時刻は十八時半。闇に紛れるような黒いレインコートを着た俺は、人混みを避けながら足早に目的地へと向かっていた。
ああくそ。
悪態が口を衝いて出る。当直明けの日勤をようやく終え、今は別件の仕事に当たっている最中だ。人目を憚る為の格好とはいえ、まだまだ蒸し暑い季節にビニールの服はきつい。暑さと疲れから、休む間もなく依頼人の為に動いている現状を思うとだんだん苛立ちが込み上げてきた。全ては自分が選んだ道とはいえ、依頼人の呑気な顔を思うとどうも腹立たしい。
依頼人──ドブが指定したコインパーキングに向かう途中、よく見知った顔を見つけた。
白縁の眼鏡をかけた、自分と瓜二つの顔。双子の弟だ。
ああくそ。二度目の悪態をつく。
そういえばあいつは今日は非番だったことを今更思い出す。普段インドアなくせにこんな時に限って。飯か? この辺の飲食店といえば──もしかしてすぐ側のとんかつ屋? クソが。この間俺が弟に教えた店じゃねえか。このコインパーキングを指定された時にこうなることを予測できなかった自分の認識の甘さを呪いたくなるがもう遅い。俺はレインコートのフードを深く被りなおし、急いでパーキングに入ると目的の車を探した。
紺のミニバンは少し入り込んだ場所、黒いハイエースの影に隠れるように停められていた。周囲に目を配りながら車に乗り込み、エンジンをかける。
弟はこのミニバンの所有者を突き止めている。地道な聞き込みの成果だと誇らしげに語っていたから。もし弟がミニバンを見つけたなら必ず追跡しようとするはずだ。悪に関して目聡く、粘着質な弟なら。
料金を支払い、ステアリングをイライラと指で叩きながらカーゲートが開くのを待つ。早くこの場から離れなければ。焦りと苛立ちで運転は荒っぽくなり、コインパーキングを出る間際、通行人を驚かせてしまったようだが今は気にしていられない。
信号を待ちながら視線をバックミラーに移す。背後に車はない。大丈夫そうだ。
ステアリングから離した右手で助手席を探った。車に乗る際放り込んだままになっていたマチ紐付き封筒はシワ一つなくシートの上にある。中身は警察内部の個人データが詰まったUSBだ。もちろん末端の警官が簡単に入手できる代物ではないが、依頼人は容易く要件を言ってくるものだ。
ボスが欲しがってたんでね、と笑う依頼人の猿顔が脳裏を過ぎった。
ドブとはもう長い付き合いになる。交通遺児育英会のトップである黒田という男から紹介を受けたのが事の始まりだ。あの頃まだドブは指名手配犯ではなかった。お互い助け合える関係を築きたいのだと黒田は言った。
孤児となった俺達を支援してくれた財団法人の実態は、この黒田を中心とした反社会的組織だった。それを知ったのは警察学校を卒業した後だった。
俺達を救った者の正体を知り、あの頃の俺は純粋に感動した。だってかっけえじゃん。人を救うヤクザだぜ。あの頃の俺にとって黒田はヒーローだった。それもただのヒーローではない。バッドマンやデビルマンのような、自分の正義の為なら何でもやる、世界の裏側で暗躍するダークヒーロー。俺は黒田の力になろうと決めた。全ては恩義に報いる為だ。
ドブは実に狡猾な男だ。この男もボスへの筋を通す為に働いているが、ドブのやり口は容赦がなった。少しでも上がりが増えるならそれでいいという奔放な思想の持ち主で、シノギの際には組のルールに反する殺人以外のあらゆる手段を用いた。この世界にはいっそ死んだほうがマシだと思える状況がある。彼のシノギに加担するうちに学んだことだ。社会の底に沈んでいく者たちを何人も見てきて、俺はようやく悟った。
人を殺さないヤクザが裏社会を生き抜く方法を。
黒田が行っている資金援助は孤児のみならず、触手のようにあらゆる分野の業界に伸びている。警察内部には俺と同じような境遇の協力者がまだいるはずだ。恩義を対価に人を操り助力を得る、それが黒田という男のやり方だ。そうやって組は生き延びてきた。莫大な資金の出処はドブたち組員のシノギだ。つまり大勢のカタギの人間をダシにして組の事業は成り立っていたのだ。もちろんあの育英資金も。
犠牲となった人間こそ本来俺が守るべき人達なのに。
それに気付いた頃にはもうすでに後戻り出来なくなっていた。
都心から離れた郊外のマンションがドブのアジトだ。駐車場に車を停め、封筒を手にエントランス脇へと向かう。その場所はカメラや人目から死角となっている。
今更になって丸腰であることに不安を覚えた。勤務中は腰に提げているニューナンブM60の重さが恋しい。もしここに武器のひとつでもあれば。ドブの姿が見えた瞬間目にも止まらぬ速さでホルスターからリボルバーを抜く。トリガーを引くや砲口から飛び出した.38スペシャル弾があの猿顔を貫く。そしたら俺は自由になれる。──そもそも俺にその勇気があればの話だが。しょせん頭の中でしか描かれない未来図だ。
俺はフードを脱ぎ、物陰に潜む人物に声をかけた。
「来たぞ」
「随分遅かったじゃねえか、大門」
笑いを含んだ低い声。俺は苛立ちを抑えて言う。
「とぼけるな。時間きっかりだ」
「例のデータは持ってきたな?」
俺は黙ってドブに封筒を渡した。中身を確認したドブは満足げに頷いた。
「ご苦労さん。またよろしく頼むわ」
「労働に対する見返りは無しか?」
これを入手するのにどれだけ骨が折れたことか。少しくらい労ってほしい。ドブの雑な礼だけじゃなく。
ええー。ドブは不満そうに呻いた。そうだな、としばらく考えて、
「煙草吸うか?」
ポケットをガサガサ探り、こちらに差し出してきた白いソフトケースから小さな紙筒が一本飛び出していた。タール14ミリのそれは世間ではミドル世代が好むイメージを持たれている銘柄だ。オヤジ臭いのは嫌いだ。俺は首を横に振った。
「いいや、遠慮する」
「ンだよ。どいつもこいつも健康志向かよ。どこもかしこも禁煙禁煙。世間では喫煙者の肩身は狭くなる一方だ。こっちはちょっと多めに税金払ってんだぞ。いい加減にしろよなぁ」
お前は指名手配犯なんだから嫌煙家だったとしても世間で肩身狭いだろ。言いかけて、やめる。
ぶつくさ文句を垂れていたドブの顔が一瞬強張った。無意識なのか、左手がさっと右膝に触れた。
「一雨くるな」
「分かるのか?」
「ああ。降水確率50%、降水量20ミリってところか」
ドブは得意げに言う。
「膝の古傷が教えてくれるんだよ。便利だろ。下手な気象予報士よりよっぽど当たるぜ。お天気キャスターになれるんじゃねえかって後輩には言われたな」
そうかよ。
自分から聞いておいてなんだがあまり興味がなかった。それに俺は基本的にドブの言葉をいまいち信用していない。
「レインコート持ってて良かったじゃねえか」
誰のせいでこれ着る羽目になったと思ってんだよ。つまんねえ皮肉だな。文句を言う気力もなく何も応えずいると、近くで車が停車する音を聞いた。二人は咄嗟に建物に張り付くように身を潜めた。
駐車場を通り抜けてこちらに近付く人影が見える。俺は正体を突き止めようと目を凝らした。
舌打ち。逆光に白縁の眼鏡がぼんやり見える。間違いない、弟だ。
ミニバンは弟に発見されていたらしい。いつの間に追跡してきやがったんだ、あいつ。
「ちくしょう。あいつに見られてたのかよ、クソ」
「警察か?」
苛立つ俺の隣、警戒心を露わにドブが言う。
「ああ。だが安心しろ。あれは俺の弟だ」
「弟って、そういえばお前双子なんだっけ」
「適当にあしらってくる」
「上手く言いくるめられんのか?」
ドブは依然として不信感が拭えないようだった。当然だ。俺は肩を竦めてみせた。
「あいつ馬鹿だから。俺の言うことは何でも信じるさ」
もし俺が今までの悪行を洗いざらい白状したとして、果たして弟は信るだろうか。
さてどう言ってあしらうか。俺は言葉を練りながら人影へと向かっていった。
弟のあしらい方は心得ているが、ここまで楽だとつけて来たのが弟で本当によかったと思う。他の警官だったらこうもいかない。適当に褒めると弟は無邪気に喜んでいた。どうやって来たのか尋ねるとタクシーを使ったのだという。面倒な真似しやがって。弟に早く帰るよう促し、タクシーの運転手に口止め料兼ねた一万円札を渡すと、俺はドブのもとへと再び戻った。
ドブは開口一番不平を垂れた。
「しっかし尾行されるなんざヘマしやがって。バレたんならこのアジトはもう使えねえな。他を探さねえと」
「大丈夫だ。弟は大人しく帰ったよ。運転手の口も封じたからこの場所は誰にも知られやしない」
そうかよ。ドブは不服そうに言いながら視線を下に向けた。
「Tシャツのセンス最高だな。オフのお前と絶対会いたくねえわ」
「レインコートは弟に渡したんだよ。あいつと俺の顔をすぐに見分けられる奴は家族以外いない。あのタクシー以外の誰かに尾行されていたとしてもアリバイ工作になるだろ」
「へえ、少しは賢いじゃねえか。兄ちゃんの言葉を鵜呑みにする弟とは大違いだな」
お前に弟の何が解る。
お前を捕まえるのは弟だ。そしてお前を逮捕したら、次は。
「馬鹿なんだよ、あいつ」
俺は力なく呟いた。
「しかしお前もカタギの使い方が上手くなったよな。頼りになるぜ」
まるで俺がカタギでないかのような言い種だ。──いやもうカタギとはいえないか。俺は警察になってからというもの、誰かを救わずにこんなことばかりやっている。
弟ならどうしただろう。王道の正義を貫く弟なら。
──彼なら、そもそも相手がヤクザと分かった瞬間に逮捕しようと動くだろう。まして手を組むなんて論外だ。真っ当な人間が陥れられ馬鹿を見る世界なんて、悪だから。
「その、カタギの人間は上手く使えってのは」
不意に思い当たり、俺はドブへと向き直った。
「ボスからの受け売りか?」
「ああそうだ。俺もそうしてる」
道理で。ドブのやり口が黒田とそっくりな訳だ。
「……用は済んだな。もう帰る」
重苦しく息を吐き、俺はドブに背を向けた。
マンションを出た俺は宿舎へととぼとぼ歩いて向かった。弟はもう帰っただろうか。レインコートなんて着て歩いたら暑いだろうに、申し訳ないことをした。
考え事に耽っていると、突然鼻先を冷たい雫が掠めた。何事かと空を仰いだ顔めがけて雫がぱらぱら降り注ぐ。マジかよ。ドブの予報は見事的中した。驚くと同時にほっとした。レインコートをあいつに渡しといてよかった。
急がなきゃ。過る焦りを追い越して呆気なく雨足は強くなり、それに反比例するように俺の足は重くなった。
弟が盲信する賢く立派な兄。反社と黒い繋がりのある汚職警官。どちらも自分自身だが、二つの顔を使い分けて生き続けられるほど俺は器用でもないし強くもない。仏頂面を張り付けた薄い皮膚の下で、いつバレるのかと不安と恐怖で押し潰されそうだった。
俺は一卵性双生児だ。もともと半分に分けられた命だったのに、これ以上分割したら自分が無くなってしまう。
二つの自分が分裂しないよう融解しないよう、絶妙なバランスを保つのにあんなに必死だったのにあっさり雨が溶かしてぐずぐずにする。ここに居るのが本当の自分。ずぶ濡れで冷たくて寒くて惨め極まりない。弟が居て俺は初めて完全になれる。なあ弟。俺の片割れ。傍に居てよ。ひとりきりは怖いよ。
どうせならこのまま姿形も感覚も一つ残さず洗い流してくれたらいいのにな。何も感じなくなればいい。アスファルトを流れる雨水を羨ましく思う。
弟は、幸志郎は決して馬鹿ではない。いずれ全てを知るはずだ。その時弟は俺を許すだろうか。それとも俺を見限るだろうか。
どうか許さないでほしい。だけど傍に居てくれよ。そんな理不尽を願う俺を濡らす雨は、世界を撃ち抜く弾丸のようだった。