【うちよそ】沢渡風雅の苦難【織葉町】 日中にも関わらず、薄暗く人気の少ないビルの裏路地の近く。いかにもと言える黒塗りの車が停まっている。
「いない…!知ってた…!またどっかほっつき歩いてんな、あの人は…!」
黒龍会の新入り、沢渡風雅は運転席でがくりと肩を落とした。幹部に「今日の会合に沖を連れていく。迎えを頼んだ。……頼んだぞ」と念を押され、車に乗り込んだのが約一時間前。
遅刻厳禁。時間厳守。どんな職種であれ……例え巷では極道と呼ばれる健全とは言い難い組織であれ、そんな社会的ルールが存在している。しかし沢渡の待ち人、黒龍会の構成員、柳世沖には常識というものが通用しない。待ち合わせ時間が過ぎても彼は現れなかった。
「しかも電話も繋がらないし……さてどうするかな……」
ハンドルにもたれかかり沢渡は何度目かのため息をつく。
柳世が携帯電話を携帯しないことは、組の者なら耳にタコができるほど聞かされている。上層部にとっても頭痛の種だ。しかし当の本人はどこ吹く風といった顔で「家には、固定電話がある……それで事足りる……」や「充電が……面倒だ……よく、忘れる……」などと供述している始末。
肝が座っているのか、はたまたネジが何本かトんでいるのか。それともただのワガママなのか。構成員たちからも疑念の声はあがるが、柳世の情けも容赦もない「仕事」を目の当たりにしている手前、皆そっと口を閉ざすのである。幹部ですら「仕事はしっかりこなすからな」と黙認しているらしい。それでいいのか黒龍会。
「GPSでも持たせるかって話も挙がったようだけど、あの人どうせ持たないもんなー……はぁ……」
柳世沖はどこにでもいるし、どこにもいない。そう言ったのは誰だったか。そんな神出鬼没な柳世を自ら探しに行くのも悪手だと判断し、沢渡は車内で待機せざるを得なかった。手持ち無沙汰のまま、サングラスを軽く上げ、再びため息をつく。
もしこのまま柳世が現れなかったら?会合に間に合わなかったら?たとえ柳世を遅れて会合に連れていったところで、遅刻してスミマセンはいオワリで済まされるとは思えない。むしろこちらの社会的信用や立場が終わる。今日の会合がどのようなものかを沢渡は詳しくは聞かされていないが、先方だけでなく幹部の顔にも泥を塗る行為だと容易に想像できる。
仁義を重んじ、礼儀を尽くす黒龍会。もし何かしら失態を演じれば、組の一員としてケジメをつけなければならないだろう。だとすれば一体どのような方法で。沢渡はどこか他人事のように具体的なケジメの付け方について思案したが、途中で思考を放棄した。
「……明日の朝日を五体満足で拝めるといいんだけど」
ぽつりとこぼした沢渡の言葉が天に届いたのか、数分後、待ち人はひょっこりと現れた。予期せぬ同行者をひとり連れて。
こんこん。
不意に聞こえたノック音。死角の左側から。沢渡は咄嗟にスーツの内ポケットに手を伸ばす。
(っ、気配がなかった……あ!)
窓の外、見慣れた和服姿の柳世が沢渡を見下ろしていた。
「沖さん!やっと来てくれた!……って、それ」
「…………拾った」
今ならまだギリギリ会合の時間に間に合う!と希望の光が垣間見えたが、沢渡の隻眼が捉えたのは柳世の両腕に抱かれた黒猫だ。
「また野良猫拾ってきたんですか……」
「ん。家の、近くにいた……。怪我を、している……病院に……」
連れていくか、それとも柳世沖を会合へ送り届けるか。選択を迫られた沢渡の迷いは一瞬だった。
「まぁー…猫の命には替えられないか。私の猫が世話になってるところに行きましょう」
「ん」
小さく頷く柳世が腕の中の黒猫を軽く撫でる。なんの変哲もない。ただそれだけの光景。しかしそれを目の当たりにした沢渡は、胸の内を何かが掠った感覚を覚える。
(……よかったね。キミはきっと運が良い)
そう沢渡は心の中でつぶやき、即行動へ切り替えた。
車から素早く降り「早く乗ってください」と後ろのドアを開ける。沖を後部座席へ押し込むと再び運転席に乗り込んだ。慣れた手つきでギアを握る沢渡の背中に声がかかる。
「安全運転で、頼む……」
「任せちゃってくださいよー。シートベルトちゃんと締めてくださいね」
目的地を動物病院へ再設定し、脳内で最短ルートを割り出す。幸い、この時間なら目立った混雑はないだろう。アクセルを踏み、違反しない程度のスピードで車を走らせた。
「沖さん、病院終わったら一緒に怒られてくださいね。私、指無くすの嫌ですから」
「努力は……する……」
「頼みますよ、ホント」
「……風雅」
「はい」
「助かった……ありがとう……」
常識が通じない。何を考えているのか分からない。血も涙もない冷徹な男。それが黒龍会へ足を踏み込んだ沢渡が耳にした柳世沖の噂の数々だ。
しかし今のは打算も駆け引きもない一言だった。柳世の飾らない言葉に、沢渡は妙な気持ちになる。思わず上がりそうになった口角を片手で押さえた。面倒なことや煩わしいこと、己の感情を乱すこと。それらを軽く受け流す術を持っているはずなのに。どうにも調子が狂う。そんな自分に気付かぬフリをし、沢渡はいつもの調子で返す。
「礼を言うなら、次はちゃんと電話出てくださいねー」
「…………」
「ちょっと。そこはなにか言ってくださいよ」
「……善処する」
「うわぁ、一番信用できない言葉……あ、あとちゃんとスマホの世話もしてあげてくださいね。また充電切れてたでしょ」
「いや……持ってきて、ないな……」
「携帯電話の意味…!」
柳世沖という人物は分かりづらい。口数も極端に少ない。しかし言い換えれば、必要なことしか言葉にしない。そう思えば、沢渡は苦に思わなかった。
「まぁ、いいか。後のことは病院に行ってから決めましょう。まずは善は急げ、ですね」
「ん」
結論から言えば、沢渡の選択は正しかった。カタギと小動物に優しい黒龍会。その名に恥じぬ行動であったと、後に沢渡が組内で称賛を受けたのはまた別の話。
一方、柳世は幹部から「お叱り」を受けたらしいが、相変わらず涼しい顔をしていたという。通すべき筋は通した。あとは「仕事」で返せ。ついでに携帯電話を持て。そう告げられたようだが、柳世沖はいつまでも柳世沖のままであった。
【後日談】
退院した黒猫はしばらく柳世の家で保護する運びとなる。その間、柳世宅への来訪者が倍増した。柳世の世話でもともと出入りしている若い衆だけでなく、山菜採りついでに立ち寄る者、話を聞きつけ猫への貢物を捧げにくる者……挙句の果てには「組のモンを骨抜きにしている別嬪だと聞いてな」と、ある幹部までもやってきた。こうして数日間、黒猫は屈強で強面の男たちを次々に陥落させていった。はたしてそれでいいのか黒龍会。
後に黒猫は里親募集をしている町の商店街にある猫カフェへと連れて行かれた。そこで働くとある赤毛の店員曰く「どう見てもカタギの人間じゃなかったが、猫には関係ないことだから引き取った。それだけだ」とのことだ。