薫の、笑顔が好きだ。
スケートをしている時の……特に、愛抱夢と滑るようになってからの薫は、それまでとは比べ物にならないくらい笑顔が輝いて見える。邪気のない笑顔は、普段やたらと大人びて見える薫を、その時だけ年相応に見せた。
そういう顔を見ると、少し安心する。少なくとも、今の薫は精神的に安定しているように見えた。
薫がやたらと荒れたのはたしか中学の頃からだ。何かある度にピアスの穴が増えていく。はじめは柔らかな耳垂の辺りにいくつか。ゲージの数字を減らしていくのを止めると、ひどく不機嫌になりながら今度は耳輪や軟骨が犠牲になった。
桜屋敷では許されない振る舞いに、親と衝突して真夜中うろついてた薫を拾って俺の部屋へ連れ帰ったことは一度や二度じゃない。なんなら見目と外面の良さだけはピカイチのこの男を連れて帰ると、すっかり篭絡された家族によって夕飯が少し豪華になった。
出会った頃から、綺麗な顔をしていることは知っていたし、思わず目を奪われたことは一度や二度じゃない。むしろ、両手足の指を足しても足りないくらいだ。薫がその場にいるだけで、ついつい視線が持っていかれる自覚はあった。
とはいえ、意識すれば視線を外すことは難しくなかったし、むしろ口ばっかり達者なこまっしゃくれたガキを、苦手に感じる気持ちも少しはあったと思う。なまじっか、頭も運動神経も良いだけに、幼い頃は同年代の子供を歯牙にもかけていない傲慢さに満ちていた。
だから、小さなころに積極的に近付こうとは考えていなかったように思う。それが変わったのは、確か――。
まだランドセルを背負ってた頃、互いに存在は認識していたけれど、こちらから歩み寄りはしなかったし、向こうも近付いて来なかった。
幼なじみで親同士の付き合いがあったから、何かある度ワンセットでくくられたけれど、それがすぐに親密さに繋がるようなことはないまま、何かある度にただ同じ場所で過ごすだけの状況が続いていたと思う。
それでも、傍に居る存在が気になって、小さな部屋の中、読んでいた本から目を離してちらちらと盗み見たことを覚えている。確かその日の窓は開いていて、ふわりとカーテンを揺らした風が届いた少し長めの前髪が、さらりと流れた。それまで髪に隠れていた横顔が露わになって、思わず見とれてしまう。
ふとこちらの視線に気が付いたように顔を上げた薫と目が合った。バツの悪さを感じた俺をみつけて、きょとんとしていた薫の素直な感情が現れた表情に、どぎまぎする。どちらかと言えば皮肉げだったり、人を小馬鹿にするような笑みを浮かべることの方が多かった薫が、毒の抜けた顔を見せることは少なくて戸惑いが伝播したんだろう。
ふっ、と薫の顔がほころんだ。
「変なヤツ」
小さな笑みは、それでも今まで見たことのあるどこか作られたようなものとは違っていて、単純な俺は「笑ってた方が良い」と感じた。もっと笑ってほしい、とも。
それから、ただ誰かと一緒に過ごすだけの時間が、薫と一緒にいられる時間に変わった、のだと思う。
けれど薫が手放しで無邪気に笑う瞬間は少なかった。
あの手この手で楽しませようとしても、逆に怒らせてしまうことの方が多い有様で。
だから今、その貴重な表情を生み出す相手に、嫉妬や対抗心すらわかない。その視線に熱が伴わないことも、知っているから。
一歩引いた場所で、愛抱夢に笑いかける薫を見つめる。その笑顔もいい、けど。
年齢相応の可愛い笑顔を眺めていると、ふと愛抱夢に向けられていた視線が流れた。
視線が止まった先に、俺を認めると、あの日のように口元がフッとほころぶ。
その笑顔が今日も自分だけに向けられたことに僅かな満足感を覚えながら、ふたりの元へ足を向けた。