星にあなたは託せない 賢者が人差し指を宙へ向ける。
忌々しい輝きから目を背けるように見上げた空には、無数の小さな瞬きが散っている。
彼はその空の色に似た髪をふわりと浮かせてミスラを振り返った。
「ほら、俺の名前ですよ」
そう言って笑った賢者の赤らんだ頬にもう一度触れて、その唇に自分のものを押し付けた。
風が吹いて足元の草花と一緒に2人を撫でていく。
冷たい空を指さしていた賢者の手が自分の背に回って、服越しにじんわりと彼の熱が伝わった。
月の視線を背中で受けながら、腕の中に包み込む。
今は、口付けに震える瞼に隠された小さな宇宙だけが、彼の世界の全てだった。
星にあなたは託せない
「涼しくなってきましたね」
賢者が開いた窓に向かってそう言った。
確かに風が冷たくなってきたように思う。
「それがどうかしましたか」
いつものように返せば、賢者は窓とカーテンを閉めながら「こちらへ来てもうすぐ1年だなぁ、と思って」と笑って言う。
既にベッドに横になっているミスラが手を伸ばせば、心得たとばかりにその手を握った。
ミスラはベッドの横に置いた椅子に座ったままの賢者の顔を黙って見上げる。
「…………、」
「…なんですか?」
「はぁ…。どうして横にならないんですか」
ミスラがじっとり見つめと、賢者は苦々しく笑う。
「横で寝る必要は無いじゃないですか」
「どうせあなたももう寝るんですから、ここで寝たら良いでしょう」
追いすがって言えば、賢者は困った顔をして黙ってしまった。
ミスラにはそれがどうも気に入らなくて、鼻を鳴らして顔を背けた。
「すみません、ミスラ」
「どうでもいいです。訊いただけなので」
ミスラが判り易く拗ねても、賢者は困ったように微笑むばかりでミスラの思った通りにはしてくれない。
眠気は限界なのに、イライラして眠れそうになかった。
やがて自ら握った手を解こうとして、賢者の方が慌てて両手で握りなおした。
「もう1週間近く寝ていませんよね。ちゃんと眠れるように頑張りますから」
そう言って賢者はミスラの手を握ったまま、親指の腹でミスラの手を撫でた。
それは情事の一幕のようにも、子をあやす母親のようにも思えた。
「…………」
しばらく枕に頬を押し付けたまま賢者の顔を眺めていたミスラだったが、流石にもう眠たくて仕方が無く、ついに瞼を落とした。
賢者が小さく笑う気配がする。
その後にミスラの頭をやわやわと撫でる感触。
長年渡し守の仕事を続けているうちに固くなったミスラのものより柔くて温い指先がミスラの額に触れる。
そして彼は寝物語として、彼の世界の話をするのだ。
ミスラにとってはほとんど意味の無い話。
けれどそれは確かに、賢者を独り占めしている夜の証だった。
それなのに、眠たくて仕方無いはずなのに、どうしてかじわじわと胸の奥からもやもやとした形の無い不気味な感情が湧いてくる。
眠りたい。でも眠りたくない。
眠れずにイライラするミスラを見て、賢者も悲しくなればいいのに。
そんな風に考えてしまうなんておかしな話だ。
(賢者様がベッドに入って来なくなってから、どれだけ経ったんだっけ…)
正体不明の感情を抱えつつ、泥のような微睡みに沈んで行った。
賢者との間に言葉に出来ない溝が出来たのは、3週間程前の話だ。
なぜそうなったのか覚えていない。
いや、そもそも心当たりなんてあっただろうか。
ミスラにとっては唐突に、その日は訪れた。
「今日はまだやる事があるので、ミスラが眠ったら部屋に戻ります」
そう言った彼に、その時点では特に疑問も無くうなずいた。
こちらの世界の言葉が読めない賢者は、書類をいちいち誰かに読んでもらえなければ何も出来ない。
その為通常より処理に時間がかかってしまうのだ。
だからたまに依頼が立て込んで夜遅くまでかかる事がある。
ミスラとてそのくらいの事は判っているし、眠らせてくれるならどちらでも良かった。
そもそもどうして一緒に眠る事になったのだったか。
多分最初は成り行きで、けれど段々誰かが横で寝ている心地良さに、添い寝が当たり前になりつつあった。
賢者はミスラには丁度良かった。
腕に程よく収まる体格もそうだが、平和で豊かな国に産まれ生きていたからなのか、賢者の身体は男の硬さはありつつも柔らかく、そして温かかった。
それが横に無い事を惜しむ気持ちは、賢者の居ない朝に湧いてきたのだ。
眠った事で昨夜よりスッキリする頭が、横に無い柔らかさと温もりを求めて胸の奥を締め付けた。
しかし、その日だけだと思っていた賢者の不在はそれからどんどん増えていった。
ミスラが誘っても頑なに共寝を断る賢者を見続ければ、流石に鈍いミスラでも気付く。
賢者はミスラと一緒に眠りたくないのだ、と。
ムカムカと、それとは別のチクチクした感覚が胸の奥でくすぶって、ミスラの機嫌はここしばらくあまり良くない。
胸の痛みに耐えかねて魔法舎中を歩き回り、訪れたシャイロックのバー。
ミスラを恭しく出迎えたシャイロックに不機嫌の理由を訊かれ、どうせ暇なのだからと理由を話した。
「なるほど。賢者様の事情の方は私にも解りかねますが、あなたが誰かを想い胸の苦しみに喘ぐ姿は、まるで…―、」
ワインの様な瞳がうっそりと細められる。
シャイロックがミスラの様子に何を見ているのか解らなかったが、その視線はどこかむず痒さを感じさせ、ミスラは結局暇も潰せないまま席を立った。
眠れているはずなのに連日のもやもやの所為で快いとは言い難い心持ちのまま2週間程が経つ。
朗らかな日差しの下、昼寝出来ないかと中庭の木陰で寝転がっていたが、若い魔法使い達のきゃらきゃらと笑う声に気が散らされる。
ミスラは大の字になって無理矢理目を閉じていたが、そこへ近づく何かの気配を感じた。
よく知っている気配。でも今は、あまり会いたくなかった。
すぐそこまで近づいた気配はミスラに声をかけようとして、けれど何も言わずにそろそろと寝たフリを続けるミスラの隣に腰を下ろした。
風に揺れる木々の音と花の香り、そしてそこに混じる賢者の匂いに、ミスラの気持ちはこの木々の様にざわめく。
ふと、賢者が動く気配がした。
まだ行かないでほしい。ミスラは気怠さから満足に動けないまま思っていた。
去っていく賢者の姿を想像して、置いてけぼりを食らった様な気持ちになる。
胸の奥がしくしくと痛んだ。
けれどミスラの想像と違い、賢者は去らなかった。
その代り、ミスラの頭に慣れ親しんだ温もりが落ちてきた。
ミスラを傷つけない柔らかさで頭や額を撫でる手に、ミスラはどうすれば良いのか解らなくなってしまう。
一緒に眠らなくなったのはミスラの事が嫌になったからではないのか。
こんなに優しく撫でる癖に、どうしてベッドには入ってくれないのだろう。
ミスラはぎゅっと瞼に力を入れた。
なんだかそうしていないと何かが漏れ出てきそうな気がしたのだ。
結局賢者は夕飯を知らせる声がかけられるまでそうしてミスラを撫でていた。
ミスラの心の奥には、金属の様なぬるい冷たさだけが残された。
それからまた1週間が経った今も、賢者はミスラの誘いを断り続けている。
ここ最近は断るネタも尽きたのか、ただ出来ないと言うばかり。
賢者は理由もなく誘いを断ったりはしない。
ならば理由があるはずなのに、頑なに言わなかった。
微睡みから覚め、ちらりと視線だけ賢者に向ければ、入相のような瞳を翳らせてただ静かに微笑んでいる。
その顔に、胸の奥がまた痛んだ。
ミスラを嫌いになったわけではない。
嫌いならあんなふうに頭を撫でない。
ならばどうして、起きている時のミスラの傍に寄ろうとしないのか。
(ああ…、考えるのにも飽きて来たな)
思うが早いか、ミスラは馴染み深い言葉を口にしていた。
《アルシム》
薄暗い部屋で光が瞬き、賢者の瞳が驚愕に見開くのが見える。
一瞬の後、現れたのはこれもお馴染みの扉。
ベッドから降りたミスラは賢者の身体を抱えて開かれた扉に飛び込んだ。
ごう、と唸りを上げて、2人の身体は宙に投げ出された。
「わあっ!!」
腕の中から賢者の情けない悲鳴が聞こえて、ミスラの気持ちがほんの少し浮上する。
ミスラの気分に応じるように二人の身体はふわりと浮かび上がる。
足元に出した箒に賢者の足を着けてやれば、少しだけ落ち着いたらしい賢者が息を吐いた。
落ち着いたとはいえ箒に立ったままなのが不安なのか、賢者の手はしっかりミスラの背中に回っている。
寄り添った身体から久しぶりに賢者の熱が伝わり、胸の奥までじんわりと温もっていくようだった。
下を見るのが怖いのか、ミスラにしがみついた賢者は目をぎゅっと閉じたまま現在地を訊ねてくる。
「見たら判りますよ」
短く答えて、ミスラは地上を見下ろした。
賢者の身体をしっかりと抱きしめて、箒を降下させる。
地面に着いて賢者を降ろしてやると、逃げるように熱が離れていくので浮き上がっていたミスラの気持ちはまた沈んでしまった。
地に足を着けた賢者は座り込んで息を整えている。
「そんなに怖かったですか?もう何度も箒で飛んでいるでしょう」
「箒に同乗させてもらうのとは別じゃないですか…」
1つ息を吐いた賢者はミスラの方を振り返って言った。
「いきなりどうしたんですか?ミスラ」
訊かれたミスラは無言で視線を逸らす。
正直ミスラにもよく判らなかった。
ただとにかく他の誰にも邪魔されない場所に行きたかっただけだった。
それで咄嗟に繋げたのがなぜここだったのか。
答えないミスラを見つめていた賢者は、一旦諦めて周りを見渡して声を上げた。
「ここって、ティコ湖ですか?」
「はい」
そこは賢者も知る場所。
ミスラにとってはあまり馴染みの無い、けれど記憶に残る場所だ。
「綺麗ですね…」
ぼんやりと賢者が言う。
その視線は湖に向けられている。
夜のティコ湖は星々の輝きを静かな水面に散らして、まるで一面星空のように輝かせていた。
湖を目に焼き付けるかのように一心に見つめる賢者を眺めて、ミスラはその隣にどっかりと座った。
そうして2人はしばらく湖を見つめていたが、不意に視線を感じて横を見れば、いつの間にかミスラを見つめていた賢者と目があった。
賢者は目を逸らさなかった。
「綺麗です」
賢者が微笑む。
それはここ最近の困ったような笑顔とは違っていた。
けれどミスラのよく知る笑顔とも違う、泣きそうな、泣きたくなるような笑顔。
「どうしてですか?」
思わず漏れた言葉に、賢者は言葉に詰まったように息をひそめて、それから「何に対してですか?」と返した。
「色々です。ここ最近俺を避けているのはなぜか、なぜ今、そんな泣きそうな顔をしているのか」
「……」
賢者は再び湖に顔を向けて、沈黙した。
無視しているというよりは、どう返そうか考えている沈黙だ。
黙ったままの横顔を眺めつつ、言葉を投げかける。
「欲しいものや、してほしいことがあるなら言ってください。解りませんから」
賢者は俯く。
抱えた膝に額を押し付けて、風に紛れてしまいそうな声で言った。
「欲しいものが無いわけではないんですけど、それはどうしたって手に入らないんです」
「なんですか?俺が取って来てやりますよ」
ミスラの提案に賢者は首を小さく横に振った。
「俺、寂しいんです。そして同時に、怖い」
「怖い?」
「はい」
ほんの少し顔を上向かせた賢者は泣いているように見えた。
思わず手を伸ばし頬に触れるが、そこに濡れた気配は無く、びくりとわずかに肩を震わせた賢者がミスラに視線を向けた。
「考えても仕方のない事だって解っているんです。でも、俺が居なくなった後、俺がここで出逢った人達は誰も俺の名前を覚えていない。
誰も、思い出して俺の名前を呼ぶ事も無い」
「…でも、その時にはあなたは居ないんだから、それを知る事も無いでしょう?」
じわり、と小さな痛みが胸に湧き上がる。
自分で言葉を紡いだ瞬間、ミスラは賢者の言葉の一端に触れた気がした。
「この間ミスラと話したでしょう?忘れられるのは寂しいから覚えていてほしいって」
「ああ、記憶に残りたいからオズを倒すんでしたよね」
「え、ええと…、方法は置いといて、そういう話をしました」
「それがどうしたんですか」
賢者は臆病な小動物のような顔をする。
「あれから…、一人になるとふと、自分が居なくなった後のこちらの様子を想像してしまうんです」
「………」
「解ってはいるんです。考えても仕方ないし、自分が居なくなった後の事なんて判らないんだから…」
賢者の声が震えている。
涙はこぼれていない。けれど、泣いている。ミスラはそう感じた。
「でも、考えてしまうんです。今が楽しければ楽しい程、…皆に忘れられたら、俺も…、」
賢者との視線は合わない。
「俺も、『前の賢者様』って呼ばれるんだって、思ったら、なんだかそれがとても、寂しくて、悲しくて…怖くて」
再び賢者は膝と腕で顔を隠してしまう。
けれど、震えた声と鼻をすする音で、どんな表情をしているかは想像がついた。
「忘れられたくないなぁって、思うんです。楽しい時に。嬉しい時に。幸せな時に」
「我儘ですね、俺」そう言って笑おうとする気配があったが、賢者は顔を上げなかった。
ミスラは黙ったまま視線をうろうろさせて、賢者が何も喋らないとみると彼の肩にそっと触れた。
「俺と一緒に寝なくなったのは…」
「どうしてなんですか」と訊こうとして言葉が喉につっかえた。
目元を腫らした賢者が、ずらした腕の向こうからミスラを見つめている。
「…1人で居たら考えてしまうんでしょう。だったら俺と一緒に居れば良いじゃないですか。寝る時だって」
1つ瞬きをした賢者の瞳から、流れ星のように雫がこぼれ落ちていくのが見えた。
「…朝、ミスラに抱きしめられて目を覚ますと思うんです…、」
「何をですか…」
「……、」
賢者が鈍い動きで頭を持ち上げて、膝の上に揃えて添えた両手に頬をくっつけて微笑む。
「離れがたいなぁって」
小さく息をのむミスラには気付かぬ様子で、賢者は困ったような笑顔を浮かべた。
「胸が苦しくなってしまうんです。…っ、俺…、ミスラの事が好きなので」
「…好き?」
「好きなので…、」
「一番、かなしい」
賢者は赤くなった目元を拭う。
何かを言おうとして何も言えなくなってしまったミスラから視線を離した賢者が空を見上げて呟くように言った。
「俺の名前、覚えていますか?」
「馬鹿にしてるんですか?晶でしょう。覚えてますよ」
「ふふ…すみません。馬鹿にしたわけじゃないんです…ちょっとだけ不安になって」
そんな事を言いながら、賢者はミスラの方を見ない。
「俺の国で使われている″漢字″って文字には、一つ一つに意味があるんです」
空から地面へ視線を向けて、落ちていた尖った石で地面をがりがり引っかく。
区切られた四角い図形が三つ、二つで一つを支えるような形に並べられる。
「これで″あきら″とか″しょう″とか読みます。読み方としては″あきらか″なんですけど、人名だと″あきら″が多いです」
地面の上に記された何かの模様のような″文字″。
どうにか読もうと思うも、やはりただの「形」としか認識できない。
それがなんだか無性に腹が立った。
「この三つの四角の1つは″日″…太陽という意味の漢字なんですけど、これが複数になると星になるんだそうです」
「太陽なのに星なんですか」
「太陽は一つしかありませんから」
ほんの少し頬を緩めた賢者を見て、ミスラもほんの少し肩の力を抜いた。
どうにも賢者の悲しむ顔を見るとざわざわと嫌な気持ちになる。
「″晶″という字には、『きらきら輝く』というような意味があるんです。
親が子供に、『明るい子になって欲しい』とか『明るく輝くような人生を送って欲しい』って祈りを込めて付けたりします」
(……″親″)
チクリと何かが胸を刺した。
「あなたの親も…そうなんですか」
「そうですね…。そう言ってました」
木々や草花が風に揺られてざわりと音を立てる。
賢者は今、彼の元居た世界の、彼の家族を思い出しているのだろうか。
失敗したな。とミスラは思った。
ああ、なんでそんな事を訊いてしまったのだろうか。
賢者の横顔が、心がどこか遠い所へ行ってしまったように見えて嫌な気分になる。
(あなたはなんて…)
なんて狡い、人間だろう。
ここの誰にも忘れられたくないと言うのに、どうしてもここに残るとは、残りたいとは口に出さない。
そして今は、どこか彼方の人を想っている。
ミスラが今こんなにも″晶″を見つめているというのに。
「ねぇ、ミスラ」
「…なんですか」
「小さい頃、どうしても眠れない時にはカーテンを開けて窓から見える星の数を数えていたんです」
「羊じゃないんですか」
「羊も良いんですけど…目の前に見えている沢山の星を数えていると、寂しくないような気持ちになったんです」
ミスラがいつもの調子で「ふぅん…」と返すと、賢者は久しぶりにミスラの方を向いて悪戯っ子のような顔をした。
「いつか俺がこの世界から居なくなっても、星を見上げたら俺が居る事になりませんか?」
やっと自分の方を向いたのに、壁でもあるかのように何かが歪んでいる。
「………なりませんよ」
「あはは、…そうですよね」
乾いた笑みを薄く浮かべて、賢者は「よいしょ」と立ち上がった。
「もう帰りませんか?ミスラ、もうずっと寝ていないんですから」
「ね?」と小さな子供に言い聞かせるような物言いで、賢者はミスラを促した。
常ならば文句を付ける所だったが、それを返せる余裕が無かった。
ミスラも立ち上がって、けれど扉を出す気になれずにただ立ち尽くしていた。
そんなミスラの視線の先で、賢者が人差し指を宙へ向ける。
忌々しい輝きから目を背けるように見上げた空には、無数の小さな瞬きが散っている。
彼はその空の色に似た髪をふわりと浮かせてミスラを振り返った。
「ほら、俺の名前ですよ」
そう言って笑った賢者の赤らんだ頬にもう一度触れて、その唇に自分のものを押し付けた。
風が吹いて足元の草花と一緒に2人を撫でていく。
冷たい空を指さしていた賢者の手が自分の背に回って、服越しにじんわりと彼の熱が伝わった。
月の視線を背中で受けながら、腕の中に包み込む。
「離れがたい」そう思った。
けれど、ミスラの服を掴んだ手がゆっくりと離れて行って、ミスラも夢から覚めるような心地で唇を離した。
ミスラの小さな世界は壊れ、残ったのは不幸とも幸せともつかない、寂しい賢者だけ。
「帰りましょう。ミスラ」
賢者がミスラの腕を引く。
「帰って、賢者と賢者の魔法使いになりましょう」
視線を逸らした賢者を瞳に閉じ込めるように、ミスラは瞼を伏せた。
《アルシム》
ここへ来た時と同じ呪文。
なのに呪いにでもかけられたみたいに喉が詰まって、息さえも難しい。
戦うよりも水の中に潜るよりも、こんなにも苦しいのに、この時間を、この会話を、忘れたくないなと思う。
この日の会話を覚えていたら、あなたの名前を忘れずに居られるんじゃないかと少しだけ思ってしまった。
どれだけ沢山の星々がその名の通りに光り輝いていても、どうしたってそれはただの星なのに。
「今ここに居てほしい人が居ない」それを知っている事は、その人を覚えているという事ではないか。
いつか、彼がここから居なくなって、ここに居ない誰かを想って星を見上て、その誰かを忘れて星を見上て、そして星を恋しいと思うのだろうか。
それは嫌だな。
ミスラにはどうしても、月に恋したどこぞの間抜けな魔法使いのようになりたいとは思えなかった。
賢者は扉の向こうへ進んでいく。
唐突に、棒のようになっていたミスラの足が動き出す。
大股に駆け出して、境界を超えようとする賢者の身体を抱えて、勢い付いて自身の部屋に転がり込んだ。
「えっ?えっ?」
目を白黒させて動揺する賢者をベッドに放り出し、その上に覆いかぶさった。
「晶」
「…!」
狡くて酷い賢者様は、恐怖にさえ見える表情で目を見開く。
「選んで。晶」
その頬を両手で包み込む。
瞳を揺らしていた賢者は、ぎゅっと1つ瞬きをした。
「…っみすら、」
さっきの涙が乾いた跡を、新しい涙が伝う。
じっと見つめるミスラの頬に手を添えて、″晶″はその美しい男に口付けた。