愛とは、ゲゲ郎が女になった。
理由は、子育てのため。
というのも、親子を俺が見つけて連れ帰ってきたときから奥方がかなり衰弱していて、
俺たちもなんとか体を回復させようと努めたのだが……人間界ではなかなか難しく。
やはり一度本格的な療養を妖怪の里で、ということになったのだ。
“水木、すまないがしばらくわが子を頼むぞ”
ゲゲ郎がそう云って鬼太郎を俺のもとに預け、奥方に寄り添って妖怪の里へと帰っていって約七日後。
鬼太郎のおむつを洗濯して軒下の物干しに干したときに「おーい」という声に。
おお、帰ってきたかと。
鬼太郎を抱いて玄関へと向かい、その扉の鍵を開けると。
「水木や~」
女になったゲゲ郎が立っていた。
「……」
「おお、水木めもわしが女になって驚いておるな」
「っ、そりゃそうだろうがっ」
俺の驚き様を見ていつものようにニヤリと笑うゲゲ郎に、俺は鬼太郎をこの手に抱いていることを忘れて思わず大声を上げた。
そも、誰だって驚くだろう。
男の親友が突然女になっていたら。
俺は内心そう思いながらゲゲ郎を足の先から頭のてっぺんまで見てみる。
背丈は変わらず、太ももから腰にかけてが少し丸みを帯び、腰は見た目からして細く、女らしくくびれている。
一番驚くのは乳房だ。
市井でもなかなかお目にかかれない大きさで、例えるならば小ぶりの西瓜のよう。
顔の輪郭も見た感じふくよかだ。
「とにかく説明をしろ、ゲゲ郎!」
★★★
「ひらたく云うとじゃな、わしが鬼太郎を岩子の代わりに立派に育てるから女になったのじゃ」
鬼太郎を寝室に寝かしつけると居間に移動した俺たちは、各々がちゃぶ台の近くに座ると、ゲゲ郎がそう云った。
「その乳で鬼太郎に母乳でもやるのか?冗談だろ」
「本気じゃよ」
「…本気か?ていうか、わざわざ乳を両手で持ち上げるな」
女になった理由は漠然と、しかし信じられない本気でやるか?という推察通りである。
奥方の岩子さんが衰弱して母乳をあげられないのは連れ帰ってきてから一番の問題だった。
赤子と云えば母乳で育てることが当たり前である今の時代、ましてや妖怪という特殊な種族だ。
ご近所の授乳ができる人に頼み込んで母乳を鬼太郎に飲ませたこともあったが、口に合わなかったのか飲んだ後に吐いてしまった。
離乳食に移るまで、どうしても重湯だけでは心もとないという気持ちは……わかる。
わかるのだが。
「お前、ちゃんと母乳が出るのか?」
俺は思わずゲゲ郎に問う。
姿かたちは女でも、内臓とか、分泌するものも女であるのだろうか。
にわかに信じ難い。
ましてやゲゲ郎は子供を産んでいないのだ。
「無論だ」
しかし俺の心配など何もわかっていないゲゲ郎はあっけらかんと頷いてみせる。
「随分気楽に頷くな、ゲゲ郎。お前は元は男だし、出産したわけでもないだろう」
「無論このままで母乳が出るかと云えば、出はせんよ」
「じゃあ…」
「まあ、最後まで聞け水木よ」
俺の言葉を遮ったゲゲ郎は、いつもの男物の着物の合わせを襦袢ごと右手でぐいっと押し開いた。
そうして露わになった大きな乳房。
俺はさすがに直視するのも恥ずかしくなり、思わず目を伏せる。
内心は心臓の鼓動がやけに五月蝿い。
あのときから心密かに恋慕している相手なのだ、このゲゲ郎は。
しかしゲゲ郎には妻子もいる、そしてゲゲ郎自体男だ。
男の俺が男のゲゲ郎に恋慕の情を抱いているなど、云えるはずもない。
ゲゲ郎の家族を本気で守りたいという想いも強くある。
この家族には、幸せになってもらいたい。
そうして俺は、ゲゲ郎に思いを伝えずに、この家族の助けになると決めたのだ。
それを、何故このような。
俺の心に対してなんと刺激的なことか。
否、むしろ残酷とも捉えても構わないのではないかとさえ思った……そのとき。
急に俺の眼前に露になっていた左の乳房が広がった。
血管も浮き出るような半透明のように白い肌が、球体のようにまあるく、そのほぼ中央にぷくりと乳輪が赤い果実のように主張する。
俺は驚いて飛び上がるように後ずさった。
「な、な、な……お前、ゲゲ郎っ」
冗談ではなく、俺の理性が少しでも崩れていたらその豊かな乳房の頂に口を含んでしまうところだった。
あいつは、ゲゲ郎は、無邪気になんてことをしてくれるのだと。
俺は半ば怒りを覚えてゲゲ郎を睨みつけるも。
「ふむ、男の本能なら目の前に乳房を晒せばその気になるかと思うたが……まだわしに魅力が足りないのかの」
俺の驚きぶりに予想外だと云わんばかりに一度体を引いたゲゲ郎は、乳房を仕舞うことなく腕を組んで考え込む。
「……どういうことだ?」
その気になるとか、ゲゲ郎から発せられる聞き捨てならない言葉に俺は顔をしかめる。
「この妖術……ああ、この女体はな、とある妖怪に術をかけてもらったのじゃが……その者が云うにはの。たしかに普通の女体と違って子を宿す力はないが、この体でも母乳が出るんじゃと」
「……」
「で、その母乳は愛する者と肌と肌の触れ合いを十二分にし、女体が官能で震えたときに出るという」
「待て待て待て」
ちょっと待ってくれ。
頭が混乱する。
母乳は、愛する者と、肌と肌の触れ合いをして?
女体が官能に震えたときに?
出るだと?
愛する者?
愛する者??
お前の愛する岩子さんはいないぞ?
「ゲゲ郎」
「なんじゃ」
「お前は今、体が女だ」
「おう、そうじゃ」
「そのお前が、母乳を出すためにはお前の体が官能する必要があると」
「そういうことじゃな」
「で、だ」
「ん?」
「その、だ」
「ん?」
「あ、あ、ああ愛する者というのは、どうするんだ?岩子さんはいないぞ?」
「わしの目の前にお主がいるじゃないか」
「…はあ!?」
俺の質問に対し、ゲゲ郎は俺に細い人差し指を向けて云った。
愛する者?俺が?ゲゲ郎の?
そんなこと、今まで一度だって聞いたことがない。
云われたことがないのに、信じられるか。
「お前が愛しているのは岩子さんと、そして鬼太郎だろ?」
「何を云う。わしはお主も岩子たちと同じように愛しておるぞ」
「え、いや、だって…」
しかしゲゲ郎は本気で云っているらしく、いつもの揶揄うような声色は見受けられない。
が、俺としては突然の告白に全然頭がついていけない。
ぱくぱくと、どこから何を云えばいいのか思案する俺を見て、ゲゲ郎はひとつ息を吐いた。
「お主もわしらを愛してくれているじゃろう。わしにはわかっておる。いつも岩子にも鬼太郎にも、そしてわしにも慈しみをもって接してくれていることを」
「…ああ」
ゲゲ郎が云うそれは、心の奥底に仕舞い込んだ俺の恋情を悟ったというより、家族愛の延長のようなものだ。
少なくとも、俺はそう解釈する。
「わしはお主も愛おしいぞ?」
「お前なぁ」
さすがにいろいろ腹が立ってくる。
無闇に《愛おしい》と云わないで欲しい。
仕舞い込んで封印していたはずの強い想いを呼び起こされたら、俺はゲゲ郎に何をするかわからない。
「俺もお前たち家族を愛してるが……そういうことじゃなくて」
「なんだ?」
「お前は、残酷だ」
「何故?」
激昂寸前といった状態になっている俺は、怒鳴らないように注意しながら言葉を絞り出すも。
ゲゲ郎はまた短く俺に問う。
嗚呼、人間の心の機敏など、やはり妖怪のお前にはわかってくれるわけがないのか…
「お前は、俺の、心の内など…俺のこの想いなど、邪な、俺の…」
ゲゲ郎の態度に俺の精神は半ば制御ができなくなり、とうとうひとつの想いを言葉にしかけた……そのとき。
「わしはお主に抱かれたいぞ」
「は?」
突然降り注いだ言葉。
俺にとっては幻ような、信じられない言葉が耳に届く。
ゲゲ郎の顔を見ると、丸みを帯びた頬が少し朱に染まっている。
「お主に恋慕の情があることなど、とうに知っておる。わしもお主に恋慕の情を抱いているからな」
「へ?」
思ってもみなかったゲゲ郎の言葉に思わず間の抜けた言葉を返す俺の手を、ゲゲ郎はゆっくりと取った。
女性になったゲゲ郎の手が、俺のそれよりも小さく、しかし男のときよりも温かみがあって、心の臓がやたら高鳴った。
「おかしかろう。妻子がおるのにお主に恋慕の情を抱くなど。しかしの、恋慕はひとつだと誰が決めたのじゃ?」
ゲゲ郎はそう云いながら俺の右手をそのまま自分の頬へ導く。
もちっとした肌の感触に眩暈がする。
性別は違えど、愛しいと思った相手の肌に触れて自分の細胞が泡立つような感覚を覚えた。
理性が、揺らぐ。
このまま俺はゲゲ郎を愛していいのではないかと。
だが、ほんの一握りに残った理性が最大の問いを訴える。
「…岩子さんには、云っているのか」
そう、俺は岩子さんを裏切りたくない。
ゲゲ郎の彼女への愛を、彼女のゲゲ郎への愛を、俺は知っている。
そしてそれを、心から守りたいと思っている。
これは本当の気持ちだ。
俺はこの家族を裏切りたくない。
俺はそう目で訴えると、ゲゲ郎はうんとひとつ頷いた。
「岩子には云うたぞ。わしは岩子も水木も愛しておる。だからわしが女体となったとき、水木に抱かれて良いかとな。岩子は云うたぞ。『当たり前でしょう』と。岩子もお主を信頼し、家族以上と思っておる。わしとは違う形だが、たしかに岩子もお主を愛しておるのじゃ」
「…そう、なのか」
岩子さんが、彼女が、認めてくれているのか?
そんな信じられないことがあるのだろうか。
「お主と、岩子と、そしてわし。われら三人には輪のようなまあるい愛に繋がっておるのだ」
ゲゲ郎はそう云って、ふわりと笑った。
相互の愛ではなく、輪の愛。
俺はゲゲ郎を愛し、ゲゲ郎は岩子さんを愛し、岩子さんも俺を愛す。
岩子さんはゲゲ郎を愛し、ゲゲ郎は俺を愛し、俺も岩子さんを愛す。
「そして、わしらの中央におるのが、鬼太郎じゃ」
愛の輪の中心には、鬼太郎がいる。
嗚呼、そういうことか。
俺はようやく合点がいった。
「ゲゲ郎」
「ん?」
「愛してる」
「わしもじゃ」
「ちゃんと云えよ」
「…愛しておるぞ、水木よ」
「嗚呼、」
「ん?」
「その言葉をまさかお前の口から聞けるとは思わなかった」
「うれしいか?」
「うれしい」
「そうか。では、」
「ん?」
「抱いてくれるのか?」
「抱くよ。今までの欲望、全部ぶちまけてやるよ」
「それは少々酷だな。まだこの体に慣れておらん」
「急に弱気だな」
「お主の目が本気すぎるからじゃろう」
「じゃあ、しばらく慣らしだな」
「それでどうじゃ?わしの体は魅力的か?」
心のわだかまりもすべて解け、ゲゲ郎は改めて己の体を誇示するようににじり寄り、その豊かな乳房を俺の前に晒して見せる。
俺は今度こそ、その美しい乳房を自分の手でぐっと持ち上げると。
「恐ろしいくらいに」
と、云ってスッと親指の腹でゲゲ郎の乳輪の周りを撫でると。
ゲゲ郎は小さな声を上げて腰を浮かせたのだった―――