薄く張った氷が朧ろに映す、月の顔。
夢と現の合間をたゆたい、あの形が真ん丸だったのは、何日前のことだったか、とぼんやり考える。
思い出そうとしても、眠りの誘惑に身を委ねかけた思考は、欠けた月の形と同じくはっきりとしない。
それでも、今夜はよほど晴れているのか、きらり、と月光の欠片が煌めくのが見えた。思わず手を伸ばしたけれど、それはすぐに闇に消えて。
それならもう、このまま眠ってしまおうか、と重たい瞼を閉じた、その時。
低く、けれど、はっきりと、名を呼ぶ声が聞こえた。
*
旅籠町で幼子たちに歓声をあげさせた白い花に覚えた予感は外れることなく、旅装の浪人が住まいである池の端に佇む庵に戻った時には、雪化粧をした水辺はすっかりその様を変えていた。
山の冬は早い、と解ってはいたが、あれもこれもと冬ごもりの支度に必要なものを探していくつも店を覗いているうちに、予定よりも先の旅籠町まで足を伸ばしてしまっていたのだ。
深いため息を零した浪人が蓑と笠を取り払ったとき、月の下に佇む影が形を変えた。体の大きさはほとんど変わらず、珍しい三本の刀も腰に在る。けれど、隻眼の浪人はほんの刹那の間に姿を消した。蓑を脇に抱え、荷車を庵の脇まで運んだのは、一匹の妖猫だった。
詫びるのは後だと気を取り直し、氷の張った池に背を向けたゾロは、ひと冬分の食料を庵に運び込み、囲炉裏と竈に火をおこした。
惜しげもなくどんどん火にくべた薪に、人気が絶えすっかり冷え切っていた庵の中が、ぬくもりに満たされるまでそれほどの時はかからなかった。それに、一抱えもある桶にはるためのあつい湯もたっぷりある。
「こんなもんか」
雪で調節した湯の温度を確かめ、ふたたび水辺に立ったゾロは、水面に軽く拳をあて薄い氷を割った。頭上にある夜空よりもなお暗く、生きる者の気配が途絶えた水中を氷の欠片がゆらりと落ちていく。
「——ルフィ。帰ったぞ」
ひと声、腹の底から出した呼び声が、吐息すらも飲み込んでしまうような白い静寂を破り、木霊になって夜の森を騒がせた。
けれど、ぴん、とたてた耳に、望んだ応えはない。
今度は、ひげが付くほど水面に顔を近づけ、もう一声。「ルフィ」と、たった一言に、思いを込めた。
と、その時。
微かにだが、鋭敏な聴覚が音を捉えた。
只人よりも寒さ強い、全身を覆う体毛も、身を切るような水の冷たさを防ぐことはできない。それでも構うことなく、ゾロは氷の下に腕を突っ込んだ。気の強い愛刀を振るう時のようにその手に妖力を籠めれば、すぐに、冷たさはほとんど感じなくなる。
そうして、息を潜め、ただ、待った。
——。
こぽり、と。弾けて消えた、みっつほどの小さな泡。
「ルフィ……待たせて悪かった」
旅立つときと同じく、手にすり寄ってきた色の抜けた横顔に、ゾロはそっと口づけを落とした。
*
じれったいほどゆっくりとしか動かせないひれの動きも、温存していた妖力がじわじわと体に広がっていくうちに、力強いものとなる。
それでも、水辺までが——確かに感じる、自分の者ではない妖力まで、ルフィが願うほど早くは辿り着かなかった。
それに、ようやく水妖のぬるりとした肌とは異なる獣の手に触れたとほっとしたその瞬間、ルフィの意識はあらがう術もなく眠りの淵へと押しやられる。
それでも、目の下に触れた微かなぬくもりだけははっきりと感じた。たったそれだけで、ほのかに心の奥底をたゆたっていた寂しさが消えていく。
暗い水の底でひとりきり、季節の移り変わりを虚ろに待つだけだった白い季節は、きっともう、来ないだろう。
——ぱちぱちと楽し気に爆ぜる火のおしゃべりを聞きながら、春の息吹の色を纏い盃を傾ける横顔を見あげ、笑みをかわす。
そのまま口を吸いあい、あつい舌に残る酒の香に酔い、溺れる夜を過ごす。
あたたかな手と手をつなげば、白く染まった世界を二対の足で駆け回ることだって、きっとできる。
楽しい夢に思わず笑みをこぼしたルフィは、今度は唇に触れたぬくもりの内に、「おかえり、ゾロ」とこたえをそっと送り込んだ。