「ジュンくん!ジュンくーん!!!!!!!!」
春風に若草色の髪がなびく。艶のあるその髪はまるで雨水を滴った葉のようにも見える。
公舎の廊下をだかだかと足音を響かせた。その音は傍らの凪砂が聞いているだけで、他の人は喧しいと煙たがるだろう。
まるで御用だ御用だというような足取りであるが、そう思っているのは若草色の髪の若者だけで本日は警察の世話もいらないくらいの平和だ。
このところ春雨続きで久々の晴れ。こんな時はふらりと外に出かけたくもなるし、縁側でごろりと昼寝もしたくなる。
小糠雨が多かった天気も満開に咲いている桜は容易く散ることもない。まるで粉雪のようにぱらぱらと花弁が降っているがまだ数日と持つだろう。
ふんわりと柔らかい風を受けながら縁側の凪砂は目を伏せてその風を受ける。肩にかける詰襟の羽織が一瞬だけゆらりと揺れる。
「…日和くん」
凪砂は振り向いて背後の青年に声をかける。呼ばれた日和は色めき立っていた。
「凪砂くん!ジュンくんがいないね!?久々の天気だからお買い物にジュンくんを連れていこうと思ったのに悪い日和だね!!!」
ぷんぷんと肩を怒らせて相当ご機嫌斜めの日和に凪砂は動じない。それどころか余裕綽綽と笑っている。
「ふふ、そう怒らないで。今日は会議もあるんだし、時間になればジュンは帰って来るよ。買い物はその後でも大丈夫」
今日は終日晴れているからね、と膝にいる猫を撫でながら。
「その猫もジュンくんに保護されてから元気になってるね」
「うん。怪我した時はすごく驚いたけど、今は私の膝でぐっすり眠れるくらい懐いているし」
「今やすっかりこの公舎の一員だね」
先程までに機嫌を損ねていた日和は態度を一変させてくすりと笑った。
「……ねぇ、日和くん。買い物もいいけど、お昼は私と過ごさない?奇跡星屋から貰った金平糖とあんころ餅があるんだ」
「凪砂くんの頼みならば仕方ないね!お菓子にもお茶が必要だし、ぼくが美味しいお茶を淹れてあげるね!」
「日和くんのお茶はとても美味しいから私は好き」
「それ程でもあるね!お茶に関してぼくの右に出る者はいないんだから。勿論、他だってぼくが一番だけどね」
桜咲く風景の縁側に仄々とした空気が流れていた。
花弁が散らばった地面にブーツが鳴る。ザッザッと音を立てながら肩の詰襟の羽織が揺れた。
温かい風が気持ちいい。連日の雨模様からぐっと気温が上がって過ごしやすくも少し暑いくらい。
こんな日にはふらりと外に行きたくなる時もある。公舎はおひいさんこと日和が五月蠅いからおちおち昼寝も出来やしない。
何処かの木にでも上って居眠りをと思案していると、何やら緯線の先に声が聞こえてくる。
ひとつ。ふたつ。みっつ、と違う声が耳に入る。複数人というのは特定され、近付けば近付く程不穏な空気が渦巻きつつある。
穏やかじゃないな、と咄嗟に思った。嫌悪を含む高めの声音とガマガエルが合唱したかのような複数の笑い声が聞こえてきた。人でもこんな笑い声が出せるのだとある種感心すら覚える。
それが男と理解した瞬間、自然と眉間に皺を寄せた。
「あの、もういいですか?私は行きたいところがあるので」
「ひゃははっ、ねぇちゃん連れねぇこと言うなよ!」
「俺たちと遊ぼうぜぇ?」
大の男が二、三人女を囲っている。圧倒的な体格差があり、迫られるだけで恐怖するような男を前に大抵は怯えるだろうが、女は気丈と振る舞っていた。
男達は身なりからして荒くれものと形容するのに相応しい風貌で、下衆とも言える表情から尚更合致する。
女は顔が少し幼いが、可愛さと美麗を兼ね揃えている容姿である。柑子色の花柄の着物を纏っていた。
会話からして軟派というところ。ジュンはやれやれと息をつく。
「ちょっと、離してください!」
「いいじゃんいいじゃんちょっとくらい」
「あんた、桜桃楼の花魁だろ?うちの上司は常連だぜぇ~部下の俺に仲良くした方がいいじゃねぇの?」
「今は接待の時間ではないです。手を離してください…!」
「いいのか?そんな態度取ってると、楼主にチクればお前は折檻されるぞ」
声が大きくなっていく。女の方は冷静ではいられなくなって狼狽えていた。
力任せに引っ張る腕が引き摺られていくと、女は身じろいだ。
女はきつく目を瞑った瞬間に一人の男が小さく悲鳴をあげる。
そして一人、また一人と悲鳴があがった。
声と共に動きが止まったと感じた女は不思議そうに瞼を持ち上げる。
目の前の男達は頭や顔を押さえ、若干蹲っていた。何がなんだと解らない女は目をぱちくりさせる。
「ってぇー……誰だ!小石を投げたのは!?」
刹那の一矢。その一撃で男は怒髪天を衝く。他の男二人も顔を顰めていた。
「大の男が一人の女囲って攫うとか、恥ずかしくないんですかぁ?」
注意とも煽りとも取れるような言葉を男達に向けながら、手に握られた小石をぱしぱしと手元に放っては受け取っていた。
声がする方向に男たちは視線を注ぐ。ジュンはニヤっと笑っていた。
「お、お前…いきなり何だよ!!」
「何だはこっちの台詞ですよ。ったくもぉ~人が散歩してるっていうのに五月蠅くて散歩どころじゃないじゃないですか~」
「て、てめぇ……」
男が殴りかかろうと突進を繰り出そうとした時、背後の男が肩を掴む。
「む、村田さん!こいつ警察だぁ…逆らうと即座に牢屋行きですよ!!」
「あぁん?服はそれっぽいけどパチもんだろ?最近こんな格好した奴なんてごまんと……」
そう言いながらも握った拳は止まったまま。ジュンは何か考え込むのような仕草を取った。
「そうですねぇ、本当ならあんた達のことを政府に伝えて引き渡してしまえばあんた達は牢屋行きは確定ですね」
「お、脅したなんて効きやしねーぞ!」
「ふーん、女性に暴行を加えたら罪に問われませんが騒ぎを起こした事についてオレは見ているので、あんた達は国の治安を荒らす悪人として罪は成立すると思うんですけど」
ちらりと男尊女卑という言葉が浮かぶ。この国に女性の存在は弱い。男は重宝され、女は下として扱う下らない言葉。
男が言った『桜桃楼』は遊郭でありそこは数多の傾国の美女を揃えているという。故に利用する客は多い。
男を立てるために女はその身を差し出す。
遊郭の天国、吉原は夜な夜な祭りみたいに賑やかで遊郭には女の艶声が堪えないという。
男達が囲っているこの女が花魁というのが本当であれば……。
「………試してみます?案外牢屋の中も臭い飯も悪くないかもしれませんよぉ?」
「覚えてろぉ!!」
男たちはすごすごと立ち去って行った。残された二人は、男達が見えなくなるまで見送った。
「あ、あの……有難うございました!」
女は深くお辞儀をするとジュンは頭を掻く。
「あんたが困ってたんでこれくらいは…何事もなかったようで良かったっす」
はは、と苦笑しながら、女は花が綻んだかのように笑う。
「まさか本当に警察の方が来るなんて…この恩は、一生忘れません」
「いやいや、そんな大げさな」
ふわ、と風が舞う。女の栗色の髪が靡く。
柑子色で花柄の着物。そして栗色の髪に咲くこの景色と同じ桜の花の簪。
花魁というからには多くの男を手取りに取っているのだろう。このような可憐の女が。
なんだか胸が切なくなる。女が男の手を借りないと自分の存在すら証明されないということを。近頃は女にも保護する法律は出てきているみたいだが、その目を向ける人はごく僅か。
この着物の下はきっと細く華奢なのであろう。今はこんなに笑っているが、夜は嫌々男に抱かれているのかと思うと。
いや、これはジュンの勝手な想像すぎない。だが見た目からに喜んで男に抱かれたいようにも見えない。
また勝手な想像だ。
「警察さんは何故散歩に出たのですか?」
「……ああ、天気があまりにも良かったので。雨の日の桜もいいですがやっぱり晴れの日に拝みたいので」
「そうですか。私と……同じなのですね」
風が穏やかなものだったのに、突如稲妻のように強い風が吹く。
春風の中で、目の前の女のおくゆかしい色香に溶かされるのは時間の問題であった。