天国について「天国か」
ギンの声に、トーバは顔を上げた。
少し離れたところでサツバらと話している彼が、どんな文脈でそれを出したのかはわからない。平然とした顔つきで笑い、顎に手を当ててどこか遠くをみている友人は、会話の返答をどうしてやろうかと悩むふりをしているらしい。
だが、以前彼が「天国」という言葉を出した時は、その顔はもっと違ったように思えた。
「トーバっていい奴だよな」
記憶のなかのギンは、そういいながらこちらが渡した缶ジュースを受け取っていた。日差しが強くなってきた時期で、自販機から吐きだされたばかりの缶は、肌に当てたくなるほど冷たい。
「この快晴時に、財布も持たずぶらついてるお前のほうが信じられないだろうが」
「だからって目の前でなにもいわず自販機のボタンを押すお前のほうがよっぽどだと思うぞ」
「他人だったら見捨ててただろうな」
「おっ、うれしいこというじゃん」
額に缶を押し当てている彼に、トーバは小さく笑った。
どちらともなく商店街の壁にもたれかかると、視線は無意識に通行人らを追う。派手な活気もなければ、分かりやすい衰退も見られない。まだらに流行が流入している町はどこか中途半端に映る。それらに文句をつけたくなることは日常茶飯事だが、嫌うに至るまでには理由が足りない。
「まあ、なんだかんだお前は知らないやつでも奢ってると思うよ」
「いや。さすがにそこまではしねえよ。ソシャゲに金使いたいし」
「ソシャゲなのか……」
肩を落とす気配に、唇を緩める。額から缶を離し、ギンが薄く目を開いて空を見上げた。額には、缶からできた水が数粒落ちており、やわらかに揺れる彼の癖毛は、トーバの目にくすぐったく映る。
「実際、ギンみたいなののほうがいい奴っていうんだろうよ」
「はは」
「あの世があるなら、お前は天国に行けそうだし」
相手の良い所をそれとなく正直に伝えるギンのことを、トーバは気に入っていた。
「そうか? ありがとう」
はにかみの滲む声に、トーバも頭上を仰いだ。
「トーバはどう思う?」
「どう思うって?」
「天国について」
ケーブルの絡まった空は、窮屈そうに青さを主張している。
「さあな。だが、地獄に落とされるほど悪いことしてきた記憶はないし、天国行けるまで善行をした記憶もないな」
「さっきおれに奢った分で1ポイントはもらえてるさ」
「パンまつりかよ」
気安い応酬に互いに笑うと、トーバは「まあ、」と続けた。
「そもそも天国も地獄もあるのかは不明だけどな」
「どうだろうな」
ぬるい風が抜け、ふと商店街のそばに小川が流れていることをトーバは思いだす。冷たいはずの水の気配は日差しで温くなり、わずかに肌にまとわりつく。
ぽたり、という音に目を引かれれば、ギンの手元の缶から水滴が落ちている。
「はやくそれ、飲めよ」
「サンキュー、忘れてた」
思い出したように、彼の爪はプルタブに爪を立てた。
「にしても天国か」
声が小骨のような些細な力で心臓を刺激する。影の中で聞くには、少々彩度の高い声音だった。
「おれの宗派にはなさそうだ」
カシュッ。
プルタブの音がいやに耳に響いた。顔を上げれば、彼は冗談めかして笑っている。だがその顔に反して、ギンの額から頬へと伝っていく水滴に、一瞬流血を錯覚しそうになる。
暗がりから毒々しい真夏の日差しを浴びたときのような目の痛さを感じ、眉間にしわが寄る。いつもと変わらない顔が、罪人の告白のように空々しい。
「…………ものの例えにマジレスすんな」
やっと出た言葉は、偶然ポケットに入っていた五円玉のように安っぽい。
トーバは首をかくと、それ以上聞くのをやめた。
意識を浮上させれば、彼はやはりなんてことのない顔をしている。天国の話も、いつのまにかとっくに旬を過ぎて別のものに変わっていた。
彼の宗派に天国がないのなら、せめて今ここが彼にとって居心地のいいものであればいい。そう思った。
「ギン」
呼べば穏やかな緑の瞳がこちらを向く。だが、特に彼へ振る話題もなかった。目があったあとでそのことに気付き、トーバは一度考えてから尋ねる。
「暑くないか」
彼は呆れたように笑った。
「なんだそれ」
(2025.06.20.)