コイノボリ まさに五月晴れの陽気だったため、間もなくやってくる梅雨の前にこの陽気を謳歌しようと、同僚から屋上に誘われた。
ならばと、私は最近購入したばかりのとっておきの紅茶を淹れていくから先に席取りをお願いした。業務合間に嗜むお気に入りの紅茶が肩の力をいい具合に抜いてくれると知ったのはつい最近だ。再びシンカリオンを起動させたばかりの頃は、常に力が入りっぱなしだった気がする。ようやく息つぎできるようになった最近になってリラックス方法が見つかるとは何だか人生を損した気分だ。食わず嫌いへの説得によく使われる台詞だけども、そういう面も確かにあると思う。だから、私は余計なことかもと心配しつつも大石さんにお勧めしてみれば、彼女はいつもと変わらない笑顔でのって来てくれた。
「安孫子さんのお勧めなんて、絶対に美味しい!楽しみにしてるわね」
私の手には二つの紙コップ。握る表面から伝わってくる熱さ。外まで持って行くのは失敗だったかしら。でも移動している最中にもふんわりと鼻腔に辿り着く香に気持ちが和まされる。これを青空の下で気の合う同僚と嗜めたら、それだけで今日の残りの業務が捗る気がした。
出来るだけの早足で、でも中身は決してこぼさないよう慎重にして、ようやくたどり着いた大宮鉄道博物館の屋上では、植え込みのツツジが見ごろを迎えている。ここへ移転してから初めて咲くところを見たけれど、こんなに綺麗に咲くのかと感動した。定期的に通過する新幹線と在来線の走行音も心地よい。ここにいつも誰かしらが足を向けるのは分かる気がする。
一年の中で一番華やかな屋上の景色に、しばし見とれてしまう。
ふと下の町並みに目が移ると立派な鯉のぼりを飾っている家が何件か見えた。
ここは屋根よりも高いからどこの鯉のぼりも下になってしまうのね。
遠すぎて鯉ではなくメダカの稚魚程度になっているが懸命に家主の願いを受けて泳ぐ彼らを眺める。
自分とは関係ないと気にも留めなかった景色。でも今年は自分がいつも指導していた子どもたちの笑顔が次々と浮かんできた。彼らも今、懸命に世界の風を受けて泳いでいるだろう。私は少しでも彼らをはためかせれる存在になれているだろうか。
浮き出て来た感傷に少しだけ目を細めてから、待たせている同僚を探すために屋上の外ではなく内側に視線を走らせる。
大きくラッパのように開かれた花弁たちの向こう、のっぽな頭が見えた。
細川さん?
特徴的な髪型は見間違えるはずがない。
一人分の距離を開けて同じベンチに座っている大石さんと何やら談笑している。
隣の彼女を向いた横顔が上気してるのに気づいて、思わずしゃがんで植え込みに隠れてしまった。多少中身が跳ねたが気にしてられない。
私の自慢の同僚である大石さんは、私服はお洒落、趣味は読書。仕事も出来るし上司の扱い方もうまい。ノリがよくて穏やかな性格。こんなに同性から見ても可愛い人は早々に貰い手があると密かに踏んでいたが、これは…もしかして、ついにそういうことなのだろうか。
ドキドキしてる胸を、両手が塞がってるために押さえることは出来ない。
陽気とは関係なく上がる体温を自覚しながら、垣根を越えた向こうの会話に耳を澄ませる。
今ばかりは電車走るな、とここの職員にあるまじき念を飛ばした。
「本当に良い天気っすね」
「そうねぇ」
「ぽかぽかしてて、ちょっと暑いくらいっす。現場じゃ場所によっては冷房つけたりしてるんすよ」
「確かに作業してる方々は大変よね。夏とか本当に。今度塩飴を差し入れようかしら。…まだ早い?」
「大石さんの差し入れなら何でも嬉しいっす!」
「分かったわ。今度皆様に持ってくわね」
「……」
「……」
「……」
「……?」
「いやぁ、それにしても花綺麗ですねぇ!」
「そうねぇ」
「俺がガキの頃に蜜を吸ってました」
「あら」
「ツツジとか何か赤い花とか、うまいんすよ。ついついダチと競争して花壇の花を全部吸いつくして花びらだらけにしたことがあって。めちゃくちゃセンコーに怒られて、翌年から蜜を吸うなって注意書が花壇に…」
一生懸命なのは伝わってきた。でも突っ込ませて欲しい。
他に話題なかったの!?
これはアプローチされてることは伝わってないだろう。大石さんの笑顔はいつも通りで、時折彼が話題が無くて焦るのを不思議そうな顔で見返してるだけだ。
細川さん…。仕事ではとても頼りになるし勇ましいこともあるのに、作業場を離れた彼はどこか抜ける瞬間がある。そこが彼の人間らしい良いところの一つだと好ましく感じているけども、もうちょっと、こう計画的にいけないものだろうか…
恋愛よりアイドルを優先している自分に言われるなんて相当ですよ、と何となく手に汗を握る気持ちで耳を更に澄ましていれば、会話ではなくぶ~んと羽音を鼓膜が拾ってしまい飛び上がる。
「きゃっ」
青い運転士の彼ほどは虫が苦手ではないけども、突然目の前を通過したアブに反射的に悲鳴が出てしまった。
私の声に驚いた二人の視線とぶつかる。
しまった…
「我孫子さん、わざわざ取りに行っててくれてありがとう。それが美味しいって言ってた紅茶かしら」
「そ、そうです。…どうぞ」
ニコニコ寄ってきてくれた大石さんに紙コップを渡す。
少し冷めてしまっていた。
一口飲んで「わ、香りがとっても良いわね」と可愛らしい顔で感想を伝えてくれてるけども、それにおざなりな返事を返すしかできなかった。
細川さん…そんなあからさまにがっかりしなくても…
しかも同僚は肩を落としてる彼に気づいていない。
笑えない喜劇を目の当たりにしている気分だ。
ちょうどよく通過したE7系の走行音を聞き流しながら、私は自分用に用意していたカップの彼にも渡す。共通の話題を提供することで僅かな罪悪感を無かったことにしとこう。先ほどよりはましな会話になるはずだ。
先ほど見たメダカサイズの鯉のぼりが頭にうかぶ。小さな鯉が激流を登りきり龍となったように、彼の恋が急流を登りきることを願うばかりだった。