愛と運命のロジック -1話 出会いと始まりのリリック- 【Großer Katastrophe-グローサー カタストローフェ-】″大いなる厄災″の名を与えられたそのウイルスは40年程前に発見され、その驚異的な感染力から現在では全人口の9割以上が感染しているとされている。
このウイルスは感染力に対して発症率が低く、またその症状は″条件″によって大きく異なる。
それ故に確固とした治療法が見つかっておらず、決して治らない病気ではないものの、未だ謎の多いウイルスである。
Großer Katastropheが原因とされる病は多岐にわたる。
発見当時マスコミによって付けられた名前は「童話ウイルス」。
これはこのウイルスによる病であると発表された最初の症例が「眠り姫病」であった事に起因している。
同様の名前で呼ばれる病気は元々存在していたものの、ある時から急激に似通った症状の患者が増え始め、その研究の末見つかったのがこのウイルスであった。
それから間を置かず発表された同ウイルスが原因の病にマスコミが有名な童話を当てはめた名前を付け、それが一般的に広まった為に総称として「童話病」が使われる事となった。
勿論本来の病名は別にあるものの、一般的には「童話病」で通っている為、患者への説明にも使われている。
「童話病」と称される病は複数確認されている。
Großer Katastrophe以外の原因の特定や治療法の確立は病によってまちまちで、症例の少ないものなどはいまだ症状を和らげる為の薬さえ見つかっていない。
全ての病に共通している事は、症状は特定の″条件″が満たされない限り現れないという事である。
この″条件″には大きく分けて二つ存在し、長期的にその病の原因に関わるもの(前提条件)を「コンセント」と呼び、短期的に症状に関わるものを「スイッチ」と呼ぶ。
この「スイッチ」によって唐突に症状が発現したり、逆に一時的に症状が改善する。
主に「スイッチ」のコントロールによって症状を抑えることが可能だが、患者によってはこれらの″条件″を特定する事すら困難である――…。
車に揺られながら資料を読み返していた晶は顔を上げて運転席に視線を向けた。
鼻歌さえ歌いだしそうな明るい表情の青年は、晶と同年代だそうだ。
「Großer Katastropheの研究と、治療法や新薬の開発を行っているのが、今向かっている研究所なんですよね」
晶が話しかけると、″研究者″のイメージより溌剌とした笑顔を浮かべて、青年は「はい!」と元気に答える。
「我らが″フォルモーントウイルス研究所″は晶さんもご存知の通り、世界一の製薬会社「フォルモーント」が運営する世界最大のウイルス研究所ですよ!」
自慢げな横顔に、晶も思わず笑顔を浮かべた。
今車を運転している青年はルチル。
晶が務める製薬会社「フォルモーント」が所有、運営している「フォルモーントウイルス研究所」、通称「2VL」で″大いなる厄災″の研究をしている研究員である。
「でも大変ですよね…。晶さんは営業だそうなのに一年近くも研究所に出張だなんて」
ルチルの言葉にうっすら苦笑いを浮かべる。
晶は元々薬剤師として働く予定だったが、憧れのフォルモーントに就職できたと喜んだのもつかの間、営業に回される事になってしまった。
勿論希望通りでなかった事にはがっかりしたが、人好きする性格もあって成績はなかなかなものだった。
ところが、つい最近になって急にフォルモーントウイルス研究所への出張が決まったのだ。
「確かに急で驚きましたけど、フォルモーントウイルス研究所をこの目で見る機会はそうありませんから楽しみですよ」
2VLはウイルス研究という性質から、フォルモーントが所有する人里離れた広大な森林地帯を切り開いて作られた大規模な研究施設だ。
交通の便が悪いので研究者の為の居住区域は勿論の事、ストレスを溜めない為のあらゆる施設が併設されており、小さな国とまで称される。
「ルチルは研究だけじゃなく、学校の先生もしているんですよね」
事前に渡された資料は、施設のパンフレットや晶を担当する研究員に関する簡単な書類だ。
ルチルは研究員として働く傍ら、2VLに併設された私立学校で教鞭も執っている。
「はい。私の母は″大いなる厄災″の研究者で、父は2VL内の学校で教師をしていたんです。その影響で私も」
「ご両親は2VLで出逢ったんですか?」
「ええ!ですから私も、私の弟も、2VLで産まれ育ったんです。外に出るのは、今回のような用事がある時だけ」
「それは…俺には想像もできない世界です…」
「ふふ、そうでしょうね。でも、何不自由なく生活させてもらって、家族も友達も居て、自分の好きな事をしている…。幸せな事ですよ」
「そうですね、素晴らしいと思います」
「ありがとうございます」
素直な晶の感想を受けて、ルチルは一瞬だけ晶の方を向いて微笑んだ。
閉鎖的な空間で生まれ育った子供。一般的な家庭でごく普通の人生を歩んできた晶には、遠い物語のように感じられた。
けれどきっと、それはルチルから見た晶も同じなのだろう。
「弟はあなたの事を訊いてからずっとそわそわしているんです」
「そうなんですか?」
「ええ、あの子は本当にあそこから少しも出た事が無いし、外から来られた方とお話しする機会も無いんです。
先程言ったように、私達は外の方から見たら特殊な環境で育って、外の事を何も知りませんから…、あの子にとってあなたは本や映像の中の住人なんです」
「…なんだかそう言われると俺までそわそわしてきちゃいますね…、別に特別な事は何もないんですが…」
「そんな事はありませんよ!お手隙の際には是非、″外″のお話を聞かせてあげてください」
「はい。勿論です。ルチルの弟さんならきっと良い子なんでしょうね」
「可愛い自慢の弟です」
ルチルはにこにこと朗らかに笑う。本当に弟の事を大切に想っているのだろう。
適度に休憩を入れながら研究所を目指し、その合間に研究所や研究所内の施設についてルチルから話を聞いた。
仕事として出向いている立場で不謹慎かもしれないと思いつつ、晶にとっての非日常に自然とわくわくした気持ちが沸き上がってくる。
やがて車は、生き物の気配の無い鬱蒼とした森に差し掛かった。
「随分と暗い森ですね。まだ明るい時間なのに」
「この辺りはシャーウッドの森と呼ばれています。研究所から東の区域にあって…、この道から少しでもはぐれればあっという間に迷子になってしまうので気を付けてくださいね」
「そうなんですね…気を付けます」
「ええ、昔2VLに忍び込もうとしたジャーナリストの方が迷い込んで、管理をしている職員さんが骨になっているのを見つけた…、なんて話もあるくらいです」
「え、こ、怖いですね」
「怖いんです」
ずっとにこにこしていたルチルがぎゅ、と怖い顔をする。
しかし次の瞬間にはにこっと笑って言う。
「こうやって子供達にも教えているんです」
晶はほっと息を吐く。
なるほど、しつけの為に怖い話をするのはやっぱりどこでも同じらしい。
「ジャーナリストの方のお話は事実なんですけれどね」
なんて事も無い顔で言うルチルの横顔を見て、晶は少し怯えた。
「あ!見えましたよ!あれがフォルモーントウイルス研究所です!」
怯えている晶をよそに、ルチルが弾んだ声を上げる。
暗い暗い森を道なりに進んでいると、唐突に開けた視界の先にそれはあった。
「わ…ぁ、」
「大きいでしょう?」
「大きいというかこれはもう…」
それは資料写真で見るよりも圧倒的な光景だった。
建物は視界の端から端まで続き、横を向いても先が見えない。
こんな何もない森の中にあるのに、晶が知るどんな建造物よりも未来的な外観で、50年以上の歴史のある建物とは思えない。
「結構綺麗でしょう?大事に使われているのは勿論ですが、修繕やメンテナンスを定期的に行っていて、つい数年前にも大規模な改修がされているので古さは全くありません」
「ええ、パンフレットで見るよりなんだか…かっこいいです」
子供のような感想しか出て来ず赤面する晶だったが、ルチルはぴかぴかの笑顔で「ですよね!」と喜んだ。
ルチルにとって研究所は″家″なのだ。そしてもしかしたら″家族″そのものかもしれない。晶は改めて、ここが晶にとっての異世界であると理解した。
ルチルに連れられてエントランスに入る。
エントランスは広く、天井もかなり高い。
体育館よりも少し広く感じるシンプルで近代的なデザインはどこも美しく整えられていてぴかぴかだ。
正面には受付があり、その向こうに左右に別れたエスカレーターといくつかの扉。
また左右にも大きく取られた扉があり、右手の扉の傍には″store″の文字が見える。
「あそこは名前の通り販売所です。コンビニエンスストアより多少規模は大きいですけれど、皆さんほとんどお部屋に備え付けられたPCから注文購入しているのであまり使われないんです」
「私は時々使ってますけどね。」と笑って、ルチルは反対側を見た。
「あちらは植物園です。植物園はここから中央の庭園にまで繋がっていて、リフレッシュの為に散歩しても良いですし、一部の区画では好きな植物を育てても良い事になっています」
「へぇ…俺も使って良いんでしょうか」
「勿論ですよ!お花を育てたりするのも、気分転換になって良いんですよ」
植物園から視線を逸らしたルチルは、晶を促して奥へ進もうとした。
しかし、今まさしく向かおうとしていた扉から白衣の青年が現れて、ルチルを見るや否や慌てた様子で駆け寄って声を上げる。
「フローレス副班長!良かった!おかえりだったんですね!」
「どうされました?そんなに慌てて…」
「あ、それが、ちょっとトラブルがあって…班長を探していたんですけど、また携帯端末を置いたままどこかへ消えてしまって…」
「まあ…、またどこかで寝てるのかな…どうしましょう」
ルチルの表情が曇る。
「あ、あの!」
「え?はい、どうされました?」
「行ってください。俺、この辺りで待ってますから」
晶の申し出に、ルチルは驚いた表情を浮かべる。
「でも、いつ戻れるかわからないんですよ?」
「大丈夫です。俺は急いでいるわけではありませんし、この辺りを見学させていただきます」
そう言って安心させるように笑顔を見せた晶に、ルチルも微笑む。
「わかりました。ありがとうございます。では晶さん、これを」
ルチルが鞄から取り出したのは銀色に光る携帯端末だ。
「これはこの研究所専用の端末です。ここでは連絡にはこれを使ってください。専用のアプリが入っていて、そこに登録されたIDを使って施設内の鍵の開閉や本人照会などを行います」
「鍵と身分証明を兼ねているんですね」
「そうです。連絡先に私のIDを登録してあるので、何かあったらそれで連絡してください。もし時間がかかるようでしたら、他の誰かにお願いしてお部屋まで案内していただきますね」
「わかりました。大丈夫ですから、早く行ってあげてください」
彼らの研究はこの世界の未来に関わる。フォルモーントの社員としても、そちらを優先して欲しかった。
端末を片手に送り出す晶に1つ頷いたルチルは、「失礼します。」とお辞儀して呼びに来た研究員と一緒に奥の扉に消えていった。
1人になった晶はリュックを背負い直し、とりあえずお店を覗いてみることにした。
店内は至って普通で、ルチルの言っていたようにコンビニよりやや広めの店内に商品棚が並ぶ馴染み深い光景が広がっている。
晶は入口近くでぐるりと店内を見渡して、視線が自然と一箇所に落ち着いた。
それは本来なら店員が居るであろうレジスペースだった。
「ね…猫ちゃん…!」
「にゃぁん」と可愛らしい声で晶を迎えたのは、くすんだ白い毛に墨を滲ませたような模様の愛らしいラグドールだ。
レジ台の上でちょこんとおすわりして晶を手招きするようにふさふさの尻尾の先を動かしている。
大の猫好きである晶は怖がらせないようにそろそろと近づいて行った。
「猫ちゃん、店番ですかぁ?撫でても良いかな…」
猫は淡いブルーのつぶらな瞳で晶を見つめている。
その頭に触れようとしたその時だ。
「いらっしゃいませお客様!」
「猫が喋った…!」
突然人の声で喋り始めた猫に驚いた晶はどてんと尻もちをついてしまう。
ドキドキと高鳴る胸を抑えてよくよく見てみると、本来の猫には見られないような表情を浮かべている。
「大きなお荷物は配達をお選びできます。ご質問の場合は肉球を押してください。担当者へお繋ぎします」
「こ、これ…ロボット…?」
立ち上がってまじまじと猫を見つめる。
しかしよく見ても本物の猫にしか見えない。
動きにもロボットのようなぎこちなさが無く滑らかで動作音も無い。
試しに触ってみると、本物よりもやや硬めながら柔らかさやほんのりとした温もりもあり、喋りさえしなければロボットだとは思わないだろう。
精巧な作りに感心していた晶は、思わず肉球をぷにぷに押してしまっていた。
「あ、あれ、そう言えば肉球押したら…、」
焦る晶だが、解除の仕方が判らないままに猫は「ご質問ですね。担当者へお繋ぎします。」と言って瞳を閉じてしまった。
あわあわとしているうちに、静かな男性の声が響く。
『…こちらサポートセンター。何か質問が?』
男性の声はどこか怒っているに聞こえ、晶は委縮した。
声だけでも生真面目そうな雰囲気の声が、猫の向こうから圧力を与えてくる。
「す…すみません…あんまり精巧なロボットだったから感心しちゃって…思わず肉球を触ってしまいました…」
罪を懺悔するような声でそう告げると、たっぷり時間をかけた相手は溜息を吐く。
怒られるのではと怯えていた晶だったが、意外にも相手は幾分か温かみのある声で言った。
『君はここの住人ではないな。所長の言っていた本社の社員か』
「は、はい!真木晶と言います!」
『担当の職員はどうした?』
「トラブルがあったらしくて…そちらを優先してもらってこの辺りを1人で見学しようと…」
『まったく…初日から段取りが悪いな…』
「すみません…」
『…君に言ったわけじゃない』
男性はぶっきらぼうに、けれど優しく諭すように言う。
カメラがあるのか、それとも声だけでも判るほど晶が怯えていたからか、怖がらせないように気を付けてくれているのが判る。
『誰か別の人間を寄越そうか』
「いえ、大丈夫です。時間がかかるようなら手配してくれると言っていましたから」
『そうか…、ああ…ええと、』
「…?」
晶が黙って待っていると、サポートセンターの親切な誰かは言葉を濁しつつ独り言のように言葉を呟いた。
『…何か困った事があればまた訊きに来ればいい』
「…!ありがとうございます!」
『まぁ…基本的に暇だからな』
言い訳じみた事を言った後、相手はごほんと咳ばらいをする。
それを聞きながら、先程ルチルに何かを訊き忘れていた事を思い出した。
「あ、そう言えば」
『なんだ』
晶は恥ずかし気に訊ねた。
「一番近いお手洗いってどこですか?」
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早急な用では無かったものの場所の確認がてらお手洗いを済ませた晶は、サポートセンターの親切な男性の名前を訊き忘れた事に気が付いた。
名前を訊く為に店に戻るのも気が引けて、1年も居るのだから訊く機会はあるだろうと植物園の方へ足を向けた。
植物園に一歩入ると、晶は感嘆の声を上げた。
色とりどりの花や、青々とした木々。遠くからは小鳥の声が聴こえ、送風機があるのか、室内なのに緩やかな風を感じる。
鳥の影は見えない為恐らく小鳥の鳴き声もスピーカーだろうが、鳥の声と風があるだけで随分と癒される気がした。
高いドーム型の天井は全てガラス張りで、所々に美しい細工のステンドグラスがはめ込まれている。
ステンドグラスを通して落ちる光が歩道や草木を七色に染めている。
(なんて美しい植物園だろう…)
うっとりと見とれながら、晶は奥へと歩いていく。
しばらく歩いていると、開けた場所にたどり着いた。
どうやら植物園の中央に当たる場所らしい。
歩道が左右に円を描いて別れ、中央には立派な噴水がある。
歩道の周りにはよく手入れされた芝生が広がり、心地よい風が通って行った。
天井を見上げると、丁度噴水の真上に一際大きなステンドグラスが施されており、噴水の水のきらめきもあって虹のような光が散っている。
思わず「うわぁ…、」と声を漏らした晶は、上にばかり気を取られていてうっかり歩道の脇に設置された白いベンチに脛をぶつけてしまった。
「いたた…」
軽くとはいえ硬いベンチに脛をぶつけて痛くないはずがなく、晶は座り込んで今しがたぶつけた脛を撫でた。
そしてふと顔を上げて、叫びそうになって咄嗟に手で口を抑えた。
最初それを一瞬、作り物だと思った。
先程の猫のような精巧な。
だってそれがあまりにも、あまりにも美しかったから。
(生きてる…人?だよね?)
脛の痛みをすっかり忘れた晶は、改めてその″美しい人″を眺めた。
安っぽさの無い上品な作りのベンチに、白衣を纏った赤髪の男性が眠っている。
座った状態で腕を組んだ男性は、俯いているため覗き込まなければ顔が見えない。
たまたま脛をさするためにしゃがんだ晶には、その美しい顔が見えた。
彫刻のように整った顔を隠す癖のある髪は、燃えるような赤。
今は閉じられていて見えない瞳はどんな色だろう。その色を想像するだけでドキドキする。
けれどその目元には、どうあっても隠せないくっきりとした隈があった。
痛々しいほどのそれは、不思議と彼の美しさを損なわずにある種の色気さえ感じさせた。
(眠れていないのにそんなふうに思っちゃうのは申し訳ないけれど…)
そんな事を考えていると、急に自分の状況を客観的に理解してはっとする。
寝ているからといって知らない人の顔をじろじろ見てうっとりするなんてどこからどう見ても変質者だ。
心の中で謝罪して、慌てて晶は一旦立ち上がろうとした。
しかし急に立ち上がったからか、バランスを崩してベンチに倒れ込んでしまう。
さっきぶつけた脛どころか無事な方までベンチにぶつけてしまい、晶は声も無くうめいた。
なんとか体勢を立て直したは良いが、痛みで立ち上がれそうもないのでそのままベンチに座る。
そこでようやく、自分が眠っている人の横でバタバタ動き回った事に思い至って右隣で眠る人を見た。
(寝てる…)
男性はまだ眠っていた。
ベンチが少し動いてしまうくらいの衝撃はあったはずなのに。
(やっぱり眠れてないのかな)
気の毒に思っていると、にわかに男性の身体が晶とは反対の方へ傾いた。
「危ない…!」
小声で叫んで咄嗟に手を伸ばす。
男性の腕を掴んで寸での所で地面に激突する事は免れたものの、晶より体格の良い男性を座ったまま支えるのは難しく、引っ張った勢いで男性は晶の方へ倒れた。
そしてそのまま、なりゆきで見知らぬ男性に膝枕する事になってしまった。
(ど、どうしてこんな事に…。それに…、)
どうしてこの男性は、ここまでしても起きないのだろう。
流石におかしい。晶は恐る恐る男性の腕をとって脈を図った。。
(生きてる…)
脈が特別弱いわけでもなく、身体が冷たいわけでもない。
ただここまでしても起きないのは異常だ。
晶は試しに男性の身体をゆすって声をかけてみた。
「すみません。起きてください。…大丈夫ですか?」
しかし男性は眠ったままだ。
困惑した晶は、助けを求めようとルチルに貰った端末を探して視線を彷徨わせた。
ところが、端末を仕舞ったリュックは脛を打った時に地面に降ろしていて、ベンチから微妙に遠い。
男性を動かそうにも、重くて動かせそうにない。
(どうしよう…)
弱り切った晶が溜息を吐いた時だ。
それまで無反応だった男性がわずかに眉根を寄せた。
起きるかと思ったが、目を覚ます事の無いまま片手をわずかにうろつかせている。
(ほ、ほんとにどうしよう…)
端末は使えず、男性は苦しんでいるように見える。
起こそうとしても起きず、晶は動く事も出来ない。
仕方なく、晶はうろうろしている手を握った。
晶より大きなこの男性が、迷子の子供のように見えてしまったのだ。
男性の左手と晶の右手が重なって、気恥ずかしさに暴れ出しそうになるのを抑えた。
男性は握った手をぎゅっと掴み、胸のあたりまで持って行って落ち着いた。
空いている方の手で男性の前髪をかきわける。
いまだ眉根は寄ったままだ。
迷いに迷った末、晶は見知らぬ男性の頭を控えめに撫でながら、かつて母がそうしていたように子守唄を歌った。
すると、男性の眉間から険が抜けていき、ふっと詰めていた息が解放されて、健やかな寝息に変わった。
晶もほっと息を吐く。
日の落ちかけた植物園で美術品のように美しい見知らぬ男性に膝枕して頭を撫でながら子守唄を歌うなんて一体どうしたことだろう。
今朝の自分はこんな事想像もしていなかった。
けれど今自分の膝の上の子供のような寝顔を見ていると、きゅうっと胸の奥がくすぐられて甘やかな心地になる。
男性相手に、しかも今日会ったばかりで名前すら知らない人にこんな風に思ってしまうなんて。
自分は本当に変質者じゃないか。と焦りながらも、そっと目元の隈に触れて、少しでもこの隈が取れたら良いなと思った。
「晶さん!」
「えっ!は、はい!?」
はっとして顔を上げると、そこには困り顔のルチルが立っていた。
あれ?と思って辺りを見渡すと、ガラスの向こうに見える空はすっかり暗くなっていた。
「あ、あれ?俺いつの間に眠って…、」
「もう!全然連絡がつかないから心配したんですよ!」
そう言ったルチルに謝りつつ時間を訊ねると、ルチルと別れてから3時間近く経ってしまっていた。
あの男性の姿はどこにもない。
目が覚めて見知らぬ男に膝枕されていたかの人は一体どんな気持ちだったのだろう
考えるだけでも頭から血の気が引いていく。
「あ、だ、大丈夫ですか?あの、すみません。元々私がほったらかしにしてしまったのがいけなかったのに」
「ち、違うんです!ルチルは悪くありません!」
怒りすぎたかとしゅんとするルチルを見て慌てて立ち上がって弁明する。
ただ、ここで出逢った男性に膝枕したとかの部分は恥ずかしいので省略し、ベンチに座ったら気持ち良くて眠ってしまったとだけ伝えた。
その上でルチルに心配をかけた事を謝ると、ルチルも申し訳なさそうに頭を下げた。
「私ももっと早くに人を送るべきでした。お待たせしてすみませんでした」
「良いんです。気にしないでください。それより、トラブルの方は大丈夫でしたか?」
晶がそう訊ねると、ルチルは「問題は解決しました」と笑顔を浮かべた。
「途中で人を送ったのですが、エントランスには居なかったらしくて探してくれたんですけど、植物園の扉が閉まっていて探しに行かなかったみたいなんです」
「え?俺が入った時は開いてましたよ?」
「定期的に自動で植物園内の清掃や水やりを行うんですが、その間はエリア毎にあるゲートが閉じられてしまうんです」
「なるほど。でもここは清掃のエリアに入って無かったんですか?」
「ここはちょっと特殊なんです。違いが分かりにくいでしょうけれど、自動ではお世話出来ないちょっと手のかかる子達が居るエリアなので、人の手でお手入れされているんです」
「そうなんですね。すみません、俺、知らなくて」
「いいえ!私もちゃんとお伝えしていませんでしたから…!」
2人でぺこぺこ謝り合う。
「…もう謝るのはやめにしましょう。お互い少しずつ悪かったという事で」
「そうですね。初日からバタバタしてしまって申し訳ないですけど、これからお夕飯の時間なので、移動しましょう」
「お夕飯!そう言えばお腹がぺこぺこです」
「ここには食事が出来る場所がいくつか用意されているんですが、今日は主に研究員が利用する大食堂へご案内しますね」
そう言ってルチルは地面に置かれたままだった晶のリュックを拾い上げて晶に手渡した。
「大食堂で、私の弟と、弟のお友達が待っているんです」
「わぁ!楽しみです!」
「ご飯もとっても美味しいんですよ!」
わいわいと楽しくお喋りしながら、2人は植物園を後にした。
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自動で扉が開き、暗かった室内がぱっと明るくなる。
重厚なローテーブルに皮張りのソファ。
壁半分を占領する薄型のモニターは沈黙している。
昼間はそれなりに賑やかなこの部屋も今はがらんとしていて寂しい。
"彼"は静かに歩き出し、入って右手に並ぶ2つの扉のうち、奥側の扉の前に立った。
何もかもがハイテクなこの場所で、"彼ら"はいまだにこの木と金属で出来た年代物のドアを気に入って使っている。
遮音性の低い木の扉の向こうからは、プラスチックが擦れ合う軽い音と、"彼"には馴染みのない音楽や誰かの声が聞こえる。
ノックは2回。
扉の向こうから、少しくぐもった、馴染みのある声が聞こえて来る。
「フィガロか」
「はい。夕食をお持ちしましたよ」
「いつもすまんのう」
「お気になさらず。これも仕事なので」
「それはそれで味気ないのぅ…」
「どうして欲しいんですか」
笑いを含んで言った言葉に、相手はくつくつと愉快そうに笑いを返す。
フィガロと呼ばれた男はしゃがみ、扉の下方に取り付けられた小さな窓を開けてそこから盆を渡す。
元々は犬用の扉だったもので、「犬を飼う予定も無いのに無意味に付いてて可愛いじゃろ?」なんて言っていたものだったのに。
こんな使い方をするとはあの頃は思っていなかった。
「お加減は?」
「いつも通りじゃ。…そう、いつも通り」
「…ホワイト様も?」
「もちろん」
その言葉にフィガロは小さく溜息を吐く。
″いつも通り″という事は、今日も双子の片割れは気絶するように眠ってしまったらしい。
″彼ら″がこの状態になってから、もうずっとそうだ。
「今日のデザートはプリンなのに」
茶化すように言う。
扉の向こうの声は鷹揚に笑うと、「ならば明日の朝一緒に食べるとしよう」と言った。
「美味しい物を独り占めはできんからの」
優しく切ない声が静かに部屋の中に落ちる。
きっと今扉の向こうでは、片割れに寄り添い眠るホワイトの頭を撫でる″彼″の姿があるのだろう。
たっぷり間を置いて立ち上がったフィガロは、白々しい声で「ああ、そうだ。」と言った。
今日は他に報告がある。
「″例の彼″が到着しましたよ」
しん、とすべての音が無くなる。
しかし一瞬の後、扉の奥から噛みしめるような「まことか…」という言葉が漏れ聞こえてきた。
「ようやく来たのじゃな。″賢者″よ」
″賢者″。フィガロもその言葉を心の中で復唱する。
それは希望の名前だった。
長年この研究所で″大いなる厄災″の研究を続けていたフィガロの師らが名付けた、希望の名前。
「あるいは″王子様″とでも言うべきかな…」
皮肉気に言った言葉に、扉の向こうの声は笑う。
「さて、まだ詳しい事は判らぬ。喜ぶには早かろうが…」
″彼″の祈るような声が聴こえる。
「我らを…いや、この世界を…」
「どうか救っておくれ」
「″賢者″よ」
夜空に浮かぶ美しい月を見上げる青年は、いまだ己の役目を知らない。
【Großer Katastrophe】に対する完全な抗体を持つ可能性のある、ただ1人の人間。
彼は何も知らぬまま、明日からの日々に心を躍らせていた。
つづく