渇きに濡れる「いやあ、水も滴るなんとやらというやつです」
目の前の、全裸の阿呆が言う。せめて替えの下履きくらい身につけろと伝えれば、平然と忘れていました! などとのたまいながら鞄を漁り始めた。
焚き火に照らされる肌は未だしっとりとして、濃い色の髪も腹が立つくらいに艶やかである。傍にいるのが女であれば、ここは閨だった。だがここには、男だけ。それも、端正な顔立ちをした全裸の色男が如何に阿呆かを知っている、男だけ。
こいつは、水に落ちた。というか、舟を探して水辺を歩いていた所を、珍しいスイレンが咲いているのを見つけただの言いながら駆け出して、木の根に躓いて真正面から転けたのである。それで全身濡れ鼠となり、今日の探索を早めに切り上げて祝福の傍らで野営する羽目になっていた。
妙にデカい帽子も、至る所に輝石が散りばめられた装衣も。ひらひらとして貴族的なデザインの手袋も、これといった特徴のない下履きも。全てが水を含んだただの布と成り下がり、木の枝で作った簡易物干し台に吊られ、焚き火の熱を一身に浴びている。
全裸の阿呆――ロジェールを見れば、最低限の布切れを探り当て、素寒貧に様変わりしていた。しっかりと水気を拭き取ったはずのロジェールでさえ、未だ髪からは水滴が落ちている。あいつの服が着られるようになるのは、どう計算しても相当先だ。
「!」
風が吹き、炎がうねる。消えてしまっては大変だと、ロジェールはいつになく火の番に精を出していた。辺りはすっかり暗くなっている。リムグレイブは寒冷地帯ではないが、更ければそれなりに冷える土地だ。
……明日も旅を続けるというのに、風邪を引かれでもしたら困る。
「見苦しい。これでも着ておけ」
肩の留め具を緩め赤い布切れを外し、ロジェールに放り投げた。布の行く末を確認してから、こちらも全ての鎧を脱いでしまう。これ以上ろくでもない光景を見ていては、デヴィンにも悪い。さっさと寝る支度をするのが今夜の最善だ。
「……何をしている。使わんのなら返してもらうが」
「い、いえ、その。お気遣い痛み入ります、が……これって、良いのですか?」
出そうになった舌打ちをすんでのところで押しとどめる。
ロジェールは阿呆だが、聡明だ。芯は強く、誰にだって手を差し伸べる優男。そのくせ平然と嘘をつくし、見破らせない。だというのに本人は人の嘘を見抜くのが得意という、厄介極まりない異端の魔術剣士。
「何がだ。俺の貸せる布はそれくらいしかない」
あえて乱暴に投げつけた赤い布を、ロジェールは上質で破れやすい神秘の布でも扱うように触れている。使い込まれ草臥れた、ただのマントだ。何も怖れずともいいのに、ロジェールは躊躇っている。
ああ、クソ。あまり口を開いてはバレてしまうので黙っていたが、初手でとっくに見破られていた気配がする。
「いつまでデヴィンに阿呆の痴態を見せつけねばならんのだ。いいからさっさと身につけろ。貴公のためではない」
ロジェールはようやく決心したらしい。マントを大きく広げ、汚さないように苦心しながらくるまっていく。俺が常日頃身に付けているものだから、汚れるもなにもあったものじゃないのだが。
「ふふ、ありがとうございます。暖かい」
それっぽくマントを装着したロジェールが、くるりと回る。次いで貴方の真似、などと言いながら聖律の似姿をとった。あいつなりの照れ隠しのようだが、あまりに酷い。つい出そうになった拳を、己を律して押しとどめる。
「俺は下履きにマントのみという、変態じみた格好で律に仕えたことはない」
妙なツボに入ったのか、ロジェールはしばらく一人で笑っていた。
今更貸したことを後悔しても遅い。半裸の変態を放って寝床を整え始めれば、少ししてから、小さく声を掛けられた。
「ねぇ、D。聞いても良いですか」
呆けたり、笑ったり、しおらしくなったり。つくづく忙しい奴である。声の方へ顔を向ければ、再び焚き火の前で足を山なりに折り座っているロジェールがいた。
俺の一瞥を了承と受け取ったらしい。こちらを見上げながら、静かに言う。
「このマントって、誰かに貸したことはありますか」
「…………」
嘘をつくのが下手な自覚はある。かといって、素直に答えるのも癪だった。どう躱したものかと考えるが、一向に案は浮かばない。こういう時、ロジェールならいくらでも言葉が出てくるのだろう。あいつならどう言うかとも考えてみたが、当の本人に小手先が通用するはずもない。
結局は堪えきれなかった舌打ちが、苦々しい答えとなった。
「ふふ、私、自惚れてもいいみたいですね」
ああ、そうだ。非常に腹は立つが、その通りだ。あれはDの鎧の一部なのだから、D以外が身にまとうなど本来ならあり得ないこと。
……もう、充分だろう。吊るされた服はまだまだ水ずくめだが、そんなことは知ったこっちゃない。ひと時でも寒さを凌げたことを、感謝するがいい。
座ったままのロジェールに近づき正面から無言でマントを剥こうとすれば、やけに甲高い声が上がった。
「きゃあ、すけべ! なんです、マントより温かい人肌で温めてくださるとか?」
日も落ち、髭が伸び始めている男の言うことではない。存外すね毛だとかそういった体毛は薄いようだが、舞うように剣を振るう男の体は女のたおやかさとは無縁で、何がどうすけべだというのか。
強いて言うなら――これか。大腿部に残る、紐の跡。ロジェールのズボンに巻き付いているあの紐だ。あれの跡がうっすらと残っているのは、婀娜かかもしれない。
触れたのは無意識だった。ロジェールが大げさに跳ねるので、自分の指が轍をなぞっているのに気づく。正面や外向きの位置は筋肉で硬かったが、内股の方は多少の柔らかさがあった。
ザリ、と音がする。胸元でマントの端を一つにし、握りしめたままのロジェールが後ずさったらしい。逃げられたら追いたくなるのが狩人の性分であることくらい、知っていると思っていたのだが。
右手で紐の名残を鷲掴んだまま身を乗り出し、左手をロジェールの腹と右脇の間へ突き。
「……風邪を引かれたら困るからな」
顔を近づければ、同じだけ離れていく。十秒かけてゆっくりと地面へ追い詰めれば、ロジェールの喉が大きく動くのが見えた。安い挑発を仕掛けてきたのはそちらからだというのに、珍しい反応をする。
飄々とした男の調子が崩れた姿は、どうにも本能を煽った。腹の空く感覚。狩人が獣へと堕ちる錯覚。なんとか言わんと、知らんぞ。
「……D。あの」
下から掠れた声がする。ロジェールは顔を背け、視線だけをこちらに寄越して言った。
「今夜だけ、このマント。私のものってことにしませんか」
「一体何を言い出すんだ。なるわけないだろう」
至極当然の反応を返せば、ロジェールがふっと笑う。これだけのやり取りがあったのだから、あいつの体は既にすっかり乾いているはずだった。
だというのになぜ。肌も、髪も、褪せた瞳も――美味そうな具合に、濡れそぼっているのだ?
「では、これはもちろん貴方のもので。それで、貴方のマントにくるまって一体化している私ごと……貴方のもの、というのはどうでしょう?」
――やはり阿呆だ。勝機も薄いだろうに、見切り発車で応酬を続けるなど。
やられっぱなしなのが気に食わないらしい。こうなったらもう我慢比べである。ロジェールは妙に頑固なところがあるが、俺だって同じだ。こいつは俺がデヴィンを気遣い、ここで折れるのに望みをかけている。
もしくは。
俺が本当に人肌をくれてやるわけないと、高を括っているのだ。
「いいだろう」
「え、」
「貴公が暖まり乾くまで、貰っておいてやる」
想定外の反応に驚いたであろうロジェールが本格的に破獄を図ったが、阻止は容易い。二人の下敷きになっている真っ赤な布の上に体重を掛けるだけで、くるまれた男の逃げる術を奪えるのだから。ロジェールは胸元の戒めを外し、マントだったものを大きな布に戻してなおも逃れようともがく。するり抜け出そうとするので体を押さえて腰に跨ってやれば、行けるところなど。
「……もう、私、充分に暖まったかな~と思いまして」
「そうか。だが、乾いてはいない」
腹筋に触れれば、ぴくりと跳ねた。下から上へ指を移動させれば、肌の湿りが指先を濡らす。長方形の布上でされるがままに潤む体を躍らせる姿は、まるで魚だ。捌かれるのを嫌がって身を捩っているが、持ち主に勝てるわけもなかろう。真っ赤な防寒具をまな板にするも、閨にするも、俺の自由なのだから。
「ッD、でぃー……」
観念したような声が上がる。ここまで弱々しく、困っているのを隠さない音色は珍しい。どこから捌こうかと滑らせていた刃を止めれば、熱を持った視線が波打つ赤に注がれる。
「私、本当に……汚したく、ないんです。貴方の、一部ですから……」
「……そうか」
そこまで言われてしまっては。ロジェールの上からどいてやれば、彼はむくりと上半身だけを起こし、再び赤い布にくるまった。肌は茹だったままだが、水気は布がなんとかしてくれるに違いない、そう思っている。
――まさか、そんな。
「え? D? あの? いい感じに終わりそうだったじゃないですか。なぜ、また、マントを! 私から剥こうとするのですか!」
「汚したくないと言ったのは貴公だ。返せ」
「えっ、ええぇ~……? それとこれとは、ちょっと違うといいますか」
「いいや、同じだ」
ロジェールから赤い布を剝ぎ取る。嫌がる素振りは見せたが、本気の抵抗ではなかった。やはりこの外套に、それなりの畏れがあるのだろう。ロジェールは今一度、そんなに大事なものを貸された意味を考え直すべきであったが。
「ッひゃ!? なんです急に!?」
間の抜けた悲鳴が上がる。無言で担ぎ上げたので無理もない。
「俺の寝床に連れていくだけだが」
「寝床!? この流れで!?」
「マントを汚さなければいいのだろう?」
空いた方の手でマントを鎧の辺りへ放り、混乱したままのロジェールを運ぶ。あ、だとか、う、だとか中身のない呻きが数度聞こえたが、知らん。
「もう替えの下履きはないはずだ。手遅れになる前にさっさと脱ぐのが賢明だな」
「な、」
「貴公の上に跨っていたのだ。分からないとでも思ったか?」
先に整えておいた寝床へロジェールを下ろせば、脳の容量を超えたようだ。爪先から耳先まで全身を余すことなく染め、小動物のように震えている。
「……これは、その。生理現象といいますか」
「そうだな。俺も勃っている」
「たっ、~~!」
蒸気でも出そうな火照り。首筋に触れればやはり、すこぶる暖かい。相変わらず濡れてはいたが。
「貴方……から。勃つ、とか、そのような言葉。なんでしょう、私、聖職者を誑かす冒涜の蛇にでもなった気分です」
「自覚があるのか」
「ああ、これ、やっぱり、私が勃たせたんだ。ええ、どうしましょう。私、うう、D」
混乱に乱れるロジェールの背をさすれば、次第に落ち着きを取り戻す。それで大きく深呼吸をしたかと思えば、そろりと下履きを脱ぎ、荷物をまとめている辺りへ放った。焚き火に照らされる衣類は未だしとど艶めいているので、理知的な判断だ。
「……私だけでは、嫌です」
久方ぶりに全裸となった男が、仲間を求めている。俺はどこぞの阿呆と違って服を濡らしたりはしない。躊躇わずに全て捨て去れば、目の前の蛇とやらは再び喉を鳴らした。
「ねえこれ、乾くまでするってことですよね」
「そのつもりだが」
「……Dってお一人で処理をしたこと、ちゃんとあります? いつ終わるのか怖ろしいのですが」
「基本的に興味がないからな」
「…………」
俺たちが乾くのが先か、火にあたる煌びやかな布が先か。デヴィンには少しだけ、阿呆の痴態を我慢してもらうことにしよう。