泡と溜息「……は、風呂…ですか?」
徳川邸に呼ばれたガイアは、御老公の前で肩をすくめていた。
「うむ。武蔵がここへ来てからというもの、かれこれ幾日も湯へ入ってくれんのじゃ。どうにも、あの匂いがなぁ……」
眉をひそめた御老公は、皺の多い額に更なる線を刻み、細やかな技巧が凝らされた扇で鼻先を仰いでみせた。
「それで……なぜ、私が?」
「面白い童児を拾った、とお主を連れ帰って来た時は驚いたが……まぁ、気に入られたお主が背でも流してやるとなれば、気を良くして入るかもしれん」
ガイアは思わず絶句する。武蔵を説得して風呂に入れろ――それは並大抵の任務よりも難題ではないだろうか。
「……で、ですが……」
「なぁ、ガイアよ。ここは一つ、頼まれてくれんか。武蔵とて、先には本部との大一番を控えておる。清めておいた方がいいじゃろ。ほれ、おぬしの先生も、きっとそう言うに違いない」
その一言で、ガイアの胸はぎくりと震えた。本部先生の名まで出されては、断るに断れない。
(宮本武蔵は風呂嫌いという噺は本当だったのか。しかし、よりによって何故私が…)
心中で呻きながらも、苦渋を飲んで深々と頭を下げた。
「……承知しました。お引き受けいたします」
———
徳川邸の風呂場は、その外観に違わぬ見事な檜造りだった。黒々とした石が敷き詰められた浴室内には、湯気が立ち込め、湿り気を帯びた木の香りが鼻腔をくすぐる。
浴槽の広さは小さな池ほどもあり、湯面には白い湯気がもうもうと漂っている。
腰に手拭をかけたガイアは、浴場の入口で深呼吸した。
(さて、どう説得するか)
その時、背後から低い声が落ちた。
「童児、何をしておる?」
振り返れば、乱れた作務衣姿の武蔵が立っていた。無精髭に乱れた髪、確かに“風呂嫌い”の噂に違わぬ姿である。
「む、武蔵さん……」
「ふん、徳川のやつが何か言ったか。湯など入らずとも、我が身は鍛えられている」
予想通りの言葉。
だが、御老公からの命を背負っている以上、ここで退くことはできない。ガイアは思わず背筋を伸ばし、きっぱりと言った。
「入ってください。戦を前に、不浄を払うのは武士の嗜みでは?」
そう告げる声には必死の説得の響きがあった。
本来ならば、自分が言うべき言葉ではない。だが御老公に頼まれた以上、退くわけにもいかない。
「ふん…水浴びなど、敵を斬れば血で濡れるもの。今さら湯に浸かって何になる」
武蔵の頑なな声にも、ガイアは眉を寄せ、食い下がる。
「だからこそ、です!血と汗に塗れたままでは、いずれ穢れが身を蝕みます!!」
その一言に、武蔵の眉がぴくりと動いた。
「童児よ、ずいぶんと口が回るな」
「……っ、言わせないでください」
視線を逸らしながらも、背を向けて桶を手に取る。自分は衣を着たまま、せめて背だけ流してやろうと、ぐいと袖を捲りながら浴室へと足を踏み入れた。
「こちらに、座ってください」
腰紐を解く背中へ、小さな椅子を勧める。
肌を露わにした逞しい巨体がどっかりと腰を下ろした瞬間、椅子がきしりと鳴った。
木桶を手に湯を汲めば、桶底が湯縁に当たり、こつんと乾いた音を立てる。
そのまま巨躯の背へ湯を静かに掛ければ、戦いに刻まれた古い傷跡がいくつも浮かび上がる。白い蒸気の中で、その逞しい肉の隆起がいっそう際立ち、思わず息を呑む。
掌に布を握り、適度に石鹸で作った泡を大きな背に広げていく。濡れた布越しに伝わる筋肉の硬さや、幾重にも走る古傷の深さ。そのどれもがただの「戦いの痕跡」ではなく、数えきれない死地をくぐり抜けてきた証そのものだと知れて、胸の奥に妙な重みが落ちていく。
畏敬か、それとも恐怖か。自分でも言葉にできない感情が、指先にまとわりついて離れない。
「どうした。手が止まっておるぞ」
振り返りもせず、武蔵は湯気の向こうでぼそりと呟いた。その声音には咎めもなく、ただ当たり前のことを言っただけのような響きがあった。
程なくして背を流し終えたガイアは、息をつきながら立ち上がり、自由に毛先を跳ねさせている髪に視線を移した。
「お背中流せましたよ。髪はご自分でどうぞ」
だが武蔵は、桶で湯を汲み上げ、ざばりと頭にかけただけで手を止めた。
「これでいいだろう」
ガイアは額に手を当て、短く呻く。
(獣か何かなのか、この人は)
小さくため息をつき、渋々置かれていたシャンプーを手に取った。
「……仕方ありませんね。これを使うんです。もう、動かないでください」
掌で泡立てた香り高い白い泡が、濡れた黒髪に広がる。指先で頭皮を掻くように揉み込みながら洗ってやると、指に絡みつく髪は、湯に濡れてなおしなやかで、まるで毛皮を撫でているかのようだった。泡立つ白と黒が交わり、頭皮を揉むたびに喉奥からわずかな唸りが漏れ聞こえた。
「ふむ。童児、妙に心得があるな。念者に仕えたことでもあるのか?」
からかいを含んだ声色に、かっと頬に熱がのぼる。自分の仕草が妙に従順に見えたのだと気づき、悔しさに胸が詰まる。
「っ心得なんて、ありません!」
否定の声は思った以上に大きく湯殿に響き、我ながら幼子の癇癪のように聞こえてしまう。
武蔵はそれを面白がるように、肩を震わせて小さく笑った。
笑いの余韻を流す様に、シャワーから出した湯を頭からかける。すっかり全身を流された武蔵は、巨躯の割に濡らされた猫のような姿でこちらを見上げてくる。その表情に、思わず笑いそうになったが、次の瞬間には再び険を取り戻した。
しかし、大きな濡れ猫はそのまま湯船の縁に腰掛け、頑として中に入ろうとしない。
「湯に浸かるほどのことではあるまい」
「いいえ!ここまで来て湯船に入らないなんて…」
「ならば童児、お前も入れ。それなら俺も浸かってやろう」
「なっ……!」
抗議の声を上げる間もなく、大きな掌に掬われた湯が、ぱしゃりと頭上から降り注いだ。肩先から胸元にまで滴が走り、服が重々しく肌に張り付く。
恨めしく見上げれば、武蔵は湯気の向こうで、愉快げに口端を吊り上げて笑っていた。
からかわれているのか、それともただ思いつきで遊ばれているのか。どちらにしても、身勝手な態度で当然のように振る舞う様に、胸の内では「何しているんだこの人は……」と困惑ばかりが募る。なぜ自分がこんな場に付き合わされているのか、本気で理解できない。
———
濡れた衣服を手早く脱いで、浴室に戻れば、再び檜の香りが鼻を打った。
掛け湯をして足先を湯に沈めると、ぴりりとした熱が足首から駆け上がり、思わず息をのむ。肩まで浸かった瞬間、緊張していた全身の筋肉が少しほぐれた。
その時、武蔵の視線が湯気の奥から真っ直ぐに注がれた。
「……肌の色も、筋も。俺とは随分と違うな」
「じろじろ見ないでください!」
思わず声を荒げたが、武蔵はまるで悪びれた様子もなく、湯の中で腕を組んだままじっとこちらを観察している。
湯気の奥の瞳は、獲物を見定めるように深く、揺るがない。
気まずさに視線を逸らそうとしたが、湯気の向こうに浮かぶ大きな影から目が離せなかった。
胸の奥にざらついた緊張が居座り、吐息さえ思うように整わない。
その刹那、湯面が大きく揺れた。ふぅと息を吐いた武蔵が、湯船の縁に手を掛けた。
「悪くはなかった」
その一言と共に、ざばと身体が立ち上がる。
湯を割って現れた肩幅の広さと、数多の古傷。滴り落ちる湯が筋肉の溝を伝って床へ落ちる様は、戦場で血に濡れた姿を思わせ、思わず背筋に冷たい震えが走った。
檜の香りと湯気の中で、その存在感だけが異様に鮮明だ。そして、全身を包む湯気を押し分けるようにして歩を進め、武蔵は湯から上がっていった。
濡れた髪を手で払う仕草ひとつも粗野で、だがどこか威厳を帯びている。
湯の表面には大きな波が残り、いまだ揺らめきながら大剣豪の残り香を映していた。
———
呆然としたまま一人残されたガイアは、ようやく肺の奥に詰め込んでいた息を吐き出した。
強張っていた肩がわずかに下がり、膝の力が抜ける。極度の緊張から解放された安堵に包まれながら、今度は自分のために静かに湯に身を沈めていった。
やがて湯を上がり、衣を整え、御老公のもとへ戻った。そして深くため息を吐きながら、肩を落として報告する。
「……なんとか、任務を遂行しました」
よくやった!と喜ぶ御老公の笑顔に、ガイアはかすかに頷くだけだった。
その顔には、風呂でも洗い落とせなかった疲労の色があり在りと滲んでいた。