ハック中の事故で精神世界に取り残された✺と👏の話 目を開けたとき、俺は何もないところでヒトデのように伸びていた。まだぼんやりしている視界に最初に飛び込んできたのは俺の顔を覗き込む人間の顔だ。よく見えない表情越しに目を刺す逆光が嫌に眩しくて顔をしかめる。やがて一晩中飲み明かして迎えた朝に似た頭痛と吐き気に追いつかれ、情けない呻き声を漏らしてしまった。なんだって俺はこんなところで寝こけてたんだ?いやそもそもこんな舎弟(ヤツ)、ウチにいたっけか?
すぐ近くに座っていたそいつはそんな疑問もお構いなしといったふうに、平坦な優しい声で耳慣れない名前を呼んだ。
「……おや。気がついたみたいだね。気分はどうかな、ユーニッドくん」
「あ……⁉︎ おいてめェ、さっきはよくも……っ」
ユーニッド。白い、手袋。そうだ。電気ウナギに感電したみたいな衝撃が頭の中を駆け巡り、俺は咄嗟に体を起こした。もちろんこのスカした医者の顔面に一発くれてやるためだ。しかし同時に酷い目眩がして伸ばした手は空を切った。目の前の景色が歪んでいる。何重にもブレてぐらぐらと揺れている。たまらず頭を押さえて俯いて、ふらつく足をなんとか押しとどめた。こいつの目の前で尻餅をつくなんて冗談じゃねぇ。ぎゅっと目をつぶって肩で息をしていると、何かがそっと背中をさする感触がした。誰が、なんて考えるまでもない。それは本当に心配そうに俺のすぐそばへ寄って泣いているガキをあやすように囁いた。
「急に立ち上がるとよくない。ほら、一度座って。ゆっくり息を、」
「うるせェ、触んな!」
しまった、と思った時にはもう遅かった。思い切り振り払った腕が細っこい体にぶつかり、手袋野郎が大きくよろめく。たたらを踏んで後ずさるセンセイを今度は助け起こすために手を伸ばそうとして俺は一瞬躊躇った。もしもケガをしてしまっていたら? そんな想像に息を呑んで手を引っ込めてから、こいつにそんな気遣いは必要なかったと思い直して舌打ちをした。
勝手にばくばくと鳴る心臓がうるさい。無意識に胸の辺りを掴みながらもう一度顔を上げると、さっきまで見えていなかった周囲の景色が飛び込んできた。
「なんだこれ」
そう呟きながらぐるりと見渡したそこは深海のように暗かった。とても静かで、何もない。伸ばした自分の手さえ満足に見えないほどの闇の中に自分だけがぽっかりと浮いているような気がしてくらくらする。頭のトゲがひとりでにぞわぞわと逆立っていく。そして、つい今しがた突き飛ばした手袋野郎のことが頭に浮かんだ。心底ムカつくはずの白を探して再び辺りを伺ってみても真っ暗闇が広がるばかりで、神経を逆撫でするあの声ももう聞こえなくなっていた。
「お、おい。センセイ? どこ行ったんだよ、なあ、」
頭から血の気が引いていく。呼吸が浅くなっていく。同じ場所をぐるぐる回るマグロのように視線を彷徨わせながらこぼした一言は笑えるほど震えていた。暗くて訳のわからない空間にこだまする声が惨めったらしくてもっと怖くなった。嫌だ。いやだ。独りぼっちでこんなところにいたくない。誰でもいい。誰か、だれも、いないのか?
「……呼んだ?」
「…………おどかすんじゃねぇよ、クソ野郎」
いよいよ叫び出す寸前、手袋野郎が呑気な声色とともにひょっこりと現れた。他人の気も知らずに穏やかな笑みを浮かべながらこちらへ近づいてくる。次にその面を見たら浴びせるつもりだった罵倒も綺麗さっぱり飛んで、ようやく口にした言葉は普段からしてみればずっと幼稚なものだ。俺はこっちに向けられた左の手を通り越して手首を掴んだ。「君が触るなと言ったのに」? 知るかよ。言葉もなく睨みつけるとセンセイの表情が困ったように揺らいだので、ほんの少しだけ気分は晴れた。
「わかったわかった。わたしが悪かったから、とにかく一度座りなさい」
手袋野郎の空いた方の手がゆっくりと俺の背中へと回る。俺は促されるままに腰を下ろして蹲った。まるで抱きしめられているような体勢で俺のものよりも小さな手がゆるゆると背中を上下するのをただ感じていた。