誤診 どうにも、ここの所腹がやたらと空いてしまう。
元より坤の薬売りは大食漢のきらいがあったのだが、どうも最近はその枠に収まりきらない。よもや病ではあるまいな、などと考えてしまう程だった。
食っても食っても腹が減る。所詮〝薬売り〟にとって食事など人の真似事。実際の所食うのを止めても死にはしないだろうし、食い続けても死なないだろう。
とはいえ遂には江戸一番の力士と同程度の食事を平らげて尚空腹を感じるようになってしまい、流石の坤の薬売りも己の異常な食欲に頭を抱えていた。
初めの内はあれこれ食えるだなんて良いじゃないか、と思っていたのだが、いつまで経っても満腹にならないのでは意味が無い。
食事というのは食っている最中もそりゃあ良い物だが、あぁ食った食ったと満足感を覚えるのもまた同等に大切な事だ。
このように空腹感に苛まれるに至っている原因は分からない。モノノ怪や妖の残り香のようにも見受けられないので、薬売りに出来る事など高が知れている。文字通り、薬を拵える程度の事しか。
過食に効くような、食欲を抑えられる物を調薬しようと一人商売道具の引き出しを開いた。
そうは言っても実はこの男先程食事を取ったばかりで。
仕事ぶりを報告しに十翼へ戻って来たは良いものの、暇が出来てしまえば空腹を意識せずには居られなかったのだ。その上、何故だか此処へと戻って来てからというもの空腹感がより増している気がしてならない。
山盛りの丼を三杯平らげおかわりと丼を差し出した所で、厨人の引き攣った顔にハッと丼を持つ手を下げたのだ。そうしていよいよ不味いと思い立ち、居室に下がって調薬する事を決めるに至った。
これと、これと、と材料を取出しつつ、身に覚えの無い不調と呼べるかどうかも怪しい空腹感に溜息を吐いた。此処には病、あるいはそれに近いモノを相手取る者たちばかりが暮らしている。戻って来て既に何人かの同輩やそれに準ずる者たちとすれ違っているが、何か指摘される事も無かった。
であるならばやはり病でもモノノ怪の仕業でも無いのだろう。己の薬一つで何とかなれば良いのだが、と薬売りとも在ろうものが薬効に関して弱気になっていた。
えぇと、これで必要な物は揃ったかしら、と畳に広げたそれらを確認していると、廊下から足音が聞こえて来た。続いてカチャ、ガチャと荷が擦れ合う音から察するに、帰還して来た同輩の誰からしい。
いや、誰かとは言ったものの、真っ先に済ますべき報告の後、その足で坤の居室を尋ねて来る者など一人しか居ない。
「坤の方、私です」
襖の外からそう声を掛けてきたのは予想通り、離の薬売りだった。
「入っても?」
「えぇ、勿論どうぞ」
答えるが早いか、スッと開かれた襖を見上げると背負子を担いだままの離の薬売りが立っていた。目礼で入室を促すと離の薬売りは小さく一つ頷き襖の境界を越え、荷を広げる坤に倣うようにして背負子を下ろした。
パッと見の様子ではあるが怪我なども見受けられず、健勝そうに見える。大切なヒトが損なわれていない様子にホッと息を吐くと同時、何故だか坤の腹はクゥと鳴いた。
それは耳ざとい同輩であっても聞き取れないような小ささではあったが、腹が鳴ったという事実は変わらない。坤は少しばかり恥ずかしく思いながら、誤魔化すように調薬を再開しようとした。
だが腹の音は聞きとがめられなくても目の前に広げられた商売道具たちは隠しようも無く。また普段と違う品々が広げられている事は目ざとく見つかってしまった。
「なにか、不調でもお在りなのですか」
「……何故?」
「普段売り物にされている品では無いようなので」
全くもって、離の薬売りの言う通りだった。普段からよくよく見られている相手だ。そうで無くとも同輩であれば気づかぬ筈が無い。
ここで適当に誤魔化す選択肢が無いでもなかったが、離の言葉端には心配の色が窺えた。
己とて、情人が薬に頼らねばならぬ不調を抱えていると知れば心配せずには居られない。離のその気持ちが分かるだけに、無理に押し隠そうという気にはなれなかった。
「……実は……、」
そうして坤が訳を話している間、離はまるで現し世でそうしている時のように、坤の話を丁寧に紐解いていった。
やれ何時からか、どうしてそうなったのか、何か思い至る点は。いつ、なぜ、どこで、どうして、どのように。事細かに尋ねられるまま答えて行きながら、さながら医師の問診のようだなと坤は考えた。
実際の所離は医師では無く薬売りであったのだが、まぁそう遠くは無い。なにより病状を明らかにしようと質問を重ねられているのだから、問診ではあるのだろう。
「ふむ……」
一通り話し終わり、坤は離の診断結果を待った。口元に手をやり考え出した離を急かす様な真似はしたく無いが、彼を見ている間もくぅくと腹が鳴って仕方が無い。寧ろ今までにない位腹が減っているような気さえしてくる。
だがきっと、己よりも知見の深い離の薬売りであればこの空腹にも病名を付けてくれるだろうと期待して待った。
「……一つ確認なのですが」
「はい」
そういって離は膝を進め距離を近づけ、まるで触診するように坤に右手を伸ばした。断る理由も見当たらないので大人しく向かい合っていると、離の指先は坤の帯上、丁度鏡を携えている位置の真横に当てられた。
「もしや此処では無く、」
言葉を区切った離の指が帯の上を滑り、するりと位置を下へと下げた。指し示られたのはお端折りの上。丹田と呼ばれる場所だった。
「此処、ではありませんか?」
「え、」
思わぬ指摘に瞬く坤を他所に、離はニタリと目を細め、指先に僅かに力を込めながら今度は上へと撫で上げた。スリ、スリとまるでその場所を意識させるような動きに、何故だか空腹が増した気がする。
「そ……う、かも、しれません……」
「あぁ成る程。それならアナタ、それは腹が空いているんじゃあ無くて」
ズイ、と身を近づけた離の唇が耳元に寄せられ、どこか熱の籠ったような声音で囁かれた。
「胎が切ないって言うんですよ」
「は、え……なッ」
イロを持った声音に坤が意味を取り違える事も無く。離が言わんとしている事を正しく察する事が出来た。胃でも腸でも無く、離を収める為の胎が切なく疼いているのだぞ、と。
途端にカァアッと赤くなってしまった情人に、離は口角が上がるのを我慢しきれなかった。
「となれば、満たしてやらないといけません、ね?」
頬だけでなく耳端まで真っ赤に染め上げた坤が顔を伏せ、ウゥ、だかアァ、だか唸りながらもコクンと頷いたのを見て、離はどうやら食欲だけでなくソチラも旺盛だったらしい情人を、いそいそと閨に連れ込むのだった。