入れ筆はT「君って公文書に姓を書かないんだな」
書類の端に綺麗な筆致で書かれたサインを見ながら、ライオスはまるで今気がついたかのように呟いた。
いや、興味のないことにはとんと注意を払わないこの男のことだ。実際今まさに気がついたのかもしれない。
地方によっての例外はあるものの、大抵のトールマンは親から受け継いだ姓を名乗るものだ。例えばライオス・トーデン。トーデン家は爵位こそなくとも、代々北方の小さな村で村長を務めてきた格式ある姓である。
執務室の机を前に、ライオスがしげしげと見つめている書類の署名欄にはただ「カブルー」とだけ書かれていた。
「ミルシリルの養子ということでトール家を名乗ることは一応許されているんですが、どうもしっくりこなくて」
カブルーは自分の机に置かれたもう一枚の書類に同じサインを綴った。笑みを描く唇を隠すように片手が無意識に口元を覆う。
今まで見過ごしていたサインの内容にまでライオスが気づいたのは、ひとえにそのサインの主が興味の対象に入れたからなのだろう。
一年ほど前の夜、ライオスの寝室で彼への好意と情欲を伝え口づけて以来、友人よりももう少し身体的に近い位置へカブルーは入り込んでいた。
新しく興した国をどうにか舵取りしていこうと必死に働くこの目まぐるしい日々の中で、高まった仲間意識が二人を近づけたのだとカブルーは思っている。少なくとも、ライオスの方はそのはずだ。迷宮で出会うよりもずっと前からカブルーはライオスを追いかけていたが、ライオスの記憶には欠片も残らないほど無関心だったのだから。
未婚の王が愛人を持つのは珍しいことではないし、ヤアドも気づいてはいるのだろうが国政に影響がない限り目を瞑る気でいるようだ。
この関係がいつまで続くのかは分からない。いずれは国益に適う伴侶を迎えるまでのひと時に、時折互いの寝室を訪れては昂ぶりを慰め合う、若い肉体の熱をぶつけ合うような戯れ。それで構わなかった。
夜の関係がいつか終わっても、誰よりも近くで彼を支えるこの位置に立っていられるならそれでいい。
カブルーはサインの端にペンを留めて考えた。
普段は忘れていた家名も、使いようによっては役に立てられるだろうか。
「王の側近としては、姓はあった方が箔がつくかもしれないですね。トール家の名はある程度有用ではありますし書き足しておきましょうか」
エルフの社会では、特に西方貴族の社会では家名とは後ろ盾を意味する。
長命なエルフの養母が育てた子供たちの中には誇らしげにトール家の誰それと西方風に名乗る者もいた。家名をもらったところでエルフになれるわけではないのに、とカブルーは冷めた口ぶりで仲間達に話したことがある。ホルムにはちょっとひねくれすぎじゃない?と言われたが、今でもその家名は自分の一部というより歪にくっついた突起のような気がしている。
「君はその名を名乗りたくないんだろう?なら書かなくていいよ」
ライオスらしい言い草に、カブルーはにっこりと笑ってみせた。
我が王よ、あなたのためなら持ち腐れの家名くらいいくらでも名乗るのに。エルフの貴族の名など、なんでもないことのようにあなたは投げ棄てる。
「この国はオークやコボルトみたいに姓のない文化の人も多いから気にしなくていいんじゃないか。なんなら新しい姓を名乗ったっていい。ドラクルとかグリフィンはどうかな、強そうだろ!」
「絶対に嫌です」
笑みを消してきっぱり言い返せば、ライオスは「カッコいいのに……」と唇を尖らせた。感心した端からこれなのだから、まったく飽きがこない男だ。
ライオスは今度は二つ名を名乗ってはとあれこれ候補を挙げてくる。言いくるめのカブルー、ウィンク上手のカブルー、バロメッツ喰いのカブルー。全部却下だ。
「そうだ、ドワーフみたいに出身地を名乗るのは?君なら『ウタヤのカブルー』か」
「それは……」
書類に書き込んでいた手が止まる。
今は廃墟と化したあの街を名に負う?腹の底に冷たい塊が落ちた気がした。
カブルーが生まれたのはウタヤとは離れた別の街だ。親族には無い青い瞳の赤ん坊を産んだ母は、不貞を疑われ居場所を失ってウタヤへと流れ着いた。訳ありの母子を受け入れてくれたあの賑やかな街で、路地を駆け回っては近所の人々とお喋りするのが幼いカブルーは好きだったし、今でも故郷と呼べる地は他になかった。
それでも、自分があの街の名を背負うには何か資格がひどく欠けている気がするのだ。
自分が語れるウタヤの物語には悲劇しかない。ドワーフ達のように誇りを持ってウタヤの子と名乗れる血統も持ち合わせていない。
「カブルー」という名すら、本当の名ではないのに。
迷宮の崩壊から保護された後、生き残りの少年は怪我と精神的なショックで何日も寝込んだ。エルフの国で目覚め、聴取を受けながら記憶にまだらの穴が空いていることに気がついたのだ。母が毎日呼んでいた自分の名すらも、その穴に落ちて戻ってこなかった。「カブルー」はウタヤのあった西方大陸の一地方において一般的な男子の名だったというだけだ。
「……もう帰れる場所でもないですから」
あの街の悲劇を繰り返さぬためにできることはなんでもしようと思った。同情を誘う震える声で迷宮の脅威を語ってみせることも慣れっこだ。だが自分の名を名乗るたびこんな底冷えするような心持ちになることを思うと恐ろしかった。
カブルーは小さく息をつき、黒いインク垂れに舌打ちした。ああクソ、書き直しだ。じろりとライオスを睨みつける。
「そんなことより、手を止めないでください!あなたのサインがないと予算通せないんですよ」
ライオスが慌てて書類へ向き直ったのを確認し、カブルーも手元へ視線を戻した。
執務室に二つのペンの音だけが響く。来歴を持たぬ名が幾枚もの紙に記されていく。だからなんだと言うのだ。仕事はいくらでもあるし、余計な感傷など挟み込まなくても書類は用を為す。
数分経ったあたりで片方のペンの音が止まる。ライオスがもそもそと姿勢を変える気配がする。飽きるのが早いな、と書類から目を離さぬままカブルーは内心で嘆息した。そろそろお茶でも淹れて気分転換するべきか。
ペンの音が再開する代わりに、ライオスの思案げな声が聞こえた。
「……じゃあ、君、トーデンを名乗らないか」
まだそのことを考えていたのか。カブルーは思わず吹き出した。案が尽きたからって何を言い出すんだ。
「ええ?あっはは、ライオス、王の姓を拝領するほどの功績なんてそうそうーーー」
笑いながら顔を上げ、ライオスの目を見た瞬間にカブルーは凍りついた。
真剣な光を宿した琥珀の瞳。額から首筋までを真っ赤に染め、羽のついたペンを折れそうなほど握りしめてライオスはカブルーを見つめていた。
「……え」
カブルーはようやく大きな勘違いをしていたことに気がついた。
閨での関係などひと時のものだと、いつか終わりがくるのだと、お互いが理解していると思っていた。
まさか。まさかこの人は、本気で俺を。
「功績とかじゃなくても、あるだろう。俺の姓を名乗る方法」
あるだろう、じゃないんだよ。
喉がひりついて声が出ない。
まずいぞこれは。滅多には見ないライオス・トーデンの本気の顔だ。ちくしょうこいつ、普段からこの顔でいれば突飛な政策を大臣達に押し通すのももう少し楽なのに。
断るべきだ。ライオスがこうなら、せめてカブルーは賢明に判断をするべきだ。
だってあなたは王で、英雄で、正しく地位を勝ち取った人だ。俺には何もなくて。本当の名すらなくて。ただこの国の、あなたの未来を見ていたくて。
断らなくては。馬鹿なことを言うなと笑い飛ばさなくては。こんなこと、この国にはなんの得にもならないんですよ。わかるでしょう?断らなくては。断らなくては。
カブルーがあまりにぽかんと口を開けたままでいるので、さすがに不安になったらしくライオスの眉尻が下がる。
「あ、いや、トーデンじゃダサいと思うなら王配は別の姓にしようか?」
「おい弱気になるのそこかよ」
断りの言葉はいつまでも出てこなかった。