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    mokke

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    mokke

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    たえて桜のなかりせば 天色の空に映える、薄桃の花を見上げる。風に揺られ、花弁が空を舞うその光景を月並みに美しいと思う。
    「美しいな」
     声の主へと視線を移せば、その白い肌の上を木漏れ日が揺蕩っていた。その人は己が視線を気にも留めず、花を愛で続けている。
    「そうだな」
     隣の彼にも聞こえるか解らぬ程、小さな声で呟いた。
     ひらひらと光の粒のように、遠い空へ昇る花弁。その行き着く先は知れず。

     美しいと思うと同時に、その花を想うことに哀しささえ覚えるのだ。




    * * *


    「あ、伊織くんとセイバーくんじゃない!」

     山吹殿からの依頼で聞き込みのために吉原を歩いていた折、師匠と太夫に出会した。師匠から吉原にいる由を問われたので、軽く説明をすれば情報交換を持ちかけられ、立ち話もなんだからと茶屋で話すことになった。

     ここなら安全に話せるだろうと太夫顔利きの店に案内され、言われるがまま席に着く。
     人通りが疎らな路地にあり、店内にもほとんど人はおらず、静かだった。商いをするには不向きな場のように思えたが、僅かに入っている客達を見れば、身なりの良い者ばかりだ。それなりに敷居の高い店なのだろう。
     間もなくして奥から主人らしき女が出てきた。女は太夫と二人、こちらから少し離れた所で話し始め、時折、何かを確認するようにこちらを伺うのが見えた。
     席に戻るなり太夫は、そのまま待ってるといいさ、と云う。
     云われた通り待っていると、先程の女がやってきて、それぞれの前に温かい茶と茶菓子を並べてくれた。出された茶菓子は、普通であれば浪人に振る舞われることなどないであろう高級なもので、思わず太夫の顔を見る。太夫は何も云わずに、ただにこりと微笑んだ。
    「さ、ゆっくり食べながら面白い話でも聞かせてもらおうかねえ」
     向かいに座すセイバーは、菓子が高級なものだと知る由もなく、純粋にその瞳を輝かせた。春の花々を模した色彩豊かな茶菓子たちに夢中で、一口放り込んでは、「これは何の意匠か、何から作られているのか」と隣の太夫に問いかける。太夫は話を聞かせてもらおうと言った手前、話す側になってしまっているのだが、嫌な顔一つせず、セイバーの問いに対して丁寧に説明をしてくれている。普段から禿たちの相手をして慣れているのだろうか。こうしてセイバーと並ぶと、面倒見の良い彼女はまるで姉や母のようだ。
     セイバーのことを太夫に任せている間に、師匠と二人、雑記帳を見ながら話を進める。
     雑記帳には儀に関する事柄や、各陣営の人物にまつわる噂、要地の情報などを雑多に記している。中には、セイバーと食べたものなども記しており、彼がまた食べたいと強請ってきた時には、何処で食べたものだったかと覚書から記憶を呼び起こすのだった。
     師匠が時折そういった覚書に茶々を入れてくるのを適当に躱しながら、互いの情報を交換し、意見を交わす。
     今得たものを書き記そうと一丁めくると、紙の隙間からはらりと何かが滑り落ちた。
    「あら? 何か落ちたわよ、伊織くん」
     足元に落ちたそれを師匠が拾い上げると、四つに畳まれていた半紙ほどの大きさの紙が開いた。
     そこに所狭しと並ぶ「伊織」の文字。
     拾い上げた奇妙なそれを見るなり、師匠は訝しむような視線をこちらへ向けた。
    「何これ? 伊織くんの名前がたくさん書かれてますけど」
    「ああ、これは――」



    * * *

     墨を多く含んだ筆先が辿々しい筆運びで紙の上を滑る。何が書かれているのかとその手元を覗き込めば、些か稚拙な文字たちが並んでいた。
    「セイバー、それは何を書いているんだ?」
    「カヤへの文だ。カヤは御家のことで暫く長屋へ来られないと云っていただろう。だから、こうして私が文を認めてイオリのことを報告しているんだ」
    「俺のことを報告……何も報告されるようなことはしていないと思うが」
    「私はカヤから頼まれたからな! きみが食事を抜いたり、鍛錬ばかりして倒れたりしないように見ておいてくれ、と」
     ふんす、と得意気に胸を張ってみせる彼を横目に、軽く溜息を吐く。
    「生憎、おまえといると食事を欠かすことも無し、まともに鍛錬する間もなく怪異退治と他陣営の調査で一日が終わる。何も心配することはない。カヤを不安にさせることだけは書かないでくれ」
    「それは心得ている。なに、今日は何を食べた、今日は何処へ出掛けた……と内容はそんなところだ」
    「それなら良いが……そう云えばセイバーがここに来て間もない頃にも、俺に黙ってカヤへ文を届けたことがあったな」

     セイバーと出会って間もない頃、カヤが兄の様子を見に度々長屋を訪れることを知るや否や、長屋に戻ると記した文を彼が勝手に届けてしまい、それを咎めたことがあった。カヤを戦いに巻き込むまいとあえて遠ざけたのだが、セイバーは自分が守ると云って聞かず、カヤもいくさを手伝うと云って決して折れようとしないため、渋々長屋の留守を預けることにしたのだった。
     カヤとセイバーは他人であるはずなのに、どうにも似たものを感じて、こちらが折れてしまうのだ。

    「きみがカヤと連絡を取らないから私が代わりに届けてやったのだ。それなのにきみは怒るばかりで……まあ、今となってはきみの気持ちも解らなくはないが」
    「勝手に文を届けられたことにも驚いたが、俺はてっきりこの時代の読み書きは出来ぬものと思っていたから、おまえが文を認めたことにも驚いた。それも盈月からの知識なのか?」
    「ん、そうだな。生きる時代が違う者と意思疎通を図るには最低限の言語の知識は必須だからな。十全な知識ではないが……簡単な文章であれば読み書き出来る。だが……」
    「だが?」
     セイバーは手に持っていた筆を一度硯へ置くと、こちらへと向き直り姿勢を正した。琥珀色の瞳が真っ直ぐと向けられ、射抜かれる。自然と己が背筋も伸びるようで、彼に倣い居住まいを正し、その瞳へと意識を傾ける。
    「人の名など固有の言葉は共通言語ではないからか、知識として得られない。故に、イオリの名やカヤの名を音……ヒラガナと云うのか、でしか記せない。きみの名にもちゃんと意味を持つカンジがあるのだろう?」
    「まあ、そうだな」
    「名は大切だ。書けるものならきちんと書けるようになりたい。だから、きみの名はどう書くのか……私に教えてくれまいか」
     拍子抜けした。彼が持つ妙に重く厳かな空気と、何者をも惹きつける美しさにあてられて、つい気を張り詰めてしまったが、どこか子どもじみた要求に緊張の糸が解ける。
    「……ふっ。なんだ、神妙な面持ちで何を云うかと思えば。俺の名の書き方を教えれば良いんだな」
    「わ、笑うな……! 私だって、知らないと云うことを素直に伝えるのは、その、それなりに恥ずかしいのだ……」
    「そうだな。すまん、俺が意地悪だったよ」
    「ふーんだ」
     不満気に頬を膨らませる彼との距離を詰めて座り直し、辺りに散らばっている何も書かれていない紙を一枚手に取る。少しの間放置されて乾きかけた筆先に、再び墨を纏わせる。
     どうということもない動作であったが、セイバーは興味津々といった様子でこちらの一挙手一投足を目で追う。見られることに気恥ずかしさはあれど、彼の楽しそうな表情を見ると、悪い気はしなかった。
     先程まで頬に詰められていた空気は何処へいったのやら。

     一呼吸置き、筆を下ろす。
    「俺の名、伊織はこのように書く」
     出来るだけ字体は崩さず、ゆっくりとした筆運びで書き上げる。
    「ふむふむ、これでイオリと読むのか。……イオリは書も得意なのか? 字の良し悪しまでは解らぬが、とても整っていて気持ちの良い字だ」
    「そうか? 昔、師匠とともに写経はよくしていたが……師匠はとても達筆だった。御仁は書画にも精通されていたから、俺も見様見真似でやってみたが、師匠のように上手くはいかなかった。彫仏の方が幾分かましだな」
    「ムサシはすごい人だったのだな……」
    「ああ。何事にも長けていて、俺の……憧れでもあった」
    「……そうか。いつか、イオリの知る男ムサシにも会ってみたいものだな。女のムサシはとても良い奴だし、それに……きみを育てた人だ。きっと彼も優しい人なのだろう」
    「…………どうかな」
     己に向けられた仏のように柔和な笑みから逃れるため、手元へと視線を移す。
     セイバーは話しているうちにいつの間にか増えている「伊織」の字に気付くと、はっとした表情を見せ、筆を置くように云った。
    「うむ、書き方は解ったぞ。私も書いてみる」
     手本として書かれた「伊織」の字をじっと観察したのち、筆を墨に浸す。筆順はいい加減だが、丁寧に、慎重に筆が運ばれる。
     一筋の竹のように、すらりと伸びた背筋。雪原に落とされた紅葉のように、目映い瞳の真剣な眼差し。釘付けになり、呼吸を忘れる。
     「伊織」の二文字を書き終えたセイバーは、ふうと息を吐く。彼が息を吐くのを見て、己も呼吸を思い出す。セイバーは自分が書いた文字をまじまじと見つめると、何かに満足したように頷いた。輝きを携えた瞳のまま振り返り、こちらの反応を待っているようだった。その様子に思わず笑みが溢れ、何も云わずに頷いてみせると、彼の目元が蕩けて弧を描いた。

     
     その後も彼は飽きずに筆を握り続け、気付けば自分の名前で黒く染まった紙が辺りに散らばっている。この様子では、当初の手紙を書くという目的も忘れていそうだ。
    「イオリ」
    「イオリ、イオリ、イオリ」
     歌を口ずさむように名が呼ばれ、真白な紙が染められていく。
    「…………セイバー。そう何度も名を声に出されると……面映いんだが」
    「何故だ? 美しい名なのだから何も恥じることはあるまい。イオリの名は文字のつくりも響きも美しいな。私にカンジの持つ意味などは解らぬが、そう感じる」
    「………………」
     返す言葉に迷っていると、続け様にセイバーが口を開いた。
    「それに……好きな人の名なのだ。何度だって書きたいし、何度だって呼びたい」
     彼の好意は白雨のようで、いつも唐突に降ってくる。言葉にならぬこそばゆさを逃がすように、軽く息を吐きながら天を仰いだ。
     彼の素直で裏表がないところは己も好いているが、こうも真っ直ぐな言の葉で云われるとなんとも面映く、得体の知れない甘痒さが背筋を駆け抜ける。

     ――ふと、悪戯心が湧いた。
     いつも己ばかりが心乱されるのでは不公平だ。
     彼が己が言動で心を揺らす様を見たい。

     一度顔を出した邪心は理性が抑え込むより早く、言葉を紡いでいた。
    「名は大切だと云うならば、俺もおまえの名を呼びたい」
    「なっ……駄目だ駄目だ! セイバーと呼んでほしいとこの間伝えたばかりだろう! それに何処ぞで敵陣営の誰かが聞き耳を立ているやもしれん。だから……駄目だ」
    「では、文字なら? 流石にこの長屋の中のことまで監視している者はいまい」
    「それは、そうだが……」
    「駄目か?」
    「駄目だ!」
     想定していた通りのやり取り。それではつまらぬと、己が邪心が騒ぎ立てる。
     目を逸らしてそっぽを向いてしまった彼の頬はほんのりと桜色に染まっている。花弁を散らさぬよう、花盛りの枝先に触れるように、目の前の花へと手を伸ばす。その頬に触れると、彼はぴくりと身体を跳ねさせた。
    「セイバー」
    「…………」
    「今この時だけでも、駄目か?」
    「きみは、ずるい。…………今だけ……だぞ」
    「ありがとう」
     そう云って微笑むと、彼はますます頬を赤らめ、俯いてしまった。
    「セイバー」
     名を呼ぶと同時に、胡座をかいた己が膝を叩く。
    「……? どう云う意味だ、イオリ」
    「ここに座れ」
    「なぁ!? 何故私がきみの膝に座らねばならぬ!」
    「おまえの名も書き方を教えてやる。先に書いた俺の名も字面としては書けているが、筆順が出来ていない。書は筆順も大切だ。見るよりも筆を共に握って動きで覚える方が良いだろう」
    「そ、そこまでしろとは……!」
    「せぬのか? 俺はどちらでも良いぞ」
     いつもはこちらが折れてばかりいるのだ。たまには強気に出ても許されるだろう。こちらの意図が伝わったかは定かでないが、セイバーがじとりとした視線を向け、口を尖らせる。
    「今日のイオリはいつもより意地悪だ」
    「そうかもしれない。……少し、浮かれているんだ。許せ」
    「意味が解らぬ」
     セイバーは観念したようにそっと己の膝に座ると、何も云わずに再び筆を取り、墨を纏わせる。
     僅かに震える彼の右手に己の右手を重ねる。
     凡その女人と比べると少し大きな掌に、骨張った細く長い指。剣を握る者の手だ。
     それでも、己の手を重ねれば全て覆い隠せてしまうその手や、薄い肩、しなやかで小さな背中は、触れれば壊れてしまいそうで、ひどく大切に思ってしまう。
     彼が人並み外れた強さを持っていることも、かの大英雄であることも知っている。このような感情を抱く自分はどうかしている。

     そうだ、自分は夙にどうにかなっている。

     彼の耳元に顔を寄せ、囁く。
    「おまえの名は、このように書く」

     日本ヤマト ――
    「――タケル」

    「……っ!」
     セイバーがびくりと肩を震わせた反動で筆が弾かれ、半紙を大きく汚した。二人の間を刹那の沈黙が漂う。
    「す、すまぬ……」
    「ああ。服は汚れていないか?」
    「うむ、大丈夫だ…………というか、イオリ!」
     未だ膝の上で拘束されて動けない彼は、首だけを此方へ向けて怒りの色を表した。
    「なんだ?」
    「文字だけと云ったのはきみだろう! どさくさに紛れて私の名を呼ぶな!」
    「……すまない。おまえが鼻歌のように俺の名を口ずさんでいたのと同じだ。無意識で声に出てしまった」
     嘘だ。彼に聞こえるように意識して呼んだのだから。自分でも何故そんなどうでも良い嘘をついたのか、解らない。
    「……私は無意識などではないが」
     小さく溢された声は己が耳にも届いたが、聞こえぬフリをした。
    「…………私の名はもういい。きみの名のヒツジュンとやらをもう一度教えろ」
    「俺の膝の上で書くのは良いのか?」
    「……別に、これは嫌ではない」
    「そうか。カヤが小さい頃もこうして、字を教えたものだ」
    「そうなのか? では、カヤから貰う文の字が美しいのはイオリのおかげなのだな」
     いつの間にか騒ぎ立てていた邪な心は消え去り、穏やかな心持ちが戻ってくる。
     セイバーに触れた場所から生まれる温度は心地良く、春の日向で微睡むようだった。


     セイバーが満足したところで、散らばっていた紙を片付け始めた。セイバーは筆を洗ってくると云い、表へ出て行った。集められた結構な量の紙は、そのまま捨ててしまうには勿体無く、懐紙代わりになるだろうと幾らかを卓の片隅へと寄せる。
     セイバーは墨をよく吸った筆と格闘しているのだろうか。まだ中へ戻ってくる気配はない。
     再び卓の隅に寄せた束へ目を向ける。重ねられた束の一番上には、己が書いた「伊織」の字とセイバーが書いた数々の「伊織」の字が並んでいる。それを何と無しに手に取った。

     己の名が無造作に書かれた紙。
     彼が書いた「伊織」の字を指でなぞる。

     何故かそれを捨てる気にはなれず、四つに折り畳むと、雑記帳の栞としてそっと綴じた。



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