煙草の匂い/キスの味「っ、!」
梯子を上り展望台へ上がろうとしたちょうどその時、ひょいとルフィの顔が現れ、危うくぶつかりそうになる。それでも、体と、腕にぶら下げていた包みにさっと伸ばされた手に引き上げられて、どちらも落ちずに済んだ。
最初に礼を言うべきだろうが、せっかく作ってきた朝食が台無しになるところだった。こつん、と軽く拳を額にぶつけて「あぶねェだろうが」と文句を言えば、少しも悪びれない笑みが帰ってくる。
「だって、朝メシのいい匂いと、サンジのにおいがしたからな!」
さっそく包みを開け、ハムとチーズのサンドイッチを一口で飲み込んだルフィの言葉に、ぎくりと体を強張らせたサンジはさりげなく顔を傾け体臭を確かめた。
最初に感じたのは、朝食用のオムレツに使ったバターやサラダをあえたドレッシングの香り。そして、微かに煙草の匂い。ルフィのために作った朝食を包みながら一服したそれは、先日立ち寄った島で唯一買えたもの。いつもの銘柄に一番近いものを選んだつもりだったが、少し、癖が強い。
いつもならどんなに距離が近くても、煙草臭いと言われたことはない。仲間以上の、距離の時でさえ。
「……あー、その、くせェか……?」
幸い、ナミの話では次の島までもそう遠くはない。ルフィが気になるというのなら本数を減らすか禁煙もやむを得ないか、とルフィに視線を戻そうとした、その時。
むちゅ、と柔らかな感触がした。
「っ!」
「――あれ?でもこれいつものじゃねェ……まじぃ」
うう、と顔を顰めるルフィの髪をくしゃりと混ぜ、朝飯のオムレツを二倍にするからそれで口直ししてくれ、と謝る。
禁煙よりも、このままキスがしばらくお預けになりそうなことの方がつらい、と心の内で涙をのんだサンジは、ジンベエの操舵術で次の島へ一日も早く辿り着くことを願うしかなかった。
§ § §
「サンジぃ!はらへったぞー!」
「さっきドーナツ出したばっかだろうが」
ふつうのそれより二回りほど大きなドーナツは確かに食べごたえがあった。それでも物足りなくてダイニングの扉をけ破る勢いで飛び込めば、サンジが呆れたように視線を寄越した。向かい側には、ケーキスタンドに愛らしく盛られた丸いドーナツたちと紅茶を待つナミとロビン。見慣れた光景にもかかわらず、ほんの少し胸の奥なのか腹なのか、むずむずというかちくちくというか、なんとも言えない感覚を覚えたルフィは唇を尖らせた。
「しょうがないわね……ルフィ、ひとつあげるわ」
ナミが差し出したピンクのグレーズがかかったドーナツを微妙な顔つきのまま咀嚼し飲み込んだルフィの表情に、今度はロビンが「甘すぎたのかしら。こっちはどう?」とブラウンのドーナツを手に取る。ピンクの方はほんのり苺の香りで、今度のは、チョコレートがかかっているが甘みは抑えられており、生地からほのかにコーヒーの苦みを感じた。
なんとなく、それが今欲しいものに近い気がした。
ルフィの表情の変化に視線を交わしたナミとロビンが、不意に立ちあがり外でのティータイムがいいと希望した。勿論サンジもついていくものと思ったが、何故か二人ははいはいと言いながらケーキスタンドとカップを奪い、サンジの目の前で扉を閉ざす。
「……あー……と、さっきの気に入ったんなら、まだ生地があるぞ。揚げちまうから待ってろ」
何となく気まずい雰囲気のまま、サンジが腕をまくりキッチンの方へ回り込もうとした。その肘を、ルフィは咄嗟に掴んで引き止めた。
「はっ?え、ちょ、まてルフィ!」
身長の差を、カウンターのヒップバーに膝を乗せることでなくし、ずい、と顔を近づける。焦って離れようとするサンジの体にぐるぐると伸ばした腕を巻き付けて、そのまま唇を押し当てた。
「――にがくねェ……なんでだ?」
チクチクする顎髭に鼻先を擦りつけても、さっきまで揚げていたドーナツのほんのり甘い香りがするだけ。なあ、ともう一度キスの味がいつもと違う理由を問えば、珍しく真っ赤になったサンジに「いったん離れろ、ルフィ!」と叱られてしまった。
「――苦くてまずいっていったのはお前だろうが、ルフィ」
目を閉じて一旦深く息を吸い、吐いたサンジがキッチンの一番奥の引き出しから取り出して見せたのは、見たことのないパッケージの煙草。そういえば、と1週間ほど前に食料の買い出しに寄った島で、いつも吸っている煙草の銘柄が見つからなかったとぼやいていたことを思い出した。
そして、同じくらいにしたキスが苦くてびっくりしてしまったことも。
「……いったな、おれ。だからちゅーしなくなったのか?」
まだ顔の赤みが引かないサンジが、それでも眼の色を変えて、そしてほんの少し低い声で「ルフィ」と呼びかけてくると、ずっと体の中でぐるぐるしていたもやもやがすうと消えていった。
「……なんだ?」
「吸っていいか」
「あ、うん。いいぞ」
何か違う気がしたが、それでもどうやら自分のせいで我慢させていたらしいとなんとなく察したルフィは、ごめんな、と煙草に火をつけるサンジの顔を覗き込んだ。
ただ、何日かぶりの煙草を味わっているサンジから、返事はない。
深く吸い込んだ煙を、ゆっくりと時間をかけ天井へ向かって煙を吐きだしたサンジにもう一度謝っておいた方がいいかと口を開いた時、一回しか吸っていない煙草が灰皿の中でつぶされた。
「え?もういいのか?」
「……んなわけねェだろうが」
でも、と言いかけた唇が、いつになく乱暴に塞がれる。――息ができないくらいの深いキスが途切れた時には、ヒップバーに自分の力では座っていられないくらいに体の力が抜けていた。
ただ、口の中に微かに残る、あの時は苦くてまずいと思った煙草の残り香がもう一度味わいたかったのだとようやくわかった。
「……さんじ、ちゅう、もっかいするか……?」
「――一回や二回で済めばいいけどな」
毎日の食事でもおやつでも物足りなく感じていた空腹のような感覚が満たされてルフィの方は気がすんだが、体を支えながら見下ろしてくるサンジの目の光は、より強くなっている。予想通り返ってきた答えはキスだけで済まないと思わせるもので、ほんとごめんなと顎に軽いキスで触れたルフィは、何度でもと返す代わりにサンジの首に腕を回した。