水飴の声音 言い訳にもならないが、魔が差した、というやつだった。
少しだけ。ほんの気持ち程度。どうしても気がかりで。
坤の薬売りは、もの凄く限定的な形で『心の声が聞こえる』ようになる術を使っていた。仕事においては使うべきでない代物なので、使えはしても使う機会など滅多にない術だった。なにせ理という奴は厄介で、語って聞かせて初めて示されるものであるので。一方的に暴き立てた所で、なんの意味も為さないのだ。
ではなぜ坤の薬売りがそのような術を使っているのかというと、それは簡単な話。仕事とは全く関係の無い、私的な都合という奴であった。
ただ一人の男として、好いた相手の胸の内を知りたいなどという。何とも身勝手で、恋の熱にやられたヒトの愚かさの成せる業であった。最も、普通の人間であればそのような術など使えやしないだろうが。
ともかく、坤の薬売りは『心の声が聞こえる』ようになって、想い人である離の薬売りの胸の内を聞いてみたかったのだ。暴いてやりたかった、とは言わない。寧ろひっそりと、当の本人にはバレないようコッソリと心を覗いてみたかったのだ。
なにせ、離の薬売りは大変口数が少ない。決して口下手な訳では無く、寧ろ口は上手な質だが自分の事は語りたがらない。モノノ怪退治の場であれば坤も同じように、場にいる者たちに語らせるように立ち回る。だが素の部分ではその限りでは無く、こと恋愛にいたっては口に出したい質だった。
お慕い申し上げております、と上品に言うのも好きだし、好きだ、と直球に告げるのも好きだ。とにかく言いたい、態度に出したい、伝えたい。言葉の大切さを知っているから正しく伝えたいし、伝える為には態度で示す。
反対に離の薬売りは余り言葉にも態度にも出してくれない。坤がいくら好きだと伝えても『はい、はい』と短く返されるか、運が良くても『私もですよ』と返されるくらいだった。離の薬売りもまた彼なりに言葉というものを大切にしているので、大事な言葉こそ余り口に出さないというだけの話だ。
別に、それに不満がある訳では無い。いや、それは些か見栄を張り過ぎだろうか。なにせ結局の所、離の薬売りの胸の内を知りたいと思ってしまっているのだから。
坤は自己肯定感のしっかりとした男であり、またそれでいて思いのほか客観視することに長けている男でもあったので、すわ離の薬売りが己の事を好いていないのでは、などという悲劇的な想像はしちゃいなかった。
まぁ確かにその通りであったし、何よりもしも、もしもではあるが離が坤の事を好いていやしなかったのならば、即刻、別れを切り出されていただろう。離の薬売りはあれでいて、己の意に沿わぬ事は頑としてしない質であったので。
なので坤が態々術を使ってまで離の薬売りに求めた事は、ほんの些細な事だった。
ちょっと『好きだな』だとか、『可愛らしいな』『格好良いな』などと思っていてもらえたならばどれだけ嬉しいか、と。だが思ってはいてくれていたとしても聞けやしないなら無いのと同じこと。
これが普通の人間であれば大概の場合は夢想で終わる。
だがその手段があって、ちょいと魔が差してしまって。一言さえ聞けたのなら、どれだけ嬉しいだろうかと想像してしまえばお終いだった。
逢瀬の時を狙って術を使って。離の心の声を盗み聞く事に、全くの罪悪感が無かった訳では無い。だがだからって上手く離に喋らせれる程言葉巧みである自信は無かった。
離の薬売りに何か術を掛ける訳にはいかなかったので――掛けれたとしても即座にバレてしまうだろうし――己に術を掛け、ソッと離の心の声へと耳を傾ける事にした。
それも術には念には念を入れて、坤が接触している相手の声だけを聞き取れるように発動を限定的にさせていた。声を聞きたければ離の傍に寄って手でも肩でも触れ合わせれば良い。これなら事故などは起こらないし、万が一聞いてはならない話題になったとしたら少し離れるだけで済む。
それだけ用意周到にしておいてから、坤はいざ離の心の声を聞かせて貰おうと、ソッとその白魚のような指先に手を伸ばした。
坤が近況や現し世で見聞きした事を話していて、ふとした瞬間に訪れた沈黙の時間の事だった。このような触れ合いは普段から行われていたので、優しく重ねるだけのそれを拒まれる事は無かった。
さて何を思ってくれるのだろうか。『好きだ』と思ってくれていれば上々、聞かせた話が『面白かった』と思ってくれているだけでも十分だった。
ひゅう、と頬を撫でた風に誘われるようにして離の薬売りの方を見やり、次いで聞こえて来る言葉があった。
『今日も随分と、色々語って聞かせてくれて……』
それは待ち望んでいた離の心の声だった。殆ど視線だけで盗み見るようにして見やった離の口元は確かに動いていない。しっかりと術は発動しているようだ。
後に続く言葉は『面白い』くらいなものだろうか、と坤が思った時。
『あぁ……なんて愛おしい』
どろり、と。なにか粘度のある物が零れ落ちたのかと思った。
柔こい癖に粘度があって。口に含める筈も無いのに、甘いと錯覚してしまうような。
まるで、水飴のような声音だった。
ドッと心臓の跳ねる思いだった。いや、実際に思いっきり跳ねた。耳で聞いた訳では無いのに、自身の耳を疑った。今のは本当に、離の薬売りの言葉だったのだろうか? と。
固まる坤を他所に、離の心の声は雄弁に続いて行く。
『怪我無く戻って来てくれて良かった』
それくらい口で言ってくれても良いじゃ無いか。
『それにしても、また仕事以外の場で女を惚れさす様な真似をして……』
そんな事してない。
『俺がどれだけ気を揉んでいるかも知らないで』
知らない。だって、言ってくれやしなかったじゃないか。
『人懐こい所も好きではあるが』
好き、って。言った。
『アンタを一番好いているのは、俺なんだから』
いよいよ坤は堪えきれなくなってしまい、はくはくと唇を震わせ、熟れ切った苺よりも真っ赤になってしまった。だって、これ程までに沢山の言葉を聞けるとは思っていなかったのだ。それもこんなにも、愛情や独占欲、それから恋情に溢れた言葉たちを聞くことになるだなんて。
言葉というのは確かに言葉そのものの意味も大切ではあるが、声に出すならその音というのも重要だ。言葉に乗る熱一つで、全く違う意味合いになる。
坤が聞いてしまった離の心の声は、それが心の声であるせいで、口に出した物より余程直接的だった。原液、とでも言えるだろうそれを浴びてしまった坤は、とても平静を保ってなど居られなかった。
さて、手を握ってから坤が一言も話さないとなれば離の薬売りも訝しむというもの。怪訝に思った離が坤の方へと振り返ると、相手が顔を真っ赤にして唇を震わせているのだから何事かと思うだろう。
「離の方? どうかされましたか?」
そう尋ねて来る最中も『心配だ』『どうかしたのだろうか』と繰り返されるものだから、いよいよ坤は恥ずかしいやら嬉しいやら申し訳ないならで背を丸めて蹲ってしまった。
「すこし……おまちになってくださいな……」
もごもごと不鮮明な声音で返事をしつつ、あぁ、訳を話したらさぞ怒られるだろうなぁと考えた。けれども手を離すのは惜しくって。あぁいっそ今すぐ己の心の声が離の薬売りに聞こえる様にならないだろうかと思ってしまった。
そうしたら、同じくらいの熱量で「『好きです』」と伝えてやれるのに、と。