キスは星の裏側 目を閉じて/今だけ/意味空気だけでなく、足元まで小さく震えているように感じる。
万雷の拍手に気おされ、ふらり、と倒れかけた体。咄嗟に一歩引いた足でそれを支えたけれど、心もその動きに引きずられた。
――ふと、脳裏を初めて出会った日の光景が過った。
路地裏から聞こえた、微かな歌声。
喧嘩したのか、服は汚れて肌のあちこちも傷だらけの男が、空き瓶の入ったケースの間に座り込んでいた。ほんの少し怖かったけれど、それでも、耳に心地よく響く低い歌声をもっと聞きたいと、自然と手を叩いてた。
あの日からずっと、ルフィはテゾーロの歌のファンだ。
ただ、テゾーロの歌を聞く人々が多くなるにつれ、その歌声が遠ざかっていくような気がした。
もっと聞かせてくれよ、と暗い路地裏から日の当たる場所に連れ出したのはルフィ自身。それなのに、シャンクスのバーで歌っていたテゾーロが事務所からスカウトを受けた時、はじめてのコンサート、全国ツアー……その歌声が、踊る姿が、TVやすれ違った人のスマホの中にいるのを目にする機会が多くなるにつれて、近くで声を聞くよりも歌声が聞こえる時間は増えたのに、嬉しさよりも寂しさを感じることの方が多くなった。
踵を返し、観客と同じく感極まった表情を浮かべて拍手を続けるスタッフたちの流れに逆らう。舞台袖まで連れてきてくれたバカラの抑えた声が、何処に行くのかと呼びかけてきた。
それでもルフィは、聞こえないふりをして人垣をどうにか抜けると、走り出した。
今日のコンサートが終われば、もっとテゾーロが遠ざかってしまう。その瞬間を少しでも先延ばしにしたくて。
曲に合わせて次々と変わる演出に合わせ、素材や色合いの異なる様々な幕が天井から長く垂れさがっている。最後の曲の頃にはそのほとんどが舞台袖に下げられていたせいで、ちょっとした迷路のようになっていた。
走り出してすぐ、それに阻まれて。試しにめくりあげ潜ってみても、楽屋口や搬入口に続く扉はいつまでたっても見えてこなかった。
前も後ろも進む先を見失ったルフィは、安全のためにか淡いライトで照らされた階段に目を止めた。
昨日、リハーサルを見学させてもらった際、階段を上がった先に音響やライトを管理する部屋があり、そこからもホールに抜ける通路が続いていたような気がする。
だが、どうも記憶していた階段とは違ったようで、一番上まで登った先は、直角に曲がって舞台裏を端から端まで続く通路。やっぱり下に戻ろうか、と視線を動かした先、はるか下の方に赤い髪がちらりと見えた。
アンコール、と間隔が変わった拍手とともに響く声のなか、このまま戻らず、黙って帰ろう、と視線を戻したルフィは、まるでつり橋のような通路にゆっくりと踏み出した。
アンコール曲が流れている間は、まだ少し舞台からの灯りで見えていた足元が、ふ、と暗くなった。おそらくまだ、半分を少し超えたあたりだろう。
見えなくてもだいじょうぶ、と自分に言い聞かせたルフィは、これまでよりもさらに慎重に、すりあしで一歩を踏み出した。
その時。
真横に在った壁が、まばゆい光をはなった。
暗闇に慣れていた目が、突然の光に眩む。咄嗟にしっかりと握っていた手すりを離してしまったルフィは、自分の体が、ふわりと浮くのを感じた。
「っ!」
ひゅ、と息が詰まる。
だが、落ちる恐怖で止まりかけたルフィの心臓に、大きな掌が触れた。嗅ぎ慣れた香水の香りに包まれて、早鐘を打っていた鼓動が少しずつ落ち着きを取り戻していった。
「——なんで、ここに」
首を巡らせ問いかければ、応えたのは、ぱちん、と軽快に響き渡った指の音。続いて、あのメロディが流れ出した。
「——目を、閉じろ」
巨大な星を背に薄く笑ったテゾーロが、理由も告げず命じてくる。もう一度問いかけようとした時、耳たぶを吐息と低音がくすぐった。先程感じた恐怖とは別の感覚が背中を走り、体をすくませる。
「この日、今だけは……お前のためだけに歌おう」
「あ、」
今度は顔の形をなぞるように、触れられて。テゾーロが指にいくつも嵌めている指輪の冷たさに、思わず小さな声があがり目を閉じる。ぎゅ、と閉じた瞼に、テゾーロが小さく笑ったような気がした。
「ただ、ずっと――この歌は、お前だけのものだ」
その意味を問いかけようと開いた口に、何か柔らかな感触が触れる。
いまだステージに現れないテゾーロの代わりに観客が歓声交じりのメロディーを口ずさむ中、甘い歌声が、体の内に響いた。