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    きしあ@kisia96

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    ※文劇5感想

    ##文アル

    文劇5感想ver2.0自らの意思を希望(のぞ)む通りに実現する力
    それが・・・・・・・・・・・・・
    強さの最小単位!!!


    範馬勇次郎の名言から始まる文劇5の感想。久米芥川関係だけなんとかまとめたところで力尽きました。出だしに反して至極真面目な話を書きますけど、でも感想タイトルを付けるなら『結局一番ワガママなやつが強い ~でも話だけでも聞いてあげよう~ 』

    ◎あまりに長すぎるので3行まとめ(長文辛い人はここまでで良い)
    ①今回の侵蝕者(負の感情)は全て「エゴ」。久米は「純文学の理想を貫く」というエゴが侵蝕され、自己の心を捕へんとする純文学の理想の元に他者を拒絶し続け、結果自著が侵蝕されても自滅は覚悟の上でそのエゴを突き進んだ。
    ②芥川は『鼻』での久米との喧嘩別れから「エゴ」を封印していた。しかし「久米を救いたい」という気持ちによってエゴの封印を解き、久米より強いエゴで侵蝕者を自身に集めた。
    ③黄泉での対話でお互いの負の感情が晴れた。久米は純文学の理想の元で純粋な自我を守りながらも、他者との対話を許容することで自我を変化・成長させる可能性を得ることができた。芥川はずっと忌み嫌っていた自分のエゴを許容でき、新しい自分になることができた。

    ◎感想テーマ概要
    ・私としては文劇史上最高に複雑な話だった。文学の芸術性について、国内外の文化差異について、人の心の在り方について、登場人物の感情について。正直どこを突っついても重厚な話ができる。そのため一本筋の感想を書くのが難しく、話が飛び飛びになったり重複したりするだろうけど我慢して。
     難解なりに、そして自分なりにシンプルにこの物語の構造を整理するなら、無数に張られた横糸が「対立」で、それを貫通する一本の縦糸が「エゴ」。結局、始まりの『こゝろ』=エゴによる葛藤から全部が決まってた。個人的にはこのエゴ関係が一番好きなテーマなので、これについてまとめる。
    ・エゴについて辞書でひくと「認識、意欲、行動などの主体として、他と区別される自分。自己。自我。」とある。「他の誰でもない自分」「自分が自分であること」みたいな意味かな。劇中久米の「この世に同じものなんて何一つ無い。文学だってそうだ。君達と僕の作品も違う」という発言が多分本来のエゴに最も近い意味。エゴとは全ての人間が持ってるし、誰しも違うものを持ってる。この本来の意味のエゴをこの感想ではとりあえず「自我」と呼ぶ(劇中に出てくる「魂」「アイデンティティ」という単語もこれに相当すると思う)(ちなみに以降、自分から見て、自分が持ってるエゴを「自我」、他人が持ってるエゴを「他我」と呼ぶ)
     んで、劇中「負の感情」の一種として扱われるエゴとは、自我のみを目的に行動する、他我より自我を優先する(いわゆるエゴイズム)の意味だろう。これを「エゴ」と呼ぶことにする。エゴは自我と違い、自分や他者にネガティブな作用を及ぼすので負の要素がある。『こゝろ』で言うと、先生が娘さんに恋をしたのは「自我」、それで親友が悲恋すると分かりながら娘さんへの恋を遂げたのが「エゴ」、としてみる(エゴについてのポーの意見「自分の欲望に素直であることになぜ罪悪を感じる」だがエゴというよりポー的には「自我の尊重」ぐらいの意味かもしれない。でなければこれから先の芸術家のスーパーエゴにあんなに手を焼きはしないだろう。「自分の欲望に素直であること」の肯定に振り切ったのが久米で、否定に進んでしまったのが芥川で、多分どっちもポーの想像とはかけ離れた突き進み方だったろう……)
    ・横糸としての対立って書いたけど、光が当たる人と影に追いやられる人、日本文化と海外文化、純文学と娯楽小説などの対立があって(文化間やジャンル間の対立が目立つから集団戦の様相だったけど、根本的にはその文化・ジャンルの中で養われた自我(個人)同士の対立であり、自我と自我のタイマンのぶつかり合い)、自我と他我が利害によって、思想によって、目的によって相容れず対立することになった時、自我を優先すべきか他我を優先すべきか(=エゴを肯定すべきか否定すべきか)の葛藤についての物語で、その葛藤を突破する物語だった。と、先に軽く締めを置いておく。

    ◎久米周り
    ・久米の話に移る前に純文学の話をしとく。自分は文アルをプレイしてるだけの門外漢だから純文学の定義なんて分からないので「文劇5にとっての純文学」(というか久米正雄にとっての純文学)とはどんなものなのかを提示してくれてたのは心底有難てえ。
     純文学=漱石の小説の書き方で、「一個人の葛藤が偶発的に読者の共感を得た」もの。読者を喜ばせることを目的とした娯楽小説と違って自分の感情や思想を作品に昇華させるのが目的なので、純文学の根源は自我にある。この世に二つと無いその人固有の自我、しかも当然他者にはまるで見えず、自分でさえ容易には意識できないぼんやりした自我、それに小説という明瞭な形を与えて体外に出力する。ゲーム文アルの漱石の攻撃セリフでもあり、『こゝろ』のキャッチコピーでもある「自己の心を捕へんと欲する」ことこそ純文学なのかなと思う。
     それはポーが言うように(読者を前提としないので)「一人よがりの自己満足」ということなのだけど、「自己の心を捕へんと欲する」衝動が生まれてしまったなら(そのきっかけは漱石なら自身の神経衰弱で、芥川・久米なら漱石の純文学に触れたこと)その自己満足でしかそれを満たす方法がなかった。自分(自我)が何者でありどんな形をしてるのか、自分がどうして他者とは違う自分であるのかを明瞭に確認して保存する行為は(自己保存性?)久米が言うように「自分達が生きるために書く」ことで、他人には無価値かもしれないが少なくとも彼らにとってはそれに生かされるほどの価値がある行為だった。
    ・執筆にぶつける感情が「葛藤」とかなにかと負の感情を主題にする文豪が今回多かったのでアレだけど、純文学=負の感情を題材にすることは必須じゃないだろう。ただ神経衰弱が出発点の漱石から始まり、芥川・久米は「自己の心を捕へん」とするにあたって、とりわけ自我の中の負を捕らえがちな作家だったのは間違いない(そのため、久米=負の感情を糧にする作家、だった)
    ・大衆小説が外(読者)に向けられた作品であるなら、純文学は内(自我)に向けられた作品。久米が芥川に「自分自身の純粋な魂ともっと対話すべきだった」と言うように、純文学は自我との対話で生まれるもので、その裏返しとして他我との対話が不要(むしろ邪魔)になる(それがエゴに発展することで、久米のように他我を拒絶する姿勢に繋がる)
     劇中「(久米の)純粋な魂」という言葉が何度か出るけど、その純粋とは、辞書でひいた中の「邪念や私欲のないこと。気持ちに打算や掛け引きのないこと」の意味ではなく、「まじりけのないこと。雑多なものがまじっていないこと」の意味だろう。「純粋な魂」とは、他我が干渉することなく完全なる自我を捕らえた世界。それこそ純文学の理想で、それを貫いた久米の魂こそが芸術だと芥川は評した。

    ・恐れず言ってしまうと久米が全部悪い話だった(この「悪い」が何を対象にして悪いのかも難しい話だけど)。『こゝろ』内での妨害、他文豪への暴言、序盤一瞬だけでヘイトを稼ぎまくる様子は太宰を遥かに凌駕し(太宰は太宰ってだけで許されるとこあるから)「こいつぁ今回ヤベエことになったぞ……!」とヒリヒリした。3みたいな超例外でもない限り文劇侵蝕者には意思がないので意思ある人間(文豪の誰か)が敵対者になる訳で、今回のメンツを見ればそれは久米確定だと分かってはいたけど、いやはやここまで最初から、そして最後まで潔く敵対者であり続けるとは思わなかった。
     純文学を最も理解しているという自信、一人だけでも戦えるという孤立(心情を考えればむしろ『一人でしか戦いたくない』が正確かも)、芥川への敵意、海外文化への嫌悪、大衆小説への軽蔑。序盤の畳みかけるようなヘイトムーブは彼が種々様々な負の感情を抱えてることの説明パートであり、後半がその解明パートになる。
     久米が抱える負の感情(侵蝕者が憑り付いた箇所)について、登場人物は最後まで正体を解き明かせなかったのかもしれない(断定するようなセリフがない)。芥川は自分への恨みだと思っていて、ポーは他者や異文化への嫌悪ではなくもっと心の根底にあるものだろうと推理してた。結局最後まで特定される描写はなかったので推測になるけど、『こゝろ』が伏線になってたとすると久米の侵蝕源は多分「エゴ」だろう。久米は浄化されるその瞬間まで、まさに今回の侵蝕者「エゴ」の体現者だった。
    ・久米のエゴとはどんなものかというと『純文学の理想を貫く』エゴだろう。この「純文学の理想」というものがエゴによってより過激になってる。過激になってる部分は「純文学を追求するためなら他のもの(他人も自分も)犠牲にして構わないという割り切り」「純文学ひいては自我の追究のために、頑なに他我から自我を守ろうとする自己防衛」だろうか(開幕時点で既に久米は侵蝕されてたとパンフにあるので、生前はそこまで過激な思想でもなかったろうが)
     純文学への自信や芥川への敵意は、途中で理想を見失った芥川より貫き続けている自分の方が当然優れているという感情からだし(そう思うと同時に内心では芥川の方が純文学の究極に近いことへの歯痒さもあり)、異文化や大衆小説への拒絶・軽蔑は(夏目が異文化に触れた結果、心を病んだように)純文学の根源である自我を純粋なまま守るために他我に触れたくないからだろう(同じ日本人であり同じ新思潮である芥川や寛でも結局「自分とは異なる他我を持つ人間」なのだから彼らとも対話はできない)。一人で戦うことに執着するのも、純文学は自己の中で完結するもので元々独力で追究しなければならないことにある。「純文学を貫く」という一つのエゴから色んな負の感情に派生していってるのが面白い。
     久米のエゴをビジュアルで表現したのが、しがみつくように机と原稿用紙に向かう一人きりの作家が赤い布で包まれているアレだろう。外世界から隔離され自我と作品しか内包しない狭くとも純粋な内世界の構築(しかし何重にも負の感情の糸が絡みついている)、と考えれば良いだろうか。

    ・久米と太宰が似てると芥川は言ったけど、ざっくり二人ともワガママだ。自分の思い通りになるように行動し、思い通りにならないと他人を攻撃して自分を守る。わかる(この「わかる」は後述だ)
     「ワガママ」とは「我が侭」と書く。自我のあるがままを貫ける生き方。久米と太宰の共通点について芥川曰く「不器用で、自分の世界がある」「面倒な人間」だけど、自我を純粋に作品にするためには我が侭であらねばならず、我が侭を貫けるから確固たる自我の世界を構築できるし、それを守るためなら自他の攻撃や犠牲も厭わず、結局それで逆に精神は負に追い詰められるばかりなのだけどその負がまた作品の糧もである、というのは芥川が言うように面倒くさい……むしろ哀れとか痛々しいレベルだけど筋は通ってる。それはエゴと言われるものであるが、エゴは貫き通してる。だから貫くことを諦めた芥川は文劇1でも5でもこういうタイプに救われてしまうのだろうな(でも多分、久米はその道を「純文学の理想」としてある程度自覚の元に行っているが、太宰は大して意識せずそれを行ってしまってる感じがある。だからいつも久米は耐えるような暗い表情で、太宰は無邪気に笑ってる)(ならば久米が苦心して辿り着いたそれを最初から持っていた芥川のように、太宰もまた生きるまま自然とそれに到達してた芥川級の天才芸術家と言えるかもしれない)
    ・さっき、久米と太宰の我が侭を「わかる」と言ったことについて。これは完全なる自分事だから恐縮だけど、私にとって非常に馴染み深いテーマだったので正直気が気じゃなかった。今回の文劇について語るも少し恐ろしいレベルで。私はSB69というジャンルでほとんど同じテーマ、「ありのままの自分の感情や感性から音楽を生み出すために『常に我が侭に』という信条を(半ば自己強迫的に)持ち、友人や恋人に対しても遠慮とか譲歩をすることが一切できない唯我独尊のバンドマンが、その信条故にバンドメンバーを切り捨てざるを得ない状況に立たされた時の葛藤」の同人誌を描いたことがある。正直、今回の久米とあまりにも似ていた。私は、こういう男を見ると胸が締め付けられる。
    ・たとえそれが確固たる思想の元に必要なことだったとしても、みだりに他者を傷つけたり貶めたりすることは良くない。決して善い人間ではない。それがむしろ良い。今回の久米の悪人ムーブには私も観てて「こいつめ!」って思ったが、でも久米が悪人であればあるほど好感度がガンガン上がっていくという不思議な体験をした。あまりにも芸術家だった。自分の心ひとつ、それっぽっちから世界を一つを生み出さんとするやつだ。他人の声に丁寧に耳を傾け、聞き分け良く誰にも理解の姿勢を示す、そんな真っ当で正気で善意で芸術なんてできようか。やはり私は、芸術とは理外にあるもの、善悪や損得などの一般道理から外れたものだと思う。そのあたり、文劇5を観てまず一番最初に頭に浮かんできた感想って「やっぱ芸術家に道理なんて説いても無駄だよ……」かもしれない。

    ・エゴによって生じた様々な負の感情を久米は自覚してた(ポーとの会話にて)。それは自我を捕えようとする純文学家としては当然と言えて、そして純文学家だからこそ、普通なら「良くないもの」として解消されるべき負の感情を、それも含めて自我だから(負の感情も含めた自我を書いてこその純文学だから)という理由で解消させず、負の感情のなすがままに突き進んだ。自身が負を昇華させるタイプの作家だと自覚してたのも大きいだろう(これには犀星も「負の感情は必ずしも悪いものじゃない」「負の感情が創作の源でもある」とフォローしてくれてた通り。流石朔太郎のダチ)
    ・負の感情を自覚しているなら当然、それによって自著が侵蝕され(侵蝕がなくとも図書館内で批難され)最終的に自分が滅びるのも自覚してる。純文学へのエゴさえ、それによる負の感情さえ、遂にはそれによる自滅さえ分かってるやつに最早かける言葉はない。侵蝕された『破船』に誰も入れないようにしたのはエゴを貫くため(最後まで自分の世界を他人に触れさせない、自分だけのものに保つため)だろうが、散々の自分勝手をそれが原因の自滅、ポーの言う通り『自業自得』を以てケジメをつけるエゴイストの潔さがあった(勝手にやるだけやって最後も勝手に死んで終わらせるのは周囲からすれば厄介この上ないがエゴイストはそういうもんだ。久米も「悪いね、面倒な人間で。でも、これが僕なんだ」って言ってるし)
     そも負の感情が良くないとされるのは、それが人を(他人も自分も)傷つけるから。でも、それを「純文学のためなら何を犠牲にしても構わない」というエゴによって肯定してる。久米の有碍書が『破船』であったのは、作品の土台が負の感情なことや、漱石絡みの作品なこと、そしてなにより松岡譲を犠牲にしてしまった作品だからだと思う。芥川が『鼻』によって久米を犠牲にしてしまった(逆恨みに近い話なので結果的にだけど)のと似てる。『鼻』によって久米を犠牲にしてしまった芥川は純文学を貫くことを躊躇するようになったが、久米は『破船』で松岡という犠牲を払ってでも突き進んだ。それが芥川と久米の違いで、芥川と久米の侵蝕の現れ方の差だったと思う(芥川は後悔のあまり自分を消滅させる方向の侵蝕で(文劇1)、久米は他者を切り捨てて孤独を突き進む方向の侵蝕だった)

    ・『破船』の侵蝕状況のひどさについて、芥川の推測は「久米にとってこの頃の自分を肯定できない」「ここに描いた青春そのものを抹消したがっているのかも」だった。
     久米の「人生のうちで、人はどのくらい幸せな時間というものがあるんだろう」という独白の限り、芥川や寛と一緒に「ただ思い付くままに自分達の思いを作品に落とし込む」「それこそが文学、それこそが芸術」という青春時代は久米にとって唯一幸せだった時間なのは間違いない。続くのは「ただその理想だけを追求すれば良かったのに」「どこでボタンを掛け違えたんだろうなあ」「どんどん余計なものばかりが増えて、その理想が霞んでいく」、最後まで理想を貫き続けたはずの久米もどこかの時点で自分がおかしくなってしまった(青春時代の純粋な理想がエゴに変貌してしまった)という後悔がありそう。とするとエゴの意味を考えて、初めて理想のために他人を犠牲にした時、松岡を犠牲にした『破船』が「掛け違えたボタン」だろう。だから久米が抹消したいと思ってるのは、青春時代ではなく『破船』の存在そのもの(文劇1で芥川が『鼻』を消そうとしたのと同じだね)
     久米のエゴは「純文学の理想を貫く」と書いたけど、そこまでならそれはただの自我でありエゴではない。その自我への執着が高まり、そのために他者を犠牲にした時(他我より自我を優先した時)初めてエゴになる。それを書くことで松岡が批難を受けるとしても『破船』を書いてしまった。それが久米の純粋な理想がエゴになってしまったきっかけだろう。『破船』は久米の魂そのもので最後の聖域として守護する一方で、『破船』さえ無ければ芥川、寛、松岡とずっと青春時代を続けられたし周りも自分も苦しまずに済んだ。自身のエゴを肯定した久米だけど『こゝろ』のようなエゴによる葛藤、芸術性と倫理観の葛藤はあったんだろう。その葛藤を反映した結果、自分で自著を侵蝕させながら、自分で侵蝕から自著を守るという矛盾した状況になった。
    ・芥川に自分を斬らせようとした時「この作品はもう手遅れだ」というのも、浄化できないほど侵蝕されている意味もあるだろうが、久米は『破船』によって純粋な理想を恐ろしいエゴに変えてしまい、しかも松岡の犠牲を経験してもなおエゴを持ち続けてる人間、それに殉じると決めてしまった時点で行き着く先が破滅だと確定した「手遅れ」の人間だという意味もあると思ってる。その「手遅れ」に対して「消してくれ」というのは分かるが「解放してくれ」とも言う。それはやっぱ先の葛藤に対する苦しみがずっとあったということで、自分がエゴに狂った原因の『破船』を消滅させることで、エゴから解放されることを望んだのかもしれない。
    ・(でも、松岡の犠牲を肯定してでも純文学を突き進んだのなら、それと共に「消滅」は望んでもそれからの「解放」は望むべきでないとは思うんだけども。松岡への罪悪感も自分の一部として抱えたまま消えるしかないでしょう。それが貫き方だと思うの。そこらへんはまだ考え中の部分)

    ◎芥川周り
    ・今回の芥川だけど、久米と同レベル(それ以上?)のエゴを抱えながらそれを「封印してしまった」人だと思った。『こゝろ』の主題である「自分のエゴを通した結果、犠牲が生まれてしまったがための葛藤」と芥川は同じ状態。エゴを通した結果、久米を裏切った形になってしまったので、これがトラウマになってエゴを抑えるようになってしまった(「何かを犠牲にしても自分の道を貫くべきという考えではあるが、誰かに光が当たればその裏に影が生まれる」発言)
     しかし、最後の戦いで芥川は戒めていた力の封印を解いた(と書くと中二っぽくてとてもカッコイイね)。物凄い負のオーラを纏った芥川を見て、「あれだけのおぞましき負を秘めていたとは」「あれは、龍本来の感情……」と周りが言ってたので侵蝕者を吸収した結果ではなく、(この瞬間まで封印していたため露見しなかった)芥川が抱えていた負。その感情は当然「エゴ」。久米のために封印されていたエゴを、芥川は久米のために開放した。
     この瞬間の芥川のエゴは『久米を救う』。前述のとおり自我がエゴになるためには「何者かの犠牲」が必要なので正確には『何を犠牲にしても久米を救う』。芥川は久米を救いたいという自我を押し通すために、『破船』潜書により侵蝕されるかもしれない自著を犠牲にし、それを止めようとする海外文豪(の思いと帝国図書館の安全)を犠牲にし、最終的に自分の命を犠牲にし、それによって寛との約束も犠牲にし、そして救う対象である久米本人の「自分を消してほしい」という切なる願いも犠牲にした。周りすべての人間の願いをたった一つのエゴでブチ抜く、これが夏目漱石最凶の門下生であり、純文学の追究にすべてを捧げた久米をして「最初から答えを持っている」「究極の芸術」と言わしめた芥川さんの本当の力である。やっぱ芥川先生ってすげーーー!!!
    ・想像だけど、芥川が久米の侵蝕者を吸収できたのはどちらも「エゴ」という同じ負の感情を持っており、そして芥川のエゴが久米のエゴより強かった(ので、より強い負の感情を持つ芥川に侵蝕者は引き寄せられていった)。純文学が自我の文学で、自我で他我を打ち倒すことをエゴと言うのならば、これは純文学最強決定戦でエゴイスト頂上決戦。そして芥川龍之介、純文学界最強の男である(夏目先生は殿堂入りです)
    ・そうして侵蝕者を取り込み完全侵蝕された芥川の魂は消滅した。が、黄泉の手前で(芥川は行く途中で、久米は帰る途中だったんだろう)久米と対話したことで、芥川の負の感情が晴れて侵蝕が浄化されたことで黄泉帰ることができた。この時、負の感情が晴れたのはどういうことだろう。ってのは、まだぼんやりしてる。
     パンフの久保田さんによると、芥川が覚醒できたのは「久米の作品が侵蝕されたのも、芥川は自分のエゴのせいだと捉えている。でも。マイナスのことばかり考えても進まないから、自分を犠牲にして大切な親友である久米を助けるんです。前も見えないような世界で光を掴むことができて(略」とのこと。久米が自分に敵対するのも、久米の周囲への態度も、『破船』侵蝕も全部自分のせい(自分が裏切ってしまったことで久米に負の感情=芥川への恨みが発生したせい)だと芥川は思っていたが、対話により芥川への尊敬・期待と久米の純文学への潔癖さが喧嘩別れの原因で、裏切られたなんて思ってなかったことが判明。生前から引き摺っていた負の感情(久米への罪悪感)が晴れた芥川は浄化されて黄泉帰った。ポー推理も「久米とのわだかまりが解けたことで負の感情が浄化された」なので、この解釈あたりが適当だろう。
    ・でもせっかくなので、自分の「負の感情=エゴ」説も絡めてみる。芥川は『鼻』によって自身のエゴを封印し、なおかつ久米という道標を失って純文学を貫き通すことともできず自殺した。しかし今回、忌み嫌っていた自分の負の側面を初めて開放し、そして今度は『久米を救いたい』というエゴをあらゆる犠牲を払ってでも最後まで貫き通し、その結果親友の命を救うことができた。それによって芥川は「エゴ」(正確にはエゴとの葛藤だろうか)という今まで目を逸らしていた自分の穢れを認め、受け入れられた。久米は芥川にとって迷い道を照らす灯台。久米を救い、和解し、灯台を取り戻すことができたから、闇の中で光を見つけて帰って来れたのではないかと思う。
     何にしても、生前の久米のエゴ(純文学への純粋な姿勢)によって救われていた芥川は、死後に芥川のエゴ(自分を犠牲にしても久米を救うこと)によって久米を救うことで借りを返し、生前の後悔も罪悪感も無念も果たすことができた。黄泉で久米と別れる時「救われた僕が君を救う。おあいこだよ」と笑って去って行ったが、救われた恩があるから救ったという意味の「おあいこ」だけではない気がする。「おあいこ」というと『対等』『フェア』みたいな意味だと思うけど、久米の「狡いぞ!いつも君ばかり先に行って!」に対する返事なので芥川の「おあいこ」は久米の「狡い」に掛かってると思う。「先に行って狡い」が芸術性を指す場合、僕も同じくらい君に憧れてたんだからおあいこでしょう?ってことになるし、先に死んだのを指す場合、前は自己都合だけど今回は君を救うために死ぬのだからおあいこでしょう?ってことになる。なんというか、あの去り際の「おあいこ」には単に恩返しとかじゃなくて、もっと「してやったり感」みたいな微笑を感じてしまう。なんにしても先にエゴというカードを切って好き勝手やったのは久米なのだから、同じく芥川もエゴを切って好き勝手やったのを「狡い」と言われる道理は無い。好き勝手やったもの同士すごくフェアだ。
    ・前も書いた久米のセリフ「ただその理想だけを追求すれば良かったのに」「どこでボタンを掛け違えたんだろうなあ」「どんどん余計なものばかりが増えて、その理想が霞んでいく」。これは久米自身でもあるけど、芥川のことでもある。若い頃の理想→人気作家になった苦悩→自殺。『余計なもの』が指すのは端的に「読者」などだろう(久米が大衆小説アンチなのはここら辺も関係ありそうだ)
     久米が芥川に強く当たった理由「すごい才能がある癖に、さ迷ってばかりで!」「純文学だけを追究すればもっとすごい存在になれたんだ!」「自分自身の純粋な魂ともっと対話すべきだったんだ!」「それをしなかったことが許せなかった!」だけど、文アニとか定説から鑑みて『さ迷ってばかり』とは、芥川は本当は自我を貫いた作品を書きたいのに読者の求めるものとか自著が及ぼす影響とか『余計なもの』を気にし過ぎてしまったことだろう(でも多分、劇芥川がそれに翻弄されたのって『鼻』事件で自著が人を不幸にしてしまうのを知ってしまったからで、久米のせいとも言えるんだよね)。『純文学だけを追究する』、『もっと自分自身を対話する』=読者その他を切り捨てる道を選べれば(少なくとも自殺はすることなく長生きして)『もっとすごい存在になれた』のに、『それをしなかった』結果として自殺してしまった。久米の芥川への怒りって憧れとか敗北感とか色々あるけど、一番の根本って「余計な事に悩んで自殺したこと」だったのかなと思う(芥川と寛の会話シーン、芥川自殺回想で悲痛な叫びを上げてたのは寛ではなく久米だった)

    ・タイトルの『嘆き人の回旋』について。『鼻』事件で久米を気にするあまり純文学に迷いを持つようになってしまった芥川を見て、久米は「純文学だけを追求すれば良いのに」という嘆きで芥川に強く当たってしまい、その態度はやはり自分が裏切ったせいだと嘆いた芥川にまた迷いが生まれ、それを見た久米はまた……という嘆きの堂々巡りって意味かなと思った。それを「『鼻』については悔しいけど、気にしてたのはそれじゃなくて君が純文学に迷ってたこと」と言う久米、「君の迷いない姿に救われていた。迷いながらも文学を続けられたのは君のおかげ」と言う芥川。交わすべき言葉を交わせたことでやっと回旋を終えることができた。

    ◎締めの話
    ・最初に置いておいた締めに戻るけど、他者と相容れず対立することになった時、自我を優先すべきか他我を優先すべきかの葛藤についての物語で、そして葛藤を突破する道を見つける物語だった。
     まず締めの前に、寛容・思いやりとして美徳とされがちな「他我の優先」ではなく、エゴとして悪とされがちな「自我の優先」に秘められた美徳に重きを置いてるのに感心したし文劇らしい切り込み方だと思った。「自分と遠い人は勿論、近しい人であっても触れられない、侵されざる領域を人は持つ。それは自分が自分であるために守らねばならない自我、魂、アイデンティティ」「他者に否定されても、時に他者と対立してでも自分が自分であることを貫き通す強さ」(これは太宰も同じテーマも持ってたかな)などエゴや自己保全の大切さが散りばめられていたのは、「みんな仲良く、相手を思いやって」程度の単純な道徳ぐらいなら遥かに凌駕する真の道徳性があった(そりゃあ芸術家の遣り取りなので多少過激になっているが)
    ・その上で、他我の優先、自我の優先より一歩進んだ話が、対話による自我・他我の変化ではないかと思う。黄泉帰った芥川に久米は「今まで話せなかったことを色々話そう」「むしろ今は、そんなかけがえのない、他愛のないものを文学に残したい」と伝えた。それは、自我を保つための他我の拒絶、自我のために一人きりで作る純文学、というこれまでの久米の主義に反するやり方だが、そう考えが変化したのは自分より芥川を優先した結果ではなく、芥川との対話で久米の自我が変化した結果。久米はそういう自我の変化を恐れていたのだろうが、芥川との対話でその変化を受け入れることができた。パンフ対談に「ラストシーンは特に『案外、単純なことで人生って変わることがあるんだよ』という今作のメッセージを表す~」と話されているので「対話」と「変化」は今回の最後の鍵だと思う。
     つまりまあ、序盤にあった日本が従来の封建主義から海外文化に触れることで自由主義へ発展していく様について、ハワードの「人間、アイデンティティ、変化」という発言、結局それだった。自我(アイデンティティ)とは守らねばならないものだが、同時に他者とのちょっとした対話で劇的な、運命的な変化を起こす。久米は、漱石との出会いで純文学の自我を得て、松岡との関わりでエゴの自我を得て、今回は芥川との対話で変化を受け入れられる自我を得た。結局自我の形成とはそういう運命的な変化の積み重ねなんだろう。
     漱石も芥川との会話で、久米の自己完結的な純文学の姿勢を肯定しつつ「久米くんのように他者を拒絶してまで突き詰めるのも、自らの可能性を狭めてしまいます」と話していた。久米の芸術論は筋が通っていると思うのだが欠点はそこだろう。自分の中にあるものだけで勝負をしてるので、自分の持つ可能性以上のものは生まれないし、純文学以上の文学を生み出せない。久米は純文学だけを追求していたからこうなったけど、夏目先生の思いとしては自己完結的な純文学に留まることなく、開国した日本のように対話によって視野と可能性を広げ、純文学からもっと進化した新しい文学を創造していくことを期待していたんじゃないのかなあ。
    ・ニュアンスの表現が難しいことだけど、決して「融和」(相手を受容して取り込む)ではなく「対話(による変化)」(対話によって得た気付きによって自分で自我を変化させる=あくまで自我の純粋性は保つ)だと感じた。対話をするとは言っても、久米が相手の考えを理解しようと努める姿勢になったとか、これまで対立してた相手に歩み寄れるようになったとかじゃないだろう。なんというか「とりあえず一回、相手と話してみるフェーズ」が追加されたのかな。そのフェーズで自分の主義と相容れないと感じたなら、久米は相手を理解しようなどとはせず(同じく自分を理解してもらおうなどとは思わず)今まで通り他我を切り捨てることを躊躇しないだろう。
     それを端的に表すのが終盤ハワードの「理解不能、理解しました」だろう。「融和」であるなら相手を受容して理解に努めるのだろうが、「対話」なのでかならずしも理解をする必要はない。そもそも人間同士には決して理解されない・できない部分があるので「理解不能」として他我を切り捨てて自我の中に入れないことは悪いことじゃない(なので久米はやっぱり海外文化を好きになれないかもしれないし、海外文豪も久米の純文学について理解できないかもしれないが、お互いに「理解不能」という『落としどころ』があると確認し合うことが大事)
     ただ対話そのものを拒絶するのは、自分が新しい世界に出会う可能性をゼロにしてしまう。だからまず対話を挟むことで相手が自分にとって何者であるかを確かめる。黄泉での芥川との対話がそうだったように、その対話がそれまでの自分さえいっぺんに変えてくれるような運命である可能性を排除しないためにも、久米は対話を受け入れる姿勢に変化した。「とりあえず一回、相手と話してみるフェーズ」によって久米が得たのは、寛容とか共感性ではなく「自分の新しい可能性」だろう。それは芥川もまた同じかもしれず、久米との対話によって芥川の内面が変化して(自分のエゴや負を受け入れられるようになって)生まれ変わった新しい姿。それが覚醒ってことかもなと思った。

    ・ここまで書いて時間切れなのだけど、1テーマしか書けなかったのでもうちょっと久米と芥川について書きたいことがあった……ので全体的な久米・芥川の諸感をちょっとだけ書く。
     劇久米の解釈が個人的な好みをビタッと突いてきた。批判を恐れずに言うなら、私はゲーム久米より劇久米の方が遥かに好きだ。劇で久米先生の好感度がドッカンドッカン上がった。特にどこが好きというと、劣等感やコンプレックスなど「弱さ」を押し出しがちなゲーム版に対して、自意識の強さ故の暴走という(良い意味でも悪い意味でも)「強さ」が押し出されていたのが大変に良かった(久米と芥川の確執は「文アル流拡大解釈」で史実に基づいていないが、史実の久米先生は劇作家・大衆小説家でもあるので大衆小説アンチだったり純文学至上主義なのも「文劇流拡大解釈」ってやつだろう。私は史実との差異をそんなに気にしないタチなので、このオリジナリティというかやりすぎ感は歓迎してる)。そんな「強い久米正雄」解釈に加えて演じる安里さんの力強く凛々しい演技がドンピシャにハマっており、「嫌な奴」(パンフ安里さんインタビューより)なのに観れば観るほど好きになる。むしろ嫌な奴なのが良い。堂々としていて、自信家で、信念が強いからこそ冷徹な、声が大きい嫌な奴なのが良い。ゲームじゃあんなに小さい声でしか喋んないのに!
     なので文劇5MVPは「安里さん」(久米さんじゃなくて安里さん)。安里さんの演技でなければもっと重苦しく、陰鬱な舞台になっていたと思う。安里さんの演技が、劇久米の生き方の苛烈さ、信念の強さをブーストしてた。芥川や海外文豪に怒気混じりに喧嘩を売る久米。『破船』での自嘲気味なのに覚悟ガンギマリで戦闘する久米。生前回想の芥川を励ますように優しい力強さで文学を語る久米。黄泉での少年漫画かくやという剥き出しの感情で叫ぶ久米。和解して、あの鬼気はなくなったけど、やっぱちょっと刺のある尊大な口調が抜けない久米。みんな好きだ……。原作よりフンワリ系で(今回特に)少ししょんぼりしてて儚げな物腰の久保田がわ先生に対して、原作より大分勝気で声の大きさから鋼鉄の意思が伝わってくる安里くめ先生というギャップがすごい好き。劇久米推せる。
     芥川先生は、なんかもう時間ないから細かいことは言わん。結局「お美しい」の一言に収束しそうだし。内容で言うなら、文劇1の『鼻』によって久米を犠牲にしてしまったという罪悪感、という文劇を追いかけて来たものなら誰しも刷り込まれているものをある意味ミスリードとして使っていたのは最高だった。それは!勘違い!なんです!いやはや何年越しの伏線回収だったのか。また、劇4で太宰が芥川先生がいたからこそ覚醒できたように、太宰がいたからこそ(太宰の純粋さを受け止めてきたからこそ久米の純粋さを受け止められたし、太宰のワガママを貫き通す姿勢を見てきたからこそ同じことができた)芥川先生が覚醒できたのはもう本当にありがとう。文劇は(たとえどっちかしか舞台に立っていなくても)太宰と芥川の相補関係で成り立ってるんだよまじで。
     あと久米と芥川について、他には「己の死をもって、互いの芸術を完成させ合おうとする芸術的殺し愛」がなかなかお目にかかれないタイプの地獄相思相愛で大変アツかったのだけど、これについては想像を絶するクソデカ感情だからあまり深く掘れない。でも、文劇テーマ曲ではなく『文アルテーマ曲』が流れながら斬り合う芥川と久米は文劇の中で最も美しい殺陣シーンだったと思う。互いに刃を向け合いながらも互いに命を委ね合う、感情ブッ壊れ男達の美しい斬り合いだった……
     (久米は『地獄変』で芥川の芸術の真髄を見たけど、『鼻』事件で自分のせいでその芸術性(芸術のためならあらゆる犠牲を払う覚悟)に迷いを生じさせてしまった責任を感じてたのかもね。そしてそのまま芥川が自殺してしまったのを深く後悔してた。自分で蒔いた種は自分で刈る。芸術のために自分を斬らせることで(芥川と同様、久米もまた芥川が自分の死を芸術に昇華させる確信があった)、自分が生前封じてしまった芥川の芸術性を取り戻そうとしていたとも思える。結局、久米が芥川を斬ることになったが、それは久米のそんな内情を察しての芥川の意趣返し(おあいこ)かもしれない。本当に底知れない二人である……)

    ◎公演当時書けなかった感想をちょっとだけ補完
    ・他文豪について諸感
    カン=ヒロイン。しかし幼馴染系負けヒロイン。だって、だって、あんなに芥川のこと心配してるのに、当の芥川は宿敵とばかり世界作って挙句の果てに宿敵のために死ぬんだもん。真面目な話するとカンは純文学から身を退いてしまった文豪だからね……あの純文学ワールドには入り込めないのかもしれない。芸術とか理想とか文豪としての部分ではなく、友情とか仲間とか人間としての部分で芥川や久米と向き合っているのが彼のすごく健全で、良いところだった(文豪として芥川にも久米にも憧れていたけど、それと友情を分けて考えられる人)。でも悲しきかな、彼が健全で良いヤツだから、彼の愛する2人がいる純文学の魔境には行けなかった。でも2人は自我せめぎ合う魔境で戦いながらも、ただ友人として見てくれるカンが好きだったと思うよ。そういう意味で幼馴染系負けヒロインだなって。よく泣くのも幼馴染系っぽい。いやはっきり言うわ、綾瀬香純(Diesirae)だったよ。

    漱石=中の人から『ある意味ヒロイン』『姫度高い』などと言われるのは的確。主人公(芥川)と敵役(久米)の人生を変え、2人から取り合われ、主役を選んでしまったことで敵役を闇堕ちさせた生粋のヒロイン。けどこの場合はヒロインというより諸悪の根源って例えが近そうだ。諸悪の根源から悪を抜いたもの(それを『姫』と言うのかもしれない)。全ての始まりだけど終わらせることはできず、見守るしかなかった。心配はしてくれてたけど最終的に全てを彼らの相互理解に委ねた。狡いお方だ。いや、2人の確執が自分が芥川を選んだのが始まりだって本当に気付いてなかった可能性もあるけど……あってもなくても狡い人に違いない。これだからcv鳥海浩輔は恐ろしい。でもその判断が良かったのか円満解決したし、最後まで謙虚で弟子思いの穏やかな先生だったけど、vsポーの「あっはは……気が触れているのはもう随分と前からです」の微笑みの『圧』は、この人がまだ全然底を見せてないことを一瞬だけ匂わせてて堪らなかった。やっぱお札になる人は格が違うわ。
     劇5文豪は洋装率が高く、スーツ好きには垂涎の舞台なのだけど、夏目先生のスーツは格別だった。でっか。

    犀星=芥川と少し関係あるぐらいで出番は大丈夫かなと思ったけど、これは必要なポジション。シンプルに「いい奴」、というか優しい熱血漢タイプが彼しかいないので助かった。新思潮以外では推理作家ばかり(+温厚な夏目先生)という中でどうしても理論先行になりがちなところを、唯一の感情先行型として要所要所で感情論を持ち込んでくれて良かった。いくら理屈で正しいことがあってもやっぱハートが大事ってことは忘れちゃ駄目だよね。せっかくの鯛造さんなのに戦闘シーン少なめだったのは残念!

    ポー=ポー様が凄いのはね、いつも口は悪かったけど、劇中見る限り全く私情を挟んでなかったの(雑談シーンで推理小説家としてのクセが出てしまって犀星と喧嘩になったぐらいか)。常に今回の侵蝕事件の証拠集めや図書館の安全確保のために動いてた(でもねー、相手は芸術家だからねー、道理が通じない相手だからねー……)。『こゝろ』『破船』どちらにも助けに来てくれたのは優しいが過ぎる。そしてさっき全く私情を挟んでなかったと言ったけど、そんなポー様がたった1回だけ完全に私情で取ったであろう行動が、最終戦闘で下僕であるハワードを咄嗟に身を挺して庇ったこと。全体を平等に分析して客観的に最良の判断をしてきた『王』であるポーとして、そもそも下僕の主人という立場として一番取ってはならない行動だったはず。だからこそ、そこに王でなく主人でもない、文豪でもない、「人間」としてもポーが一瞬だけ露見していた。一瞬だけどスタオベしたいほど尊いシーン。

    ハワ=壺とフラフープ持ってる!両手塞がってる!重そう!つか体でっけえ!髪なげえ!フラフープ飛んだ!登場不可能と言われる原因であったあの武器をよくもまあ再現してくれた。再現するだけでなく、フラフープの軌道やスピード感、操作するハワの手つき、ゲームでは想像不可能な部分の解像度が爆上がったのでは。純文学vs大衆小説という要素のため鞭4人という無茶苦茶な構成だけど、一人これをブッ込んでくれたから戦闘シーンが大変楽しかった。彼の出自について掘る暇はないので危険な雰囲気もなく、大人しくて、従順で、強くて、たまに面白くて、ゲームより少しだけ感情が伺えて、なんか不思議なでっかい生き物……そんな感じ。

    乱歩=ポー以上に一番全てを俯瞰してた男。パンフだかアフタートークだかで「乱歩は客観担当」って言われてた記憶がある。確かに、各人が主観を話している時に客観的事実で訂正するシーンが要所にあった。いっそ観客に近い存在だったかも。久米が思い込みを言ってる時に「いやそうじゃないでしょ」ってツッコミを入れるような。いや最後の時間稼ぎの参戦を考えると、いっそこの文劇5をハッピーエンドに導く物語の紡ぎ手だったのかも……というのは考えすぎかもしれない。彼が何者だったのかは置いといて、空を飛ぶのとあらゆるアドリブを担っていたのは輝いていた。和合真一の株を上げる、が文劇5裏テーマだったそうだけど(演出脚本トークで言ってた気がする)わごぽはいつもカッコイイよ!予言通り劇7で帰って来るのだろうか……

    ・ザッツエンターテイメント精神
     乱歩が度々言う「ザッツエンターテイメント!」。今回「読者のためにある大衆小説」と「著者のためにある純文学」という対立があった訳だけど、この文劇5は前者の精神で作られてる。それをさりげなくかつ直接的に表す「ザッツエンターテイメント」という言葉だった気がする。決め手は最後の芥川復活シーン。ジャンルが純文学なら多分芥川は死んでた。だけど文劇はエンターテイメントなので(演劇は観客ありきだから)読者を喜ばす。ご都合主義的な復活を遂げ、大衆組が即座にそれらしい理由をくっ付け、最後は抱き合って大団円。文劇5は内容としては純文学の高潔さを中心に描いてたけど、メタ的にエンターテイメント賛歌でもある。それが「ザッツエンターテイメント!」という言葉に集約されてるというか、それを時々に挟むことで「これは皆さんの為の物語だから安心しててね」みたいなメッセージを感じた。
     エンタメ精神というと、「その方が面白いから」という理由で殺人事件にしたがる大衆組を室生は怒ってたけど、「それが芸術だから」という理由で芥川は『地獄変』で惨殺を書いてるし、『こゝろ』も悲劇のために自殺させている。真に残酷なのは果たしてどちらだろうか。まあ個人的見解では、犀星はイイヤツなので知人をモチーフにした殺人事件構想にキレただけで(この犀星は劇3で朔太郎の死を体験した犀星だって中の人も言ってるし)、この批判に小説ジャンルは関係ないと思われる。

    ・『こゝろ』の侵蝕者は誰だったのか?
     作品内の登場人物等から自然発生する侵蝕者もいるけど、基本的に文劇の侵蝕者って『人』に憑くよね。その『人』の関連書籍、またはその『人』の負の感情に近しいモチーフの作品が侵蝕される。今回なら漱石か芥川か久米。当初から侵蝕されてたらしい久米が濃厚かな。久米の「エゴ」に反応して、同じくエゴがモチーフであり、三角関係が『鼻』事件(または松岡との関係)を想起させ、なおかつ著者が久米の関連人物でもある、ってあたりで『こゝろ』が狙われたのか(じゃあ、侵蝕者が夏目先生の姿をしてたのってどういうことよ?ってなるけど)

    ・『破船』戦闘、全員を倒した久米が最後に漱石に刀を向けていたのに意味はあるのか?
     シーン的に気になった部分。自分の純文学の根源を消したかったから?『こゝろ』の三角関係と『破船』事件を置き換えて、先生(漱石)→松岡と置き換えたから?それとも単に最後まで生き残っていたから?色々想像できるけど、『破船』の侵蝕理由に「過去の自分の否定」が含まれているなら、やはり自分の文学の根源として消そうとしていたような気がする。


     色々書けなかった部分もあるけど、歴代文劇で一番色々考えさせられた舞台だった。なにより久米先生の株がガンガンに上がったのは自分としてデッカイ収穫だった。まったくなんてキャラ解釈をブチかましてくるのか。
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