって……」
一度気になってしまったら眠れない。起き上がってそれらを適当に片し、起き上がりついでにキッチンで水も飲んでおいた。さらについでに、グラスに注いだ水を場地さんの枕元にも運ぶ。とはいえもうすっかり爆睡中なので、起こさないようにそっとサイドテーブルにグラスを置いた、そのとき。
「う、わっ……!」
腕を取られたのは一瞬だった。あぶね、と思った頃にはもう、その両腕の中に軽々と抱き寄せられて。
「ぶほっ!」
弾力のある硬い筋肉に受け止められた。ふかふかのベッドの上、それよりも鮮明に感じているのは場地さんの鍛え上げられた胸板と、背中にまわった腕の強さ。
え、え、え……?
オレ、場地さんに抱きしめられてる。
鼓動が爆音で胸を叩く。心の中で「え?」が大合唱しているのだが、あまりにも突然のことで声に出すのも忘れている。お、落ち着いて、状況を整理しよう、という間も場地さんの両腕がぎゅうぎゅうにオレを抱きしめてくるから、まともな思考が働かない。ちょ、ま、ほんと、なに。
「んん、ーー……」
頭上から掠れた声が聞こえる。これはあれだ、完全に寝ている。いまのは寝言。ということは、寝ぼけてオレを誰かと間違えて抱き寄せちゃったってこと。誰と間違えたんだよ、チクショウ。
「だいじょぶスか、あの……オレっすけど」
きつく抱き締められた腕の中で、おそるおそる見上げて問う。どうせ寝てるんでしょうけど、オレですよってことを知らせておきたかったのだ。思ったとおり場地さんはぐっすり寝ていた。だけどオレの視線を感じたのか、わずかにまぶたが持ち上がる。
「ん……ちふゆぅ?」
「……ハイ」
曲がりなりにも、今日の今日まで恋人がいた人だ。おおむね元カノとオレを間違えているんだろう。腕の中にいるはずの元スウィートハニーがオレだとわかったら、びっくりして突き飛ばされるだろう。そう思っていたのに。
「オマエかぁ」
って言いながら、ぽんぽんって髪を撫でられた。で、また、ぎゅって。
ますます意味がわかんなくて、心拍数だけがばくばくと鳴りっぱなしだ。だって、こんなに近くで場地さんを感じている。確かな体温も、抱きしめる腕の強さも、かすかに残る甘い香水の匂いも、なにも知らなかったのに。
場地さんは寝ぼけてる。そのうえ酔っぱらっている。そうだ、ぜんぶ酒のせい。だったら、気にしなくていいんだろうか。オレもそこそこ酔ってるし。
そろりと顔を上げる。これほど間近で場地さんの顔を拝めるのは、もしかしたら今日が最初で最後かもしれないから。
至近距離の視線の先では、彫刻みたいに整った顔立ちが安らかな寝息を立てていた。もうそれだけで眼福ってかんじ。彫りの深い目元、太い眉、意外に肌艶のよい白い頬も、こりっと出っ張った喉仏も、ひとつひとつをゆっくりと目に焼き付けていく。いつまでたっても頬の丸みがとれない童顔のオレに比べて、すっきりとした顎周りの骨格を見ると羨ましくてため息が出る。男でも惚れる、洗練した男の顔。
「はぁ……マジかっけえな……」
うっかり本音が漏れ出てしまった。でもまぁいっか、場地さんはすやすやと夢の中だ。かと思えば、場地さんの片足がずっしりとオレの下半身に乗っかった。
「ゔっ……おもっ」
両腕にくわえて足まで絡められた。完全なるホールド。もう身動きひとつ取れない。拍子に小さく呻いてしまったせいで、場地さんがふたたび重そうなまぶたを持ち上げる。
「……?」
無言のままの瞳が暗がりの中でかすかに揺れる。微睡みとはこのこと、と言わんばかりの眼差しが、やがてゆっくりとオレを捉える。
切れ長の双眸が感慨深そうに細められて。ふわりとほどけるように、吐息を吐き出すように、わらった。
「……ふは、かわい……」
やや掠れ気味の、やわらかな声。
それはあっという間の出来事で。オレが言葉を失っている間に、場地さんはまた深い眠りに落ちていってしまった。
かわいい、かわいい、かわいい……
かわいい?
場地さん、さすがに今のはだめです。だめすぎます。こんな場所で、こんな状況で。両腕に抱かれたまま聞かされる「かわいい」の威力を、このひとはわかっていない。混乱するオレをよそに、場地さんはぐぅぐぅ寝ながらさらに深くオレを包み込む。もう、ほんとうにこのひとは……
人たらし! と叫び出したいくらいだった。我慢したけど。
まじで、さっきなんつったの? かわいい? オレが?
自覚していないわけじゃない。オレはたぶん、そこらの男よりはたしかに可愛い。だけどそれはネタというか、ガチじゃないというか、弟とか、ペット的な扱いというか……と、体内のアルコールと場地さんの匂いで迎え酒状態のオレの頭は明快な正解を導き出してしまった。
そうだ、ペットだ。場地さんは、いまオレのことを猫だと思っていそう。きっと今頃、猫を可愛いがる夢を見ているのだ。その考えは大いにありえた。付き合っていた彼女のことさえそう例えていたんだから、彼の頭の中は猫のことでいっぱいに違いない。
なんだ、そっか。オレってば何を勘違いしていたんだ。場地さんがオレを抱きしめて、オレだって認識した上で髪を撫でて、「かわいい」なんて言うはずがないだろうが。
そりゃあそうだ。オレと場地さんの関係に「グッバイ」はない。ずっとこのまま、ずっとダチ。確かな胸の厚みも、心地のよい体温も、もう知ってしまったけど。
それならば、このことはオレの胸に秘めておくから、今夜だけこのまま猫になってもいいだろうか。少なくともこの時間が彼にとって安らぎとなるならば、それでも構わないとオレは思う。それになにより、こんなふうに場地さんに可愛がってもらえるのなら、
「……猫でいいや、オレ」
広い体にすっぽりと覆われたまま、ゆっくりと瞳を閉じる。大好きなご主人様のふところで安心してぬくぬく眠る、猫みたいに。
にゃあーにが、猫みたいに、だよ。
ぬくぬく眠るじゃねんだよ。場地さんの腕ん中で寝られるわけがないだろうが。お察しの通り一睡もできずに、羊の代わりに場地さんの呼吸を朝まで繰り返し数えてたよ。
完徹だ。テスト前でもないのに。一人オールだ。ベッドでな。
窓の外が明るくなってきた頃、場地さんの腕の力が弱まったタイミングでそこをするりと抜け出して洗面所へ向かった。一睡もしていない二日酔いの顔が鏡に写ってうんざりだ。どっこも可愛くねえし。
顔を洗って洋室へ戻る。ベッド横のサイドテーブルに置いたグラスの水は、昨晩そこに置いたときのままだった。一度それを回収してまた新しい水を注ぎ、ふたたび同じ場所へ運ぶ。起こさないよう静かにグラスを置いた時、ベッドの上の二日酔いⅡがもぞもぞと動いて仰向けに寝返りを打った。どうやらお目覚めらしい。乱れた前髪の間から覗く双眸がふっと開き、まだアルコールの抜けきっていない重めの眼差しと視線が合う。
「……おう」
「うス」
一言だけ交わして、オレはこの部屋での定位置であるソファに戻った。昨晩のこともあってか、ほんの少しだけ、正面から目を合わせづらかったから。
のそのそと体を起き上がらせる場地さん。けれど、まだ頭は覚醒していないらしい。オレの気配を感じて、とりあえず起き上がったんだろう。
場地さんが完全に起きたのを見届けたら、自宅に帰ってシャワー浴びて、そんで大学に行く準備しなきゃなぁ。なんて頭の裏で考えながら所在なげに虚空を見つめるオレを、じいーっと見つめる斜め横からの視線。
……すっげえ見てるな、オレのこと。
ちらりと目線をやる。場地さんはうとうととまばたきを繰り返しながらも、その視線をオレから離そうとはしない。というより、オレを見つめながら何かを考えているような。
わかった。昨日のことを謝りたいんだ。二日酔いのまわらない頭で、昨日のことを思い巡らせているにちがいない。そしてたどり着いた記憶を、今ゆっくりと噛み締めているのだろう。オレのことを抱き寄せて眠った、昨晩のことを。
昨日はごめん、酔っぱらってた。というたぐいの言葉を待った。
「……千冬ぅ」
「はい」
「………………オレ、なんか言ってた?」
「なんかって」
どうも雲行きがあやしい。
「……ねごととか? んー…………なんっも覚えてねえ……」
言いながら、眠そうな目をこすって大あくびをする場地さん。傍らに水が置いてあることに気がつき、さんきゅーと小さく言ってそれをぐびぐび飲み下していく。それからまた目を擦って、あくびをしながら腹を掻いて、乱れた髪の毛をぐしゃぐしゃと掻き混ぜる。とどのつまり、何も覚えてないんかい。
「なんも言ってなかったっスよ」
「あーまじ。よかった」
「はい、気持ちよさそうに寝てました」
そりゃもう、すっごく。
確かにオレは覚えているけれど、場地さんが忘れたことならそれでいい。オレはただ、夢の中で彼の猫になっただけだったってこと。
くわ、とあくびをした場地さんがベッドの向こうのカーテンを開けた。午前の薄い光を浴びる横顔は、起きがけにくわえて二日酔いのひどいそれにもかかわらず、垢抜けた精悍さを帯びている。悔しいけど、カッコイイ。
「ひさびさに酔っぱらったワ」
「場地さんが酔うの初めて見たかもっス」
「それはねえだろ」
「いつもオレのが先に酔っちゃうし」
酒焼けとカラオケのせいでいつもよりも掠れた声で交わされる会話。場地さんは少し考えたあとに、それもそうだなとつぶやいた。
ほんとうに何も覚えてなさそうだった。オレが黙っていれば、昨夜のことは無かったも同然。酔った勢い。一夜の過ち。って、べつにキスされたわけじゃなし、生娘でもなくオレは野郎なんだから、いちいち気にすることでもない。だけど。
オレの中で何かが終わったことを、うっすらと感じていた。
終わった……? いや、始まった、のか。
場地さんと出会ってからこれまでの約八年、忠実な番犬という名の友人として接していた日々が、いま朝日のなかで緩やかに変わろうとしている。
「グッバイ」は嫌だけど、ずっと猫のままも、いやだ。秘密を貫こうとしていた想いが、理性という頑丈な蓋を吹き飛ばして溢れそうだった。
「わりいな、付き合わせて」
向けられる眼差しに申し訳なさが混じっている。そんなの謝ってる場合じゃないってば、場地さん。忘れちゃやだよ。無かったことになんて。
「……好きで付き合ってますよ」
この「好き」が、ほんとうの意味の好きだって伝えられる時がきたらいいのにと思う。忘れちゃったことも全部、なにかの拍子に思い出して、オレのことを本当に可愛いと思ってくれたらいいのにと。
たとえばオレがずっと好きでしたって言ったら、場地さんはどんな顔をしてくれるだろう。驚いて黙り込む? それとも、絶句しちゃうかな。そりゃあそうだろう。場地さんはきっと、オレがそういう意味で好きだなんてこれっぽっちも思ってもいないのだから。それでいて無自覚にオレを喜ばせたり悲しませたりする、このひとは本当に人たらしだと思う。
交わる視線に浸っていたとき、ゆるく瞳が細められる。
「ありがとなぁ、千冬ぅ」
まるで仔猫をあやすような口調で、愛おしさをこめて笑う。オレの恋心も知らずにこうしてやすやすとオレをたらし込む、やっぱり場地さんは、天性の人たらしだ。
「はぁ……ほんっと、場地さん……」
「うん? なに」
「なんでもないです」
なんでもなくないです、ぶっちゃけ。言いたいことが山ほどあります。だけどまだ今は、うまく伝えることができないから。この溢れんばかりの気持ちも、昨夜のことも、しばらくの間はオレだけの秘密にしておくけれど。
体内に残るアルコールが着火されたように、胸の奥が熱くなる。気分は思いがけず清々しい。
いつまでも猫のままではいないから。オレを本気にさせた飼い主に、いつか愛情たっぷりに噛みついてやろうと思う。
本編へ続く