唇の欲するもの それだけのこと/動揺/赤い顔で睨む「あとは……おい、むぎわ——」
さっと振り返った先でぶつかった視線。赤い顔で睨んでも、にやけた顔はそのままだった。
さらに、「またですか?キャプテン」と苦笑交じりの声がかけられる。顔を顰め、帽子のつばをぐっと引き下ろしたローは、仕方なく、顔を出したばかりの操舵室に背を向けた。
数分前に閉じたばかりの扉を乱暴に開け、叩きつけるように閉じる。テーブルに鎮座している麦わら帽子をかぶった電伝虫が呑気に寝息を立てているのをひと睨みして、ベッドに体を投げ出した。
もう数えることもやめてしまったが、ここにはいない麦わらのルフィ相手に無意識に呼びかけ、クルーになまあたたかな視線を向けられたり、揶揄われたりするのは初めてではない。それもこれも全て、どうでもいい話題で話しかけてきては、また会うのが楽しみだと笑う相手のせいだ。しかも、ほぼ毎日。
『トラ男!』
瞼の裏でと記憶か夢か、どちらともつかないルフィが笑いかけてくる。たったそれだけのことで、潮の香りに混じる、芝生や磨きこまれた木の香りまでもがすぐそこに在るかのように蘇って——。
「——どうした、麦わら屋」
体を起こしたローがつい呼びかけに応えたその時、電伝虫がぱっと目を開け震えだした。
ハッチから顔を出した途端、海上でにぎやかに交わされていた言葉が、ふ、と途切れた。続いて、たくさんの視線が集まるのを感じた。わけもなく動揺しつつも、太陽の眩しさに目を細めながら、麦わら帽子の形を探す。
「——と・ら・おーっ!!」
風を切る音と、混じりけなしに直接耳に届く声。
日差しよりも眩しく感じる笑顔に、鼓動がひとつ、跳ねた。
次に覚えたのは、咄嗟に広げた腕、そして、顔に感じた衝撃。
長く伸びた腕にしっかりと巻き付かれ、じん、と痺れる箇所を触れて確かめることはできなかったが、考えられる原因はただ一つ。
ちらりと視線をあげれば、ヒュウ、と高く響いた口笛と、冷やかすような歓声があがり、推測は確信に変わった。
心の内にいつの間にか育っていた想いをこんな形で自覚させせられたことや、何もかもわかっている、といいたげないくつもの視線には、正直腹立たしさの方が大きい。
ただ、同じ場所を痛めたはずのルフィの、強く胸に押し付けられた顔の熱、鼓動に気がつけば、どうでもよくなった。散れ、とぞんざいにギャラリーへ向かって片手を振ったローは、つむじに囁きかけ、繰り返し名前を呼んだ。
「——顔をあげろ、麦わら屋」
じれったいほどゆっくりと顔をあげたルフィが、ほとんど吐息のような小さな声で「トラ男、」と呼びかけてくる。そのほのかな熱に「麦わら屋」と応えたローの吐息が混ざり合い、溶け合った。
どちらともなく距離を詰め、再び重なった唇は、微かに血の味がした。