まともな会話 鈍い痛みを抱えながら、ハンジは薄暗い部屋でゆっくりと目を開けた。メガネがないせいで視界がぼやけている。でも、椅子に座ってこちらを見下ろしているその男が、リヴァイであることはわかった。有無を言わせないような威圧感。彼が纏っているオーラには、独特のものがあるのだ。
「やあ。ここは医務室かな?」
「そうだ。ここに担ぎ込まれた記憶はあるか」
ちゃんとは見えないけれど、どうやら彼はハンジをひどい目つきで睨んでいるらしい。その目線に気づかないフリをして、ハンジは天井を見つめながらこれまでのことを思い出そうとする。ベッドの上で右脚を伸ばそうとすると、不快な痛みが走った。それと同時に、徐々に記憶がよみがえり出す。
「十五メートル級を仕留めたところまでは覚えてるんだ。そのあと、立体機動装置のガスが切れて落っこちた。確かモブリットが空中でキャッチしてくれたんじゃなかったかな」
「違う。お前はガスが切れてそのまま地面に激突した。気を失ったお前を拾ったのはあいつだが、やつに担ぎ込まれて今、半日ぶりに意識が戻ったところだ。ちなみに右脚の骨は折れてる」
「そうだったっけ……?」
確かに、モブリットがキャッチしてくれたのなら今、動かせないほど右脚が痛い説明がつかない。おそらくリヴァイの言っていることが正しいのだろう。サイドテーブルに自分のメガネらしきものがあったので手を伸ばすと、リヴァイがそれをとって寄越してくれた。
「間抜けだな」
「はは……」
ハンジは力なく笑う。メガネを受け取ってかけると、ようやく視界がはっきりした。
「ところで、君はどうしてここに?」
「お前の意識が戻ったらエルヴィンに報告するよう言われている」
リヴァイは腕を組みながら生真面目に答えた。ハンジは枕に頭を乗せたまま首を傾げる。彼は、いつ目が覚めるともわからない自分を、ここに座ってただじっと待っていたということだろうか。
「それって、すぐに報告しに行かないとだめかな?」
「いや」
リヴァイは躊躇いがちに続けた。
「別にいいんじゃねえか。あとでも」
そう言うと、リヴァイは少しだけ視線を逸らした。
「じゃあ、もうちょっとここにいてよ。そこの水差しから水を注いでくれないか。喉が渇いちゃった」
ハンジがそう言うと、リヴァイはしぶしぶといった感じで椅子から腰を上げ、サイドテーブルにあった水差しからグラスに水を注いだ。医務室は静かで、グラスが水で満たされていく小気味いい音をハンジは聞いた。
「骨は寝てりゃくっつくとよ」
「そうかい。そりゃよかった」
なんとか自分で上半身を起こして、ハンジはリヴァイから水の入ったグラスを受け取った。
「お前が間抜けなのは昔からか?」
「は?」
口に近づけたグラスを思わず離す。リヴァイは続けた。
「クソ間抜けだろ。仕留めたくせにガスが切れて落ちたとお前の部下に聞いたとき、こいつは真性の馬鹿だと思った」
「そ、そうかな」
「だが飛ぶお前を訓練で見ていて、いつかヘマするだろうとも思っていた。本当にやりやがったな」
「飛ぶところ、訓練で見ててくれたの?」
ハンジが目を丸くして尋ねると、リヴァイは黙った。彼が地下街から連れてこられた他の二人の仲間と初めて壁外調査へ出たとき、その動きの素早さと強さに圧倒された。彼が一人で壁内に戻ったあとも、機会があるたびに付き纏い、コツを教えてくれと頼み込んだ。しかしリヴァイは「俺は我流だ」の一点張りで、ハンジに具体的なことは何一つ伝えようとはしなかった。
「嫌でも目に入る。お前は無駄に動き回るからな」
「そうなの? 自分では無駄に動いてるつもりはないんだけど……」
「体の中心じゃなく両脚でバランス取ってるだろ。だから無駄に動き回ることになってガスを消費する」
ハンジはリヴァイを見つめたまま、中途半端に持ったままのグラスからとりあえず一口、思い出したように水を飲んだ。リヴァイは変わらず、睨みつけるようにハンジを見ていた。なんとなく、ここから彼が言うことには、しっかりと耳を傾けたほうが良さそうだという予感があった。
「それで?」
「重心の位置がズレるから無駄にガスを使う。腰から重心をズラすんじゃねえ。なぜズレるか分かるか」
「いや、自分のことながらわからない」
「お前が意外と慎重で内心ビビってるからだ。いつも判断に迷いがある。てめえが出世したとして班の部下は全員犬死にだな」
ハンジはごくりと唾を飲み込む。リヴァイが兵団に来てから数ヶ月、こんなにたくさん喋る彼を初めて見たせいか、はたまた意識を失ったところから目覚めたばかりだからか、情報を受け止めるのに時間がかかっていた。
「だが猪突猛進型の馬鹿より見込みがある。全員犬死にを避けたいんだったらせいぜい鍛えとけ。気が小さいのは直せねえが重心は意識すればそのうちズレなくなる。それまで出世が遅れるといいな、ロクなことがねえ」
「えーと、つまり」
間抜けだの馬鹿だの部下が犬死にするだの気が小さいだの、散々な言われようだ。しかしよく話を聞けば、彼の物言いにそこまで悪意は含まれていないんじゃないか、とハンジは思った。
「アドバイスしてくれてるのかな? 私がもっとちゃんと動けるように。今まではコツを聞いても頑なに教えてくれなかったのに」
「万人に当てはまるような助言はできねえ。俺は教官じゃねえからな。ただ個別に見てりゃ思うことはある」
「個別に見ててくれたことが驚きだよ。訓練中も私のことなんてまったく視界に入ってないのかと……」
ハンジがそう言うと、リヴァイはバツの悪そうな顔をした。しつこく付き纏うハンジを無視しているようで、その実しっかり訓練の様子は見ていたと露呈することは、彼なりに都合が悪いらしい。
「それによくわかったね、私が意外と怖がりなこと。今まで誰にも指摘されたことなかったのに」
口に出したあとに気づいたが、「誰にも」というのはちょっと嘘だった。過去に一度だけ、エルヴィンには指摘されたことがある。ときおり攻撃に躊躇いがあると。しかしリヴァイが少し得意げな顔をしたので、ハンジはそれを胸の内にしまった。
「てめえみたいに頭が回るやつはビビりだと相場が決まっている」
彼は一応、観察眼を褒められたことが嬉しいらしい。意外と人間くさいところがあるのだな、とハンジは思った。
「確かにガス切れはこれまでもよく起こしてたんだ。こんな大怪我したのは初めてだけど……というわけで、気を付けるよ」
窓の外をちらりと見つつ、視線をもう一度リヴァイに戻してハンジは続けた。
「ところでさ、そこまで見ててくれるなら、個人レッスンしてくれない? この右脚の骨がくっついたら」
ハンジはグラスをサイドテーブルに戻し、折れている右脚を指差しながら言った。リヴァイは指差されたその方向を見ながら、呆れたように言った。
「兵医が言うに、骨がくっつくのには一ヶ月かかるとよ。立体機動で動けるようになるまでそこからさらに二ヶ月はかかるだろうな。つまりてめえは三ヶ月の間タダ飯食いの役立たずってことだ」
「耳が痛いよ。何もできない三ヶ月の間はせめて研究に励みたいから、モブリットに頼んでここに図書室から本を持ってきてもらおう。このサイドテーブルって机として使っていいと思う?」
ハンジがそう言ってサイドテーブルに手を伸ばし、少し位置をズラすと、リヴァイは少し怒ったようにそれを元に戻した。
「本はだめだ、埃が立つ。てめえは何か勘違いしてるようだが、タダ飯食いの役立たずにできることは大人しくクソして寝てることだけだ。飯代を稼いできてる連中の仕事を増やすんじゃねえ」
そう言ったリヴァイの顔を、ハンジはまじまじと見つめた。穴が空くほど食い入るように見つめたせいか、リヴァイは不可解な顔をしてハンジを睨み返した。
「それ、安静にして、早く怪我を治してねって言ってる?」
「そうは言ってねえだろ」
「いや、言ったよね? 要約するとそういうことだろ?」
ハンジが食いつくと、リヴァイはこいつめんどくせえな、という感じの顔をして視線を逸らした。
「わかったよ、暇だから本は持ち込むけど夜更かしはしすぎないようにする。それで一刻も早く怪我を治すからさ、もっと実地でコツを教えてよ。重心の位置を意識するって難しいよね? 意識するだけでいいの? 体の中心ってどこだろう、おへそのあたりとか?」
一気に喋ると、リヴァイは居心地が悪そうなものすごく変な顔をした。
「それもあるがお前はそもそも筋力が足りねえ。支え切れねえから両脚に重心がズレちまうんだろ」
「そうなのか……じゃあもっとトレーニングしないとだな。君、いつも兵舎の裏で一人で鍛えてるよね? あれ一緒にやっていい?」
「お前に俺と同じことができるわけねえだろ。そんな生ぬるくねえ」
リヴァイは小さくため息をついた。
「隣でやる気ならサボるんじゃねえぞ。手抜いたら蹴りを入れる。せっかくくっついた骨がまた折れねえといいな」
「つまり一緒にトレーニングしてくれるんだね! ありがとう、これからよろしく頼むよ!」
ハンジは半身を乗り出し、両手でリヴァイの手を取り握りしめた。いきなりのことだったので、リヴァイはかなり驚いたみたいだった。しかし、振り払われると思ったその手は、しばらく握りしめたままでいることが許された。
「お礼に、脚が治ったら今度こそ食事に行こう。初めて会ったとき約束したのにぜんぜん奢らせてくれないんだもの」
「……クソ高いところ指定していいか」
「もちろんだよ! だってお礼だからね」
別に、リヴァイは豪華な食事に興味はない。それでも、高いところと条件を出せばハンジが怯むとでも思ったのだろうか。実際は一瞬たりとも怯まず、喜んで食いつかれた。おかげで彼は諦めたような、もうどうでもいいような顔をする羽目になった。
そんなリヴァイをよそに、ハンジはなんだか嬉しかった。怪我が完治して彼に実地でアドバイスをもらえれば、もっと強くなれるからだろうか。ずっと話してみたかった彼とようやく食事に行けることになったからだろうか。あるいは、さきほどからずっと握りしめているこの手が一向に振り払われないからだろうか。彼女にもそれはまだわからない。
医務室の窓から日射しが差し込む。ハンジはそこで初めて、今が明け方であることを知った。
ハンジの意識が戻ったのは半日ぶりだと、リヴァイは言った。「一晩中付き添っててくれたの?」という無邪気な質問を、喉まで出しかかって飲み込む。胸の奥がむず痒いような気がして、ハンジはそこでようやく、リヴァイの手をゆっくりと離した。
グラスの中に残った水が光を跳ね返している。エルヴィンに報告に行くと言い、リヴァイもまた視線を逸らし、椅子から腰を上げた。