(タイトル未定) 新米隊員が自身の警護対象であるマインドハッカー、『先生』の部屋に入った時、その人は眠そうな目を瞬かせながら窓際に並べられた鉢植えに水遣りをしていた。朝と呼ぶには遅い時間帯、もうすぐ中天に差し掛かる太陽が部屋を明るく照らしている。白い部屋とそこに飾られた色彩豊かな花たち。その中にいる先生は部屋や花と同じように光に照らされている筈なのに、清潔でカラフルな空間にぽつりと落とされた黒いシミのように見えた。仮にも自身より目上の立場にあたる人に「シミ」だなんて失礼なことを! 新米隊員はそう思い、頭を横に振って先程脳内に浮かび上がった思考を掻き消した。
「先生!」
彼が呼びかけて漸く先生は彼の存在に気付いて、花からそちらに顔を向けた。
[隊長じゃないなんて珍しいね]
「隊長は只今別件で手が一杯でして。先生の部屋にある古いファイルを倉庫に持って行くようにと言われて来たのですが」
[そう。お疲れ様]
先生はそう言うと目を細めて新米隊員に微笑みかけた。その人の声音に彼は終業時刻のFORMATのアナウンスを思い出す。労う言葉、というよりは定型文の挨拶のようだと新米隊員は思ったが、何も言われないよりはマシだし悪気はないのだからと気にしないことにした。先生の言葉が時折非常に無機質なものに聞こえることは今に始まったことではない。マインドハッカーとして自身の感情は極力抑える必要があるのだろうと彼はその人の態度についてそう思っていた。
「先生、古いファイルはどちらにしまわれているのですか?」
持ってきた段ボール箱を広げながら新米隊員がそう尋ねると、先生はぼんやりした表情で首を捻った。
[さあ……いつも隊長が片付けてくれてるからなぁ……]
「…………探します」
[そうしてくれると助かるよ]
ニコニコと笑いながらそう言った先生を見て、新米隊員は大きな溜息を吐きたくなる。それでも尊敬するマインドハッカーの目の前でそんな態度は取れない彼はその人の不精への呆れと共に吐き出しそうになった溜息を飲み込んだ。
仕事関係のファイルだからきっとデスク周りにある筈だろう。そう考えた新米隊員はデスクに近付いた。綺麗に手入れされた小さめの鉢植えと、その周りのセキュリティのセの字も頭に入ってないような惨状。彼は横目で先生の方を見て、机の上に散らばる書類を整える。更生対象の経過報告やFORMATからの成績書。散らばる書類を集めている最中に彼が初めて先生の警護をした日にハックされた更生対象の写真が目に入り、新米隊員は不愉快そうに顔を顰めた。結局あいつの口からは謝罪の類の言葉は一つも出なかった。たった一夜で全てを失った知り合いは未だに笑うことができないのに、あいつはニコニコ笑いながら奉仕作業をしている。手の中にある書類が歪んでくしゃりと音を立て、新米隊員は我に返った。
[どうしたの?]
「うっっわあっ!」
いつの間にか背後にいた先生に話しかけられ、彼は驚き叫び声を上げて書類を床に落とした。机の上を埋めていた書類が今度は彼の足元を埋める。あわあわしながら新米隊員が拾い上げようとした書類を横から白い手袋が掠め取った。
[これを見てたんだ]
「見たくて見たわけじゃありませんが」
ふぅんと興味なさげな目で先生は拾い上げた書類を見る。そして紙の縁を指で摘み、そのまま書類を破り捨てた。紙片になった書類が桜の花弁のように床にひらひらと落ちていく。新米隊員は突然の先生の行動に呆気に取られながらその人の顔と手を交互に見た。
「いや、ちゃんとゴミ箱に捨ててください! というか破り捨てちゃってよかったんですか!」
真っ先に彼の口から出たのは先生の行動への文句だった。しゃがみこんで散らばった書類を拾い上げながら紙片を一箇所に集める彼の丸められた背を先生は真っ黒な瞳で見下ろす。新米隊員はその視線に居心地の悪さを感じながら、片手に握り締めた紙片をゴミ箱に捨てて立ち上がった。
[きみがあんな顔してたから]
「はあ……」
先生の言葉に新米隊員は気の抜けた返事をする。失礼だとは思いつつ先生の突飛な行動や言動に付き合う意味に疑問を抱き始めていた彼は、気の抜けた返事をしながら書類にパンチで穴を開けると空いているファイルに収めた。
「一応の仮置きですからね。後でちゃんと種類毎に分けて保管してください」
[分かった]
そうは言いつつやるのは隊長なんだろうな、と新米隊員は思う。思いがけない仕事で時間を取ってしまった。此処に来たのは先生の机の上を片付けるためじゃなくて。当初の目的を思い出した彼は隊長が片付けたという古いファイル探しを再開した。
彼が古いファイルを見つけるのに時間はかからなかった。机の横にある引き出しの一番下に背表紙に日付が書かれたファイルが丁寧に古いものから順番に入れられていた。思っていたより量が少ないのは隊長が適宜処分をしていたからだろう。自身の上司の性格に感謝しながら新米隊員は引き出しから段ボールへファイルを移す。ふと先生の様子が気になった彼が部屋を見回すと、彼の観察に飽きたのか先生はベッドに腰掛けて本を読んでいた。自由な人だな、と新米隊員は小さく息を吐く。訓練生から正式なホットフィックス隊員になり、先生の警護担当になって近付くまで彼は先生のことをどんなに素晴らしい人かと考えていた。どんな悪人でもたちまち頭の中を花畑に変えて更生させる天才マインドハッカー。その人がいればこの世から憎むべき悪人という存在を根絶させられる。悪人に強い憎悪と嫌悪感を抱く彼にとって先生は救世主のようなものであった。しかし、彼は先生を機械のような人だと思っていた。実際、時折機械のような無機質さを感じさせる人なのだが、日頃は冗談を言ったり、ちょっとのことも面倒くさがったりと人間味があり、花を眺める目や悪戯を仕掛けた時の表情は無邪気な子供っぽさを感じさせる人でもあった。