新米くんと先生が「抱き合って愛を囁かないと出られない部屋」に閉じ込められた話前回までのあらすじ:ドクターを誘拐した不届き者を追って潜伏先と思しき建物に侵入したホットフィックス隊は、手分けして建物内を捜索していた。運よくドクターを見つけ出した新米隊員だったが、それは犯人の巧妙な罠であった。新米隊員は、ドクターとともに部屋の中に閉じ込められてしまった!
「……やっぱりダメみたいですね」
目の前の白い扉を叩くのを諦めた新米隊員は肩を落として呟いた。のっぺりしたドアだったものは何度力を込めて叩いてもびくともせず、無慈悲に握り拳を弾き返すだけだ。扉の形をした壁の切れ目の上の方でこれでもかと光る文字列を眺めながら、彼はため息とともに頭を抱えた。
駅の電光掲示板のようにくるくると流れ、回っている文字はこう言っていた──『抱き合って愛を囁かないと出られません』。なんだそれ。なんだそれ⁉︎ 思わず叫び出したくなるのを堪えて顔を上げる。何度読み直しても、ぴかぴかと踊る文字は変わってくれなかった。
途方に暮れる新米隊員の背を通り越して伸びてきた白い手が、扉にそっと触れる。白く滑らかな布に包まれた細い指がざらついた壁面をなぞった。ひっくり返した手の甲が控えめに扉を叩けば、中身のみっちりと詰まった壁から跳ね返る小さな音が聞こえてきた。
「うーん……。これはもう、ここに書いてある通りにしたほうが早いんじゃないのかい」
「えッ⁉︎ 何言ってるんですか先生⁉︎ だ、ダメに決まってます! そんなの、俺たちをここに閉じ込めた奴らの思うつぼじゃないですか!」
「でも、今できることはもうないんだろう?」
「それは……そうですけど……」
それならさっさと試してしまおう、とドクターが両手を広げるのを、新米隊員は歯がゆい心地で眺めた。日々言葉を交わすほど近く、しかし決して触れ得ない存在であった憧れの人にこんな形で触れるというのは、彼にとって全くの予想外であった。逃げ道を絶つ許しの言葉は青年の純粋な心をいとも簡単に浮き足立たせた。されども得体の知れぬ思惑に乗ることへの嫌悪が浮ついた感情を押し潰す。進むことも退くこともできなくなった彼は、ただ苦虫を噛み潰したような顔で立ち尽くしていた。
「……もしかして嫌だった?」
「い、いえ! そんなことは!!」
表情を曇らせる新米隊員に気がついたらしいドクターは、ぱたりと腕を落として俯いてしまった。先生の両手の人差し指を突き合わせる仕草は、困っていたり落ち込んでいる時のサインだと隊長が零していた気がする。嫌だったわけじゃないんです、と慌てて口にすると、ドクターの萎れた表情が少しだけ和らいだ。
……ここまで来たら覚悟を決めるしかない。新米隊員は努めて神妙な表情を作りドクターの方へ向いた。一瞬だけ抱きしめて、小さな声で囁けばそれで終わりだ。あくまでここから出るためにするだけだから何もないのだと自分に言い聞かせ、彼はゆっくりと手を伸ばした。
「えっと、それじゃあ……、失礼します……!」
「うん」
恐る恐る抱擁の姿勢を作る新米隊員とは裏腹に、ドクターは何事もなくリラックスしているようだった。敢えて広めに取った両腕の隙間を完全に無視して、無骨なベストと上等なスーツがぴったりと密着する。細く華奢な腕が背中に回り、柔らかく抱きしめられる。肩口に寄せられた髪からは花のような香りがした。他に行き場をなくした腕をぎこちなく下ろしてドクターの背に触れると、その薄さと脆さを改めて実感する。
しかしもう一つの条件を満たさない限り扉は開かない。波立つ心はまだ終わりではないという現実を突きつけられていっそう大きく渦を巻いた。
「先生」
「なあに」
「今から俺が言うこと、全部忘れてください……」
「それは君次第じゃない?」
耳元に顔を寄せたまま、ドクターがくすくす笑う。赤くなった顔を見られていたらもっと揶揄われていたに違いない。
早く終わらせてしまおうと口を開いたが、いざ言葉にしようとすると恐ろしく勇気が要るものだと彼は思った。
「先生、好きです」
「うん。わたしも」
(あ、先生、ずるい!)
「……」
「……あれ?」
「開かないな」
「今のじゃダメってことですか……」
「せっかく言ってくれたのにね」
「……」
「…………」
「………………あ、」
「なに?」
「愛して、ます……」
ドクターの動きがほんの一瞬、ぴたりと止まった。それから、新米隊員に抱きついたまま肩を震わせ始める。その表情を確かめることはできなかったが、とうとう堪えきれないとでもいうように短い吐息が漏れるのを聞いた。
「ふふっ! ……い、いや、申し訳ない。あまりに突然のことだったから、驚いてしまったんだ」
新米隊員の腕の中に収まったまま、ドクターはくつくつと笑っていた。穴があったら入りたいとはこのことだ。一秒前までの高揚感は嘘のように消え去ったが、脈を打つ心臓の響きは止まらない。
「でもね、」
ドクターの腕に力が入る。首の後ろに布の這う感触があった。しがみつくような抱擁に目眩がした。
「今の君はとてもかわいらしかった」
カチッ!
「「あっ」」
「開いた! もう開きましたから!!」
扉の方向から聞こえた軽やかな音に弾かれるように、新米隊員はドクターを引き剥がした。ぽかんと口を開けたままのドクターを置き去りにして、一目散に扉の方へと向かう。見ると扉のロックは確かに外れていた。モニターの文字列は【UNLOCKED!】の表記に変わり、愉快にぴかぴかと光っていた。
「本当だ! これでやっと帰れるね」
(わっ⁉︎)
いつのまにか隣に立っていたドクターがモニターを見上げていた。驚いて固まっていた新米隊員をよそに扉の方へ手を伸ばす。慌ててそれを制し、代わりに手をかけた。
「そういえば、『かわいい』が許されるのにどうして『好き』がダメだったんでしょう? 納得いかないんですが! いや、そもそも一体何のためにこんな部屋を……」
新米隊員がドアをつかむ手に憤りを込めて一息に扉を開くと、長い廊下の向こう側からばたばたと駆けてくる音と耳慣れた声が聞こえた。
足をもつれさせた人影を、青年と同じ出で立ちの男たちが取り押さえている。
「聞いておいてあげるよ。わたしに出番があれば、だけどね」