海上を撫でるように吹くぬるい風。逆さまの三日月がゆらゆらと水面に揺蕩う。地上での暮らしを選んだかつての蛋民の一族が水上に残していった小さな小屋は、古くはあれど一時の止まり木として十分すぎるほど頑丈だった。
静かな夜だった。呼吸のために浮上した魚がとぷんと水面を割り、小さな波紋が月の形をわずかに崩すやすぐに穏やかさを取り戻す。夜の静寂を破るのはそんな小さな物音と、男の低いうめき声だけだ。
「四仔、おい、しっかりしろ」
固定された右足を苦労して動かし、十二は椅子の上で窮屈そうに体を丸めている男に近寄っていき大きな肩に触れた。寝床でうまく眠れないとき、四仔は外に出した椅子の上でごく浅い眠りに落ちては悪夢にうなされている。ここにいる二人も似たようなものだが、四仔はとくに酷いようで、そんな時十二は出来るだけ側にいることにしていた。
「なあ、お前が見ているもんが俺には分かるよ。お前は一人じゃない。何も怖くねえよ。全部夢だ、現実じゃないんだ」
肩を叩き、背中をさすりながら低く落ち着いた声色で呟く。大敗を喫した城寨での戦いの後ここへ来てしばらく経つが、何度も幾夜もうなされ苦しむ四仔を宥めるうちに十二は懐かしい奇妙な感情を覚えていた。
───負けるな、耐えろ。生きろ。お前は強い子だ。何も怖かねえ。そうだろ、坊っちゃん。大丈夫だ、お前には俺がついている。
その声は肩に置かれた大きな手のひらと同じぐらいざらついていた。
遠い昔のことではあるが、思い出に出来るほど風化してもいない記憶の中の十二はまだ薬物中毒の少年だった。フラッシュバックや離脱症状にのたうち回る十二の傍ら、右目のない虎は穏やかに励まし続けた。
今の四仔はあの時の俺と同じだ、と十二は考えた。脆弱な心に付け入って現れる悪夢が見せるものがどんなものか予測はつく。今の四仔は不安定な手負いの獣のようなものだ。そばには誰かがいて見守ってやらなくちゃならない。十二はそれをよく理解していた。
自らも手酷い怪我を負いながらも、昼間の四仔は仲間の二人の経過を診て甲斐甲斐しく世話を焼く。休息と隠遁を目的としたこの水上小屋での生活は彼の存在が前提で成り立っているようなものだ。せめて精神面だけでも支えてやりたかった。
虎兄貴や信一の部下たちの助けもあって暮らし向きは悪くない。だが壊れた部分は修復に時間がかかるし欠けた指が戻るわけがない。気晴らしにとここへ訪れる部下を交えて麻雀をやってみるも張り合いがなく、そのうちやる気も起きなくなって牌はばらばらのまま放置されている。
この生活はいつになったら終わるのだろう。ふとした瞬間に泥濘のような絶望感が襲い、底なしの虚無感に引きずり込まれる現状は、果たしていつになれば癒えるのか。物資と共にもたらされる情報によれば、秋兄貴は拉致されたまま、城寨を巡る利権争いは膠着状態にあり、つまりは何も変わっていないのだ。
滞留したこの状況を打破する何かがほしかった。少しでも風穴が開けられたらそれでいい。守りたいものを守り抜き、そうでなければ共に朽ちたいと希うのは何も龍捲風だけではない。脚の一本がなんだ、四肢のうちどれか残っているなら十分戦える。この身体には使える命がまだ残っている。それなのにこの体たらくはなんだ。今は立ち止まっている場合ではないはずなのに。いくら拳を振り下ろしたとて何の反応も返さない右足が憎い。簡単に折れる骨も、刃の一閃で血を流す肉体も、弱いこの身体の全てが憎くてたまらない。
近頃の十二は、突発的に煮えたぎって溢れそうになったと思えば、急速に冷えて陰鬱とした塊となって体を動けなくさせる感情の抑制に精一杯だった。
普通の人間はこういう時にどう対処するのか十二は知らなかった。これまでは虎兄貴の引く手綱があった。龍兄貴の庇護があった。今は何も頼れない。ここには何も無い。
十二小と呼ばれる前の自分が知っている方法は───。
封じたはずの禁忌は意識のすぐそばにあった。
それは簡単に開けられる。開けたらここから逃げられる。一時凌ぎにしかならなくても少なくともこの一瞬を耐える時間稼ぎにはなるその方法。時間も感覚もぐちゃぐちゃに溶かして、現実を無かったことにすらしてくれて、違う次元へと導いてくれてどこまでも飛んでいけて肌を突き破って出てきた蛆虫が仰ぎ見た街のビル群を煮溶かしたジュースから生まれた蝶の翅の幾何学模様が視界を覆ってぎらぎら光って幾重にも重なって熱くて冷たくて脳みそが弾けて世界が可視領域を超えて色付いて宇宙は微細な紐で出来た巨大なエッグタルトで暖かくて寒くて大量の虫が腕を這い寄って───。
「おい」
背後から声をかけられたのと同時、口の中でガリッと固いものが砕ける音がした。右手の親指が鋭く痛み、舌の上に鉄臭さが広がる。いつの間にか口元にやっていた手を離してみると、爪が食い破った部分からめくれ上がり、中に食い込んで血が滲んでいた。
左手がやけに湿っぽいと思ったら、四仔の背中に回していたはずの手の平は彼のシャツを巻き込んで固く握りしめられていた。いつの間にうなり声は聞こえなくなっている。眠れたのかどうか、顔は布に覆われ判別がつかないが、静かな呼吸音が聞こえてくるので生きてはいるらしい四仔の様子を伺いつつそっと左手を離し、朱色に染まった右の親指をさりげなく拳の中にしまい込む。
なんだか感覚が遅れてやってくるようだ。脳みその中に蜂が巣食ったようにブンブンと唸り声をあげ続ける思考を振り払うように何度か頭を振ってみる。背後に視線を向けるとこちらを見つめる信一の姿があった。
なんだと問うたが、声をかけたわりに話す事はないらしく信一は注意深く十二を見つめたまま黙りこくっている。思考の奔流に飲み込まれそうになっていたところを引き留められたのだと、十二はやっと気付いた。
「なんでもねえ、平気だよ」
視線を反らし、軽い口調で言いながらヒラヒラ手を振ってみせたが、それでもなお信一の視線は鋭くうなじを焼いた。
信一とは長い付き合いだ、何も平気じゃないことくらい勘付かれているのだろう。さすがに説得力のない発言だと思い直し、十二は更に言葉を重ねた。
「でも今夜は考え事すんのに向いてないみたいだ。お前も程々にして寝ろよ」
「それが今夜は眠るのにも向いてないらしくてよ」
「じゃあ何したらいいんだろうな」
「十二」
信一の声色には今度こそ十二を咎める響きがあった。
「その顔をやめろ。ガキん頃と同じツラしてるぞ」
「そんな酷いか、俺の顔」
信一は少し考え込み、身も心も死んでるくせに飢えて獲物を探してるゾンビの目つきだ、と形容した。確かにひでえツラだと十二は答えた。
「腐っても虎の右目がラリってちゃザマねえだろ。ヤクはやらねえ、心配すんな」
なんせ四仔のお膝元だしな、と付け加えると信一はようやく警戒を緩めたようだ。
「俺たちの前でそんなもんに手を出してみろ、そん時は──」
信一は残った人差し指と親指を静かに十二へと突きつけた。拳銃の形をしたそれは文字通りのハンドガン。ばあん、と信一が発した間の抜けた発砲音とともに架空の銃弾が弾き出され、十二の脳天を撃ち抜いた。
「おう。確実にやってくれ、頼むぜ」
十二は半ば本気だった。敵となれば友人を手にかけることも厭わない裏の世界の住民だ、信一もそのつもりでいるだろう。
ははは、と乾いた笑いをこぼしたのは二人同時だった。無理に作った笑い声はあぶくのように消えていった。
ほんの数ヶ月前まで無邪気に笑えていたはずだ。どういうわけだか笑い方も軽口の叩き方もやり方が思い出せなくなっていた。
不自然に引きつらせていただけの口元を、すっと真一文字に引き結ぶ。
四仔の傍らに座り込んだ十二、その隣で信一が立ち竦み、皆何も言わず海を見つめた。
静かな夜だった。あまりに静か過ぎた。黒社会の若造たちと闇医者、馴染みの面子が揃っているというのに笑い声はおろか会話のひとつもないなんて今までに一度もなかった。
腹の底で渦巻く感情は三人とも共通している。気持ちを共有しているがゆえに、誰も何も口に出せない理由も分かっていた。
喉元にせり上がって吐き気をもよおすほど巨大な空っぽが全てを押し潰し、どんな言葉も意味を持たない気がしてろくな形になれやしない。城寨での戦いについて、過去の因縁について、これからのことについて語ろうとする言葉のひとつひとつが全く正しく、全く見当違いで、結局たらればの話でしかなかった。
ただ言えるのは、ここには無事な命が三つあること。使用可能な足が五本と指が二十七本。これが気功を操る不死身の男に使える残り弾数だ。
数が足りない。戦うにしても、麻雀をやるにしても。
十二の脳裏には一人の男が浮かんでいた。
自らが城寨に大きな波紋を呼び起こす一石であるとも知らず飛び込んできた男。十二が自らの過去を重ねて救ったその存在は、真面目な性格なのに何かを巻き起こしそうな予感を秘めていた。
賭けるとするなら全ての始まりであるあの男しかいないと思っていた。死の可能性は考えない。必ず生きていると十二は確信していた。
彼は三人があの戦いで掴んだたった一つの勝利、唯一果たした約束なのだから。
お前は今どこにいる、陳洛軍。
自分の明日を繋ぐ以外の命の使い道を知った今、座標もなく生きていけるのか。糸で繋がる凧は自由に飛べる。落ちても手繰り寄せられる。九龍城寨という場所はまさしく糸だった。その命に繋がった糸をお前は断ち切れるか。
何を言っても空虚さに襲われ声に出すことも出来なかったが、十二は唯一形になり得る言葉を見つけた。
「洛軍が生きて戻ってきたなら──」
無意識に口にした十二の言葉に引き寄せられるように信一の視線が向いた。信一だけではない、隣でじっと十二を見つめる四仔の瞳もあった。ああ、こいつらも同じだったのか。それを知るだけで心が軽くなる。
「勝つのはその時。四人揃った時だ」
どぷん、と重いものが水面を跳ね上げる音がする。浮上してきたのはずいぶんと大魚だったのだろうか、生じた波紋はそのまま床下まで届いた。黒々とした液状の影だった海は、地平線から白く輝き始めていた。
もうじき日の出だ。
長く苦しい夜が、ようやく終わる。