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野暮である。
そう思って残った結果がこれだ。
ヒュ―ベルトはわざとらしく大きな舌打ちを響かせたが、それに反応したのは柱の陰で怯えているベルナデッタだけだった。
事の始まりは数十分前に遡る。
星辰の月、25日。
ガルグ=マクの落成を記念する本日、大聖堂では舞踏会が行われていた。
生徒たちだけでなく教師たちも、加え騎士団員までもが今日という日に浮かれている。
ヒュ―ベルトの主たるエーデルガルトもまた、平静を装いつつも浮足立っていることにヒュ―ベルトは気付いていた。
だからこそエーデルガルトが女神の塔へ歩いていくのを認めようとも、彼は後を付けなかった。
しかし、かといって主の帰りを待たず引き上げるのも忍びない。
ヒュ―ベルトは誰と歓談するでもなく一人、まさに手持ち無沙汰と言える時間を過ごしていた。
エーデルガルトが姿を消してから十数分。
ヒュ―ベルトの穏やかな時間を侵害したのは、聞き慣れた耳障りの悪い声だった。
「エーデルガルト! いないのかエーデルガルト!」
ヒュ―ベルトは大きなため息を吐く。
声の持ち主はフェルディナントだった。
大方、エーデルガルトと舞踊の腕を競おうなどと思っているのだろう。
見え透いたフェルディナントの思惑に、ヒュ―ベルトは舌打ちをした。
その音が聞こえたのか定かではないが、多少覚束ない足取りでフェルディナントがヒュ―ベルトの元に歩いてくる。
「ヒュ―ベルト」
「知りませんよ」
「なっ、まだ何も言っていないだろう」
「私とてエーデルガルト様の全てを把握しているわけではありませんので」
フェルディナントがぐ、と息を詰めた。
やはりヒュ―ベルトの読み通りだったらしい。
さて彼はどう出るか、多少の暇つぶし程度にはなるだろうか。
ヒュ―ベルトはフェルディナントの言葉を待った。
「よし、ではヒュ―ベルト」
「はい」
「エーデルガルトがいないのなら、私は君と勝負をしよう!」
ヒュ―ベルトが言葉を返すよりも、フェルディナントが彼の手を引くのが早かった。
予想していなかった動きにヒュ―ベルトはよろけながらも、体勢を立て直しフェルディナントに引かれるがまま付いていく。
強引な案内の行き先は、ホールの真ん中だった。
そのままフェルディナントはヒュ―ベルトの体を引き寄せ、足を運び始める。
「これは」
フェルディナントはヒュ―ベルトの問いかけに答えない。
ただ華麗に足を捌いていく。
先ほどの勝負という言葉から、この足さばきについてこいということだろう。
ヒュ―ベルトは釈然としないものの、ひとまずフェルディナントに体を預けその流れに身を任せた。
下手にここで対立し、すっころびでもすれば悪目立ちどころではない。
既に妙な注目を浴びてしまっているのは、周りの視線から明らかだった。
しかし、だからといってこれはあんまりではないか。
10cm以上身長差があり、しかも背の高い方であるヒュ―ベルトが女性側の足運びを強いられている。
フェルディナントが酔っているのは、明らかだった。
事が済めば、とんだ貴族がいたものだと嫌みの一つや二つ言ってやらねば気が済まない——
ヒュ―ベルトは苛立ちを隠そうともせず、フェルディナントが満足するまで踊り切ったのだった。
それなりの運動量である。
この愚か者の頭も冷めたか、とヒュ―ベルトはフェルディナントの顔を一瞥したが、むしろ先ほどよりも紅潮しているようだった。
「……ひとまずこちらに着席なさっては? 水を取ってきます」
「いいや、むしろ君が座りたまえ」
一体何がむしろなのだ。
ヒュ―ベルトはフェルディナントの主張は意に介さず水を取りに行く、つもりだった。
だが、この酔っぱらいは力加減というものを忘れてしまったらしい。
ヒュ―ベルトの体はフェルディナントの手で無理やり着席させられ、立とうにもびくりともしない始末。
それどころか——
「ぴゃっ」
柱の陰から二人のやり取りを窺っていたベルナデッタが、小さな悲鳴をあげた。
「…………」
フェルディナントが、着席したヒュ―ベルトの頭を抱きかかえている。
そのままヒュ―ベルトのつむじに顎を乗せ、動かなくなってしまった。
流石のヒュ―ベルトも、この行動は予想していない。
とりあえず埋めさせられた胸の中で息を吸えば、悪くない香水のかおりがした。
それなりの時間踊っていたのだ、ゆえに拍動は早くなり多少の脱水で血中の酒成分も濃くなっているのだろう。
悪い酔い方をしているに違いないのだ。
「チッ」
「ひっ」
盛大な舌打ちに返ってきたのは、ベルナデッタの悲鳴のみ。
肝心の酔っぱらいには、微塵も届いていないようだった。
ホールで踊っていた時よりも、強く視線を感じる。
しかしヒュ―ベルトに対し軽口を叩ける生徒は、この場にいなかった。
ヒュ―ベルトがどうしてやろうかと唸り、数分。
彼らに近付く者が、ようやく一人現れた。
「……先生」
ベレス、ヒュ―ベルト達の担任であり、恐らく先ほどまでエーデルガルトと共に女神の塔にいたであろう人物だ。
彼女は普段の二人からは考えられない姿にぽかんとした後、ベレスにしては珍しく、それなりの笑みを浮かべ言った。
「仲が良いね」
「先生!」
悪すぎる冗談に、ヒュ―ベルトが思わず声を荒げる。
それに想定通りの反応するのはやはりベルナデッタだけで、彼の教師はクックと笑うばかりだった。
「エーデルガルトはもう部屋に帰るって。フェルディナントのこと、頼めるかな」
「……連れて帰れと」
「部屋が近いし、それに」
外れなさそうだし、と言うベレスの顔は、ヒュ―ベルトが見た中では一番愉快そうに笑っていた。
身長差があるとはいえ、フェルディナントは170cmを超える上背を持ち、しかも鍛えている。
ヒュ―ベルトが一人で運ぶには、それなりに難儀した。
道中むりやり捕まえたリンハルトに二階まで運ぶのを手伝ってもらいはしたが、そこからフェルディナントの部屋まではまたヒュ―ベルト一人である。
「フェルディナント殿」
ヒュ―ベルトは肩口で眠りこけているフェルディナントに声を掛けたが、うめき声すら帰ってこない。
彼は舌打ちをする気力もなく、ひとまずフェルディナントを自室に運び入れた。
そして彼を寝台に転がしてからフェルディナントの部屋を訪れるが、予想通り施錠されている。
あの酔っぱらいから鍵の在りかを探らないといけないのか、とヒュ―ベルトの気力は加速度的に落ちて行った。
ヒュ―ベルトが自室に戻れば、寝台の上には相変わらずフェルディナントが転がっている。
どうやって起こそうか、いや、誰かから合鍵を貰ってきた方が早いか。
となると一番早いのは事情を知っているベレスに——
「ヒュ―ベルト」
びくり、とヒュ―ベルトの肩が跳ねる。
もはや起きないだろうと決めつけていたため、背後に迫るフェルディナントの気配に気がついていなかった。
彼が咄嗟に暗器を出さなかったのは、ひとえに先ほど嗅いだ香水のかおりのおかげである。
「フェ、」
「ヒュ―ベルト」
フェルディナントが再び後ろからヒュ―ベルトを抱きすくめた。
今度はヒュ―ベルトが立っているため、フェルディナントの腕はヒュ―ベルトの腰に回される。
「……目覚められたのなら、早く自室、に!」
ヒュ―ベルトは一体何が起こったのか、理解に時間を要した。
体が浮いているように思う。
そのまま視界が平行移動したかと思えば、急に反転する。
自分はフェルディナントに抱きかかえられそのまま寝台に押し倒されたのだと、そう理解したのは全てが終わってからだった。
——分からない。
確かに今日は、記念すべき日だった。
"そういうこと"になっている部屋も、少なからず存在するはずである。
しかし、それは現在の状況を肯定する材料にはなりえなかった。
なぜなら、この場にいるのがヒュ―ベルトとフェルディナントだからである。
ヒュ―ベルトは、同性を愛することに否定的ではない。
むしろ教団に支配されたフォドラの観念から逸脱するようで、好ましいことであると思っていた。
だが、自分とフェルディナントが"そう"であるかと問われれば、答えは否である。
どちらかといえば、蛇蝎のごとく嫌いあっているのだから。
「……どなたと勘違いなさっておいでで?」
「ヒュ―ベルト」
いよいよ手詰まりだ、とヒュ―ベルトは思った。
絶対にありえないことなのに、自分を見下ろす橙色の瞳は確かにヒュ―ベルトを捉えている。
それでももう少しあがこうとヒュ―ベルトは自分に似た容姿の人物を探そうとしたが、一人も合致する者は思い浮かばなかった。
「……フェルディナント殿」
別に、今すぐ蹴り上げてしまえば良いのだ。
確かに上を取られてはいるが体が密着しているわけでもなく、手足が拘束されているわけでもない。
だというのに、体はそう動かなかった。
ただ、生娘のように固まっている。
「…………」
フェルディナントは、穴が開くくらいにヒュ―ベルトのことを見つめていた。
いけないと本能で思いつつもヒュ―ベルトが目を閉じれば、視覚を失った代わりに嗅覚が鋭敏になったらしい。
先ほどよりもいっそう強く香水がかおる。
このような得体の知れない状況で自ら視界を封じるなど、あってはならないことだった。
いくら同じ学級の生徒相手といえど相手は反フレスベルグのあのエーギル宰相の息子で、一体腹に何を抱えているかとも——
「ッ、ぐ!」
体に走った衝撃にヒュ―ベルトが思わず目を開ければ、視界に広がるのは一面の橙。
それがフェルディナントの髪なのだと理解するのと。
「ひっ……」
ぞわりとした奇妙な感覚にヒュ―ベルトが声をあげたのは、同時だった。
「ッ……」
完全に酔いが回ったのだろう。
フェルディナントは脱力し、重力に従ってヒュ―ベルトの体の上に落ちてきた。
しかし、その落ちる場所が少々厄介だった。
フェルディナントの髪がヒュ―ベルトの顔にかかる位置、即ちフェルディナントの口元はヒュ―ベルトの首筋に落ちている。
つまるところ彼の寝息、ぬるく湿ったそれは——フェルディナントの呼吸の度に、ヒュ―ベルトの喉元をじわりと濡らすのだ。
不快である。
今すぐこれを叩き起こして、床に蹴落としてしまうべきだ。
理性はそう判断するのに、ヒュ―ベルトの体は上手く動かなかった。
フェルディナントの息がかかるたびに、じっとりと汗ばんでいくように錯覚する。
そも、入浴すら済ませていないのだ。
だめだ、香る。
このような状態は初めてだった。
ベストラの名が聞いて呆れる。
違う、普段であればすぐにでも袖口から短剣を取りだせたとフレスベルグに誓おう。
しかし、相手がフェルディナントなのだ。
「フェルディナント殿……」
頼むから起きてくれ、そう願いを込めてヒュ―ベルトは幾度も彼の名を呼んだが、夜が明けるまでついぞフェルディナントが目を覚ますことは無かった。