四畳半の温度 外はまだ白んだばかりで、四畳半の空気は張りつめるように冷たかった。壁に指先を掛け、上体を浮かせたいつもの姿勢で眠っていた俺は、かすかな水音と菜箸の小気味良い音で目を開けた。
布団という温もり、この身体には不要の代物だ。寒気は容赦なく肌を刺すが、シベリアの冬を鉄格子の中で越えた身には、むしろ心地さえ覚える。
壁から静かに降りると、狭い台所に立つガイアの背中が見えた。鍋の中で湯がこぽこぽと音を立て、すっかり馴染んだ味噌と出汁の香りが鼻をくすぐる。
黒に覆われた背筋は真っ直ぐに伸ばされ、無駄のない所作が静かに続いている。目を逸らそうとしたが、なぜか視線がそこに留まった。
「起きたか」
振り返らずに放たれた声は、いつも通り淡々としている。
無愛想でもなく、かといって親しげでもない。淡々と、ただそこに存在している声。だが、その響きがやけに胸に残る。自分でも理由がわからない温もりが、胸の奥でじわりと滲んだ。
俺は無言で、廊下とも呼べない狭い通路を二歩で渡り、蛇口から水を汲んで一息に飲み干す。ふと視線を戻すと、湯気の中に浮かぶガイアの表情が、やけに柔らかく見えた。
気のせいだ、と心の中で吐き捨てるように言いながら、そのままちゃぶ台に腰を下ろす。程なくして置かれた味噌汁の湯気に、胸の奥で燻っていた感情は溶け、霞のように消えていった。
食後、おもむろにガイアがネットに洗濯物を詰め、二人で外へ出た。とうに壊れた洗濯機は修理される気配も無く、コインランドリーまで歩くのが日課となっている。
冷たい風が頬を刺すが、肩をすくめるほどではない。祖国のそれに比べれば、生温いものだ。
乾燥機が回る間、ガイアはベンチに腰をかけ文庫本を開き、俺は窓際に立って通りを眺める。
やがて、乾燥が終わった洗濯物から上着を一枚取り出したガイアが、手際よく畳んでこちらへ放って寄こした。柔らかい布の温もりが手に伝わり、胸の奥がわずかに跳ねる。
「……ふん」
鼻を鳴らして、上着をネットにしまう。何故、こんな些細なことで心が揺れたのか。理由はわからない。
その後、帰りがけに寄ったスーパーで少しだけ食材を買い、冷蔵庫の残り物と合わせて昼食に炒飯を作った。
包丁を握れば、手元は無駄なく動く。ガイアが火加減を見て鍋をあおり、俺が調味料を加減して振る。互いに言葉を交わさずとも、艶々と輝く米粒が皿に盛られる頃には、きちんと味が整っていた。
「悪くない」
ガイアがわずかに間を置いて、吐息のように零した。
その声音は静かに沈み、胸の奥をかすかに撫でる様に、不思議な余韻を残す。
「ふん、当然だ」
鼻で笑いながらも、胸の奥に灯った小さな喜びが表情に滲まぬよう、奥歯でそっと噛み殺した。
食後はそれぞれの時間になる。ちゃぶ台の上には色違いのマグカップと本が二冊。紙をめくる音と、外を走る車の低い唸りが重なる。
俺は本に目を落としつつ、時折、向かいのガイアを盗み見る。浅く眉間に寄った皺、紙をめくる指先。戦闘での鋭さとは違う、穏やかな動き。
眺めているうちに、胸の奥にまた何か温かいものが滲んでいく。視線を戻そうとしても、勝手にまたそちらへ引き寄せられる。名の付けられない感情を抱えながら、この静けさを壊したくないと思った自分への舌打ちを飲み込んだ。
ページを閉じたところで、ガイアがぽつりと「風呂、行くか」と言った。
外はもう薄闇が落ちていて、白い息が街灯の下でほどける。銭湯までの道はほとんど会話もなく、アスファルトを踏む足音と、たまに自転車がすれ違う音だけが続く。
暖簾をくぐると、湿った湯気と石鹸の匂いが肌にまとわりついた。手早く身体を洗い、頭から湯をかぶる。湯船に浸かると、熱がじんわりと足の先から這い上がり、読書で凝った肩がほどけていくのがわかる。湯面を割る音と、桶が床に落ちる小さな音が時折響く。
横に座ったガイアの頬や肩が、湯の熱でゆるく赤く染まっていた。伏し目がちに湯をすくう指が、水面に小さな波をつくる。その波が俺の膝先に触れて、ゆるりと熱を残して消えた。
視線を逸らせばいいものを、湯気の向こうの横顔にまたしても目が留まる。濡れた頬を伝い落ちた一滴が、鎖骨を伝って沈むのを追ってしまう。
互いに何も言わないまま、ただ湯の温もりと湿った空気だけが、二人の間を満たしていた。
湯から上がり、髪を手ぬぐいで拭きながら外に出ると、冷たい夜気が肌を撫でる。帰り道は行きよりも少し早足で、アパートの灯りが見えるころには、鼻先も指先も冷えていた。
身体を温めるべく、夕飯は鍋を作ることになった。ガイアが再び台所に立ち野菜を切っている間に、俺は押し入れの中から鍋用の土鍋とガスコンロを取り出す。すっかり何処に何があるかを覚えてしまっていた。
包丁の音が一定の間隔でまな板に軽く響く。切り口から立ちのぼる青菜の匂いが、狭い部屋にじわじわと広がっていく。
コンロの上に完成された鍋を据え、火を点ける。ふつふつと小さな泡が立ち始め、やがて白い湯気が立ち上った。沸き立つ湯気の向こうから「食え」と差し出された器を受け取る。
指先がかすかに触れた瞬間、湯気よりも熱いものが皮膚を走った。頬に広がる熱が鍋のせいなのか、それ以外なのか、自分でも判別がつかない。
鍋をつつき合い、腹が落ち着いたころには、外の空はすっかり群青に沈んでいた。
湯気も匂いも薄れ、さっきまでの熱が、静かに畳へ沈んでいく。俺は皿や鍋を洗い、ガイアは背後でちゃぶ台を布巾で拭いていた。
水音と布の擦れる音だけが四畳半に静かに溶け、言葉のない時間が妙に長く感じられた。
外は相変わらず風が細く唸っている。蛍光灯の灯りが落ち、ガイアが布団に潜り込むと、部屋はすうと静寂に包まれた。
俺は壁に指先を掛け、上体を浮かせて目を閉じる。やはり、この姿勢が一番落ち着く。
だが今夜は、目を閉じてもなかなか眠れなかった。朝の背中、乾いた服の温もり、火加減を見る横顔、紙をめくる指先、湯気の向こうの声。それらが瞼の裏で鮮明に蘇るたび、胸がざわつく。
戦いの興奮でも、敗北の悔しさでもない。もっと静かで、しかし確かに絡みついて離れない感覚。
「……なんなんだ、これは」
呟いた声は息に溶け、指先にだけ力が籠もった。冷たい壁の感触だけが確かなものとして残り、冬の夜はゆっくりと更けていった。