犬は犬でもーやはり、こんなこと断ればよかったのだ!
薄暗闇の中、畳の擦れた香りと、四肢の自由を奪う肉の熱く硬い感触を感じながら、長次郎は心の中で叫んでいた。
遡ること半日前のことである。
「…今なんと仰られた」
「ええ、ですから、元柳斎から貴方を借り受けました」
「お断り致す」
迅雷の如く若者の威勢の良い拒絶に、対面する男ーーー厳原金勒は墨染の袖の下で腕を組みやれやれと首を振る。
「まだ何も説明していないのに」
「兎にも角にも嫌でございます。お二人とも私を猫か犬と勘違いしておられるようだ」
「そう尖るな長次郎よ。お主を指名したのは厳原ではない」
長次郎は振り向いた。口を挟んだのは開け放たれた客間の縁側で茶を啜っていた山本元柳斎重國その人だ。生涯尽くすと心に誓う主人の言葉に、どういうことでしょうか、と説明を促す他なかった。
山本の言に拠れば、流魂街の何某という大商人が、近頃夜盗に悩まされているという。その大商人には年頃の一人娘がいることもあり気が気ではない。討伐隊を組んで欲しいのだが、そこに最近噂に聞く雀部なる若武者をぜひ入れて欲しい、報酬は弾ませてもらう……とのことである。
名が世に知れることは悪いことではない。名指しで頼られるということはそれだけ山本と尸魂界の守護たる護廷十三隊の評判も広く知られている、ということなのだ。
指揮を執るのも面識のある厳原を頼ってきたという経緯を聞かされれば致し方ないが、どうにも納得はできず憮然とした面持ちの長次郎に、厳原が思いついたようにスルリと右の人差し指を立てて提案した。
「では、そこの主人との顔合わせが済んだら帰ってよろしい、ということにしましょう」
「待ってください、それこそ本末転倒ではないですか。私はそんなことしたくはありません」
「では護衛まで全うしてくれますね」
「……………」
謀られた、と思った時には既に遅い。は、と厳原をみると、薄い琥珀色のレンズ越しに眼を細めているのが見えた。追い討ちに長次郎、と背後から諭され、漸く、嫌々ながらではあるが、雀部長次郎はこれを拝任した。
考え直すのだ、これで何か得るものがあればいいだろう、と。
このように広ければ、盗まれぬのも盗まれよう、というのが何某家の居宅に対する長次郎の感想だった。
三番隊のような統率の執れた隊でなければ前線がどこかわからないまま戦いが終わってしまう可能性さえ否めない。とにかく途方のない広さで数人の家族と十数人の召し抱えの奉公人が暮らしているというので、長次郎は金とはいろいろな使い道があるものだと、通された長い長い廊下を厳原の後ろで感心しながら眺めていた。
大広間というにも広すぎる客間で、何某家の当主は人の良さそうな恰幅のある男で、文字通り脂乗りのいい頬と顎をゆらしながら厳原と長次郎を手厚くもてなした。長次郎は出されたお茶を啜ったが、今まで飲んだこともない濃く甘い味をしていた。
旦那は厳原への日頃の感謝と護廷十三隊の活躍を絶賛し終えるやいなや、矢継ぎ早に話を長次郎へと切り替えた。やれ例の誰を討ち取っただの、それ何処ぞの虚を倒したのだと誉めそやし、全て事実であるのに当の本人はなぜか誇らしいどころか妙に肩身が狭くなり、居心地の悪さを覚えたところで漸く厳原が嗜めた。
「旦那、あまり若いものを揶揄わんでください。これは褒められることにあまり慣れていないのです」
「おお、そうなのですかな?いやあ、私が君の主人であるなら褒めても褒め足りぬくらいのものですがなぁ」
山本元柳斎を知らぬ貴公に言われる筋合いはない!
片膝を立て身を乗り出した長次郎を、霊圧を察して厳原は片手で制した。少しだけ振り返った面長な顔の、切れ長の目がメガネ越しに荒立つなと言ってくる。長次郎は仕方なく居住まいを正すことでそれを誤魔化した。
そのやりとりに気づきもしない当主は相変わらずふくふくと笑いながら厳原に言葉を投げかける。
「では、今晩は雀部殿が我が娘を護衛してくださるのですな?」
「初耳です」
「私は貴方に護衛を全うしてください、と言ったはずですよ」
討伐隊の待機場へと向かいすがら、明らかにふくれている長次郎に、厳原は事もなげに返した。言われてみれば確かにそうなのだが、売れた名で呼びだされたのにも関わらず前線にも出ない任を与えられるのは矛盾を感じてならなかった。しかし、麾下でもない異分子が前線にいたところで邪魔になりかねない、という懸念は長次郎も理解しているし、相手は虚や滅却師ではなく人間の夜盗団だ。人間には対人間の戦法があり、始解を使うのさえなるべく控えたいところではあった。
「長次郎」
そう思考する肩を、軽く叩かれた。
「はい」
「うまくやりなさい」
それは、と意味を聞き正す前に、厳原の白い羽織は隊士達が行き交う黒装束の喧騒の中に消えていく。
無意識に主の分厚く暖かいそれと比べた薄い掌は、肩に妙に冷たい感触を残した。
子の刻になって、漸く敵に動きがあったようだった。
北の方角が松明の火で白んでいる。剣戟の声が微かに聞こえてくるが、長次郎のいる離れの庭からはかなり遠い場所であるようだ。
…なぜ呼ばれたかわからなくなって来たな。
長次郎は適当な庭岩に腰掛け、自身の斬魄刀を抱えながら独りごちた。
その時である。
ーーーガチャン
何かが割れる音がした。振り返ると、音の源は離れの一室、障子から仄暗い灯りが漏れている唯一の部屋だった。
娘に、何かあったか。
長次郎は草鞋のまま外廊下に上がり、襖の外から中に向かってもし、と声をかけた。
「………………」
嫌な沈黙だった。耳には相変わらず遠くから爭いの音が聞こえてくるだけだ。この部屋にはこの廊下の襖からしか入れないはずである。霊圧どころか生物の気配さえなく敵が侵入することなどあり得るだろうか?血流に氷水を流されたような悪寒を抑えつつ、長次郎は左手で斬魄刀の柄に手を掛けながら、右手で戸触れた。
「御免」
断りをいれ開いた。
予想以上に暗い部屋だった。襖の側に行灯があり、奥は暗くよく見えなかったが、目を凝らすと人1人がうずくまっているように見えた。
長次郎は急いで駆け寄った。女が長い髪を畳に散らして倒れている。
「大丈夫ですか!」
細い肩を抱き起こすと、黒い髪から覗いた瞳と目が合う。暗いために表情や負傷の有無はわからないが、瞬きは確かにしている。
ーーーよかった。意識はあるのか。
長次郎は一瞬だけ安堵の息を吐いた。何があったのか聞く前に、明るいところに連れて行った方がいい。そう判断し両腕で娘を担ぎ上げると、腕の中で声がした。
「ーーー貴方が、雀部様ですか、」
気が逸って気が付かないが、それは場違いなほど淡々とした口調だった。
長次郎としては今はそんなことはどうでもいいだろう、とも思ったが、誰に担がれてるのか不安なのかと思い直しそうだ、と答える。
ーーー瞬間、首筋にヒヤリとした何かが当たった。
視界が一回転する。
目の前に地面が降っていた。時間差で右頬と膝に強かな衝撃。そして首筋の鋭い痺れが全身に伝播していく感覚。
反射的に娘を庇って倒れていたようで、動けない長次郎をよそに、女は腕から抜け出して立っている。長次郎はなんとか首を上げようと力をこめるが、着物の裾と足袋までしか見えなかった。状況の理解が全く追いつかない。みずからの醜態に胃のあたりが燃えるように熱くなった。
「雀部長次郎忠息様」
淡々としていた口調は次第に熱を帯び、一つ一つの文字を味わうように呼ばれる。
「今日屋敷に来た時からずっとみておりました。白い髪に剽悍なかんばせ、逞しい身体…嗚呼、まるで芦毛のお馬のようなお方」
「一体、」
何をしたのか、という問いまでにはならず、娘はまあ、と嬉しそうに言葉を遮った。
「是を受けてお喋りが続けられる方は初めてですわ。お噂の通り、強いお方なのですね」
一瞬は意識こそ飛び掛けたが、次第に身体の感覚が戻りつつあることを感じた。腕を畳につこうとした時、娘の足が五歩分ほど遠のいていることに気づく。
「わたくし、強い殿方がとてもとても好きなのです」
独り言のように娘は言葉を落としていく。
「特に貴方様のようなお方がーーー」
…もう一撃が来ないのであれば。
気取られない様畳と身体の境に腕を差し入れ、そこにある死神の確かな矜持の形を掴む。
やはりこのような事、引き受けるべきではなかった。
雲もなく星の明るい夜にも関わらず、西の方角から鋭い雷鳴が響いた事で山本元柳斎は妙な胸騒ぎを覚えていた。
日付が変わる時刻ともなれば、有事でなければとっくに寝ている時間ではあった。しかし、大人しく他の隊に借り受けられ、律儀にも事の顛末を報告に来るであろう長次郎の為に山本は自宅へ帰らず庶務をこなしつつ時を過ごしていたところであった。
結局、三番隊が帰隊したのは丑の刻を過ぎてからである。
そして山本の予想通り一番最初に総隊長室に現れたのは、やはり長次郎であった。
しかしである。
「…どうした長次郎。その、様は」
山本の視線の先を追うように、長次郎は無言のまま大きく破れた自身の右袖を俯くように見つめた。目印になっている白い肩掛けを脇に抱え、前あわせは大きくはだけ胸の下まで見えてしまっているのは、戦闘後というより追い剥ぎにあったような状態に近かった。
何より、山本は長次郎が其れ等を正さずに自分の前に立っていることに驚いていた。自身の右腕と豪語する男であるから、常に身なりも所作も作法に則って行動し、あまつさえ戦闘での怪我や衣服の乱れなども、修行の至らぬ所為として非礼を詫びることさえある。そうあらねばならぬという堅固な意志がそうさせている様だった。
それゆえに何事かと問いたにも関わらず、長次郎は答えなかった。
「申したくありません」
一呼吸を置き、ひざまづく。山本は何故だか分からないが、俯く表情に常とは違う悲壮感を感じた。
「此の様な夜分に、此の様な乱れた格好での参上をお許し下さい。つきましては、一つだけ確かめたいことがありますれば」
「…申してみよ」
「元柳斎殿は、あの何某の娘のことを承知でいて、私を厳原殿に預けたのですか?」
「何のことだ?」
山本がそう答えると、長次郎は面をあげて山本を見た。
見開いた月白の瞳には、困惑と怒りと悲しみとが入り混じった光があった。それでいて山本を責める気配は微塵もない。次第に諦念の色が深まり、そのまま目を閉じ、わかりました。と、跪いたまま深々と礼をした。
山本としては何も分からない。
「待て長次郎」
「そのお答えだけで十分でございます。」
「待てと言っている!」
1人で納得するな!と立ち上がる背に声を掛けたが、大股でさっさと執務室から出て行ってしまった。ちょうど入ってきた厳原とすれ違い、入ってくる方は出ていく方を横目に追ったが、それにも構わない様子であるようだった。
山本はまじまじと厳原を見たが、長次郎の様な乱れはなく、むしろ戦闘の痕跡さえ見受けられない。散歩から帰ってきました、と言われても疑問には思わないだろう。
長次郎が出て行った後も暫く入り口を見つめていた厳原は、これ見よがしに山本に向かってため息をついた。
「伝聞に違わぬ実力でしたよ、彼は」
「あれに何があった?」
「聞かれたくないのでは?」
「金勒」
名前で咎められ、厳原は一瞬だけ目を見開いたが、眼鏡を中指で掛け直す仕草でそれを隠した。
「少々情報に誤りがあった様です」
「…娘についてか?」
「ええ、事前に報告した際にはかなりの色好みと」
「それがどうした?女子に襲われてああなったとでも?」
「そうなりますね」
「馬鹿な」
そう鼻で笑う山本に、厳原は鎖に繋がれた、メンコ状の金属器を袂から出して見せた。
「実際は、並外れた好色家だった様です」
「それは、」
対虚用の護身具。本来は虚に遭遇したときに投げつけて収縮した雷の一撃を喰らわせ隙を生ませるというもので、何某家が秘伝の術を用いて仕込み上流階級に売り捌いている商品である。使い捨てといえど人間に使えば失神程度では済まされない代物でもあり、護廷十三隊としてはどうにか製造を中止せんと何某に接近させているのは厳原その人である。
「どうやら威力を最小限まで弱めてある様です。うちの隊で試してみましたが熊の様な大男が一撃で気絶しました」
雀部長次郎が電撃系統の斬魄刀の持ち主であったのは幸運と言うべきだろう、と厳原は続けた。
「本人に問いただしたところ、“健全な青年が筋骨隆々の男達に犯されているのを見るのが好き”とのことで」
「……………」
「なんとかそれらも峰打ちと白打を加減してのした様ですが」
「もう良い。分かった」
山本は頭痛を覚え、眉間を押さえた。
「…長次郎には悪いことをしたな」
独り言の様に呟くと、厳原は静かに笑い出した。化かす狐の様だと、昔から山本はその笑い声が好きではなかった。
「異なことを。あれほど貴方に心酔しているのです。最大限利用してやるべきでしょう。顔も、身体も」
「お主が思っているほどあれは儂に懐いとらんよ」
「そんなこと思ってもいない癖に」
そう哄笑され、山本は言い返そうと口を開けたが、結局閉口した。何がそんなに滑稽なのか、厳原はひとしきり笑い終えると報告を纏め昼頃に改めることを山本に伝えた。
「きっと、昔の貴方ならこの様なこと意にも返さなかったでしょうね」
厳原は最後にそう言って一番隊隊舎を後にしていった。
「昔か」
一人残された山本はそう言って、過去の行いの記憶に浸り掛けた。しかし、栓にもないことに気づきすぐにそれをやめた。
今日の早朝すぐに出仕してくるであろう若者にどう声を掛けてやろうかと、それだけを考えることにした。
夜は未だ明けない。
…その後の何某家は、主な取引商品を禁止されて没落しかけるが、一人娘が「自分が好きなのは男同士の熱いぶつかり合い」であることに気づき、大規模な相撲興行を主宰し女頭目として一代で財を成すのであるが、それはまた別の話であり、その数百年後、相撲好きな護廷十三隊総隊長に連れられて来た初めて気づきを与えてくれたその右腕と再会することになるのも、またまた別の話である。