学生フェヒュこつりこつりと音がする。
それはフェルディナントの足音だった。
彼は今、いきり立った足取りで女神の塔を登っている。
そう、今日はガルグ=マク落成記念日。
恋人たちの聖地となったこの場所に、フェルディナントは一人で訪れていた。
かつりかつりと音がする。
それはヒュ―ベルトの足音だった。
彼は今、業を煮やしたような表情で女神の塔を登っている。
そう、今日はガルグ=マク落成記念日。
恋人たちの聖地となったこの場所に、ヒュ―ベルトは一人で訪れていた。
——即ち、二人は今。
それ程広くはない螺旋階段を、並び立って歩いている。
彼らは互いに顔を合わせるでもなく、それでも自然と歩幅は合ってしまい、既に塔の上層にいる者達からすれば一組の恋人たちが上ってくるように足音は響いただろう。
しかし顔を出したのは犬猿の仲と名高いヒュ―ベルトとフェルディナントで、誰も予想しえなかった登場人物に塔へ緊張が走る。
彼らはそれを感じ取りながら一言も発さず、外を展望できる場所まで出てきてへりに手をかけた。
ひゅるりと夜風が吹く。
二人は一続きのへりに触れてはいるが、その距離は数メートルはある。
とてもではないが、お互いを待ち合わせて来たような関係には見えなかった。
その場にいたある生徒は思った。
きっと二人とも待ち人がいて、たまたま逢瀬の時間がかぶってしまっただけなのだと。
また別の生徒はこう思った。
今まで誰からの告白も受けなかった二人を射止めた人物は、一体誰なのだろう。
じっとりとした、冬の空に似合わない好奇の視線が彼らに注がれるが、相変わらず二人は黙ったままであった。
それからしばらくの時が過ぎた。
進展のない二人に飽きてその場を去った者、諦めずに彼らの想い人を待ち続ける者。
ヒュ―ベルトもフェルディナントも同じように言葉を発さず、干からびるほどに塔から下を見下ろすばかりであった。
ぴゅうと夜風が吹く。
この長い沈黙を切り裂いたのは、そんなさやけさだった。
くしゅん、とヒュ―ベルトが鼻を鳴らす。
控えめなくしゃみではあったが、星の瞬きが聞こえるくらいに静かなこの場所でそれは、大きな物音であった。
「君の待ち人は、君の体を案じることさえできないのかね」
フェルディナントが、へりに肘をつきながら言う。
その目は相変わらず下の方を見ていたが、やけに明朗なその声は、確かにヒュ―ベルトへ向けられたものだった。
「随分と人を待たせるのは、貴殿の待ち人も同じでしょう」
ヒュ―ベルトもまた、へりに肘をつきながら言う。
彼もまたフェルディナントのことを見ていなかったが、それでもその声は確かにフェルディナントへ向けられたものだった。
「生憎だが、私はここで人を待っているわけではない」
「残念ですが、今日という日、この場所でその言は通用しません。実は私も人を待っているわけではないのですが、貴殿は信用できますかな」
「できないな」
「でしょう」
二人の間を、再び沈黙が覆う。
めっきり進展しなくなった二人に、一組、また一組と好奇心たちが去っていった。
それでも根気強く残っている噂好きだとか、機を窺っている身の程知らずだとか、塔にはまだまばらに人がいる。
夜はいよいよ更けてきていた。
「へっくしゅ!」
二度目の沈黙を破ったのは、フェルディナントのくしゃみである。
ず、と鼻をすする音を聞いたヒュ―ベルトが、呆れたように口を開いた。
「待ち人がおられないのなら、帰られたらどうですか」
「同じ言葉を返そう。貴殿こそ待ち人がいないのなら、エーデルガルトの元へ戻ったらどうだ?」
「私に待ち人はおりませんが、待ち人はおります」
「不可思議なことを言う。しかしそれにも同じ言葉を返そう。私にも待ち人はいないが、待ち人はいる」
そこまで言って二人は、揃って顔を見合わせる。
数メートルの距離はあれど、二人の視線は確かに、まるでぐちゃぐちゃの結び目を作る様に絡んでいった。
「「もしや」」
重なった声に、再びのしじま。
ヒュ―ベルトが目線だけで合図するのを、フェルディナントは渋々といった風に受けた。
「君は……私の待ち人を待っているのか」
「そして貴殿は私の待ち人を待っている、と」
二人はしばし見つめ合って、数度の瞬きをする。
互いを見定めるようなそれは、五度目の開閉を持って終了した。
ぷっと二人が噴き出したのは、同時である。
「我々は、とんだ骨を折っていたようだ」
「ええ、もうそれは、とんだ無駄骨を」
高度なやり取りに、周りは状況を理解できないでいた。
ヒュ―ベルトとフェルディナントは、ようやくお互いの距離を詰める。
先に切り出したのはヒュ―ベルトだった。
「あのエーギル家のご子息ですからね、余程立派な姫君との逢瀬を約束されているのかと存じておりました」
「ふん、あのベストラ家の嫡男へ手を出すなど、どれ程の器量と度胸のある女性かと思っていたのだがね」
「引く手あまただというのに、選びきれませんでしたか?」
「何を言う、引っ張りだこなのは君の方だろう?」
沈黙。
ぱらぱらと残っている観衆もまた、固唾を飲む。
次に切り出したのはフェルディナントだった。
「……黒鷲の学級の彼女だとか、金鹿の学級の彼女だとか」
「……青獅子の学級の彼女ですとか、セイロス騎士団の彼女ですとか」
いま二人の頭の中には、互いに思いを寄せている女性たちの姿が描かれている。
それは一人や二人ではなく、思い出せるだけでも十数人はいた。
しかし彼女らは今日ここで、彼らと逢瀬の予定はないようだった。
「なぜ君がそこまで詳しいのだ。というか私でさえ把握していないのだが」
「貴殿こそ。私も心当たりがありませんし、貴殿の考察に限っては誤りでは?」
「まさか! もしや君は、自分が向けられている視線に気が付いていないのか?」
「一体何の話を? 熱視線といえば、貴殿こそ日ごろから浴びているでしょうに」
びゅう、と少し強めの風が吹く。
宥めるようなそれに二人は一旦落ち着き、もう少しだけ距離を詰めた。
「……気付いておられないのですか? 例えば、昨日の厩舎です。貴殿と馬の並びは映えますからな、それはそれは熱い視線を注がれておりましたが」
「なっ……それには全く気が付いていなかったが、そういう君こそどうなのだ。例えば、一昨日の浴室だ」
「浴室?」
「脱衣所から、蒸し風呂内でも、熱っぽい視線を浴びていたように見えたが……その様子では気付いていなかったようだな」
呆れたように肩を竦めるフェルディナントに、ヒュ―ベルトが憤る。
「でたらめを。私は全く気付いておりませんでしたし、そのように見られるような見目などしておりません」
「君は存外自己の評価が低いようだな。確かにその上背と片目を隠した髪型は、威圧感もあれば不気味さもある。しかし蒸し風呂内で見た君の体は手折れそうなほどに薄く細く、手袋を外した指は長く綺麗で、上気した白い肌に張り付く黒髪の、その隙間から覗く金の双眸のなんと美しいことか。流れる汗を拭う姿は、普段の冷たさを纏う君であろうと血の通う人間なのだと強く意識させ、同じ存在なのだと、手が届く存在なのではないかといった期待を切に抱かせていた」
「な……」
ヒュ―ベルトは絶句したが、ややもすれば負けじと口を開いていた。
「貴殿こそ、馬を撫でる手つきの柔らかさと、ああ……その顔と、ええと、佇まいと、う……全く、貴殿の口はやはり水車のようで」
口論であれば負け知らずのヒュ―ベルトであるが、甘い言葉となれば話は別である。
彼はそのような睦言をささやくのが得意でなかったし、周りの生徒もなにやらおかしな雲行きを感じ始めていた。
ヒュ―ベルトは、別口からフェルディナントを責めることにする。
「貴殿は、差出人の記載されていない恋文を受け取ったことがあるでしょう」
「ふむ……むむ……ああ、数節前のあれか。学級の教室内で、確かに君もいたな」
「あの時貴殿は、私を見ました。結局話しかけてはきませんでしたが、きっと既に着席していた私ならあれを置いていった人物を知っているのではと期待したのでしょうね。ええ、ご期待通り知っていますよ」
「聞いても?」
ヒュ―ベルトは、首を横に振ったし、フェルディナントも大した興味はなさそうであった。
「今更聞いて何になるというのです。匿名でしか愛を伝えられぬような度胸の持ち主に、貴殿は相応しくありませんからな」
「それに関しては同感だな。しかし君は私のことではなく、自分のことをもっと顧みた方が良い。君はいつだって狙われている」
「また戯言を……ん、いや……」
流れがおかしい、その場にいる者達はそう感じている。
当の二人を除いては。
「まさか……この間の食堂で貴殿が取った、不可解極まりない行動も? 貴殿はガルグ=マク風ミートパイを苦手としていたはずです。だというのにわざわざ日替わりメニューであったそれを選んで、あまつさえ普段であれば絶対にしないであろう私の隣を陣取るというあの奇行……何か意味があったというのですか?」
「ああ。君は全く気付いていなかったが、実は三人の女生徒が結託して君を囲んでしまおうとしていたのだよ」
「つまり私を端の席に追いやったのは私の隣を貴殿が確保するためであり、その女生徒らより先に私を連れ出すため、苦手な日替わりメニューの列に並ぶ私の後ろにわざわざ貴殿も続いた……と?」
「ふっ、その理解の速さだけは君を認めねばならないな」
完全に流れが変わったと、観客たちはそう思った。
先ほどまでの静けさが嘘のように、二人の会話は滑らかに続く。
「狙われているといえば、他にもあるぞ。君、数週間前に突然体調不良で授業に来れなかったな。エーデルガルトは過労で倒れたのだと言っていたが、私は違うと思っている。恋心の有無は関係なく、君は命をも狙われる立場だろう。毒でも盛られたのではないか」
それを聞いたヒュ―ベルトはハッとした顔をし、僅かに逡巡した。
彼は口を噤む選択をしたようだが、フェルディナントはヒュ―ベルトの小さな躊躇いを見逃さなかった。
裏があると感じたフェルディナントが白状するように言えば、ヒュ―ベルトは目線を外しながら言う。
「……それに関しましては、貴殿に同じ言葉を返しましょう。ええ、確かに薬が盛られていたのです。貴殿の紅茶に」
予想外の返答に、フェルディナントが肩を揺らした。
「朝食の時です。貴殿が席を外している間に、女生徒が何やら細工をしておりましてね。明らかに不審でしたから、私の物と取り換えたのです」
「確かにあの日、君は珍しく紅茶を飲んでいた。今日は雨でも降るのかと思ったから、よく覚えている。つまり君は、何かが盛られているであろう私の紅茶を口にしたと?」
「ええ、捨てるには不自然でしたし、ある程度の耐性もありますから、一体どんなものを仕込んだのかという興味もあり、毒味をしたわけです。それで、まあ、その……」
やはり言い淀んでしまうヒュ―ベルトにフェルディナントが続きを促せば、彼はため息とともに真実を吐き出す。
「興奮剤、と言いましょうか。命に別状はなかったわけですが、その、授業へ出るには些か不味い状況となりまして。あの女生徒は貴殿にそのような薬を仕掛けて、一体どうするつもりだったのでしょうね?」
言い切ってからうっそりと笑うヒュ―ベルトの瞳は、フェルディナントを見ているようで見ていなかった。
彼の視線はひと匙のからかいすら含まず、表面だけが熱っぽくて、その骨はひりついた怒りでできている。
フェルディナントはそれを意外に思いながらも、臆することなくヒュ―ベルトの両肩を掴んだ。
予想外の接触に、ヒュ―ベルトが首をかしげる。
二人の距離は気が付けば、周りの恋人たちと変わらない程度に近付いていた。
「私に薬を盛った臆病者ではなく、今ここにいる私を見たまえ」
フェルディナントのそれは矢の様であり、糸のついた針の様でもある。
鋭く尖った視線は絡まる余地もなく、正確にヒュ―ベルトの中心を貫き、縫い留めた。
瞳の奥を見透かされたヒュ―ベルトは居心地の悪さを感じたが、フェルディナントの熱視線こそ、彼が瞳を閉じるのを許さない。
「興奮剤を盛ってきた相手を、臆病者とは。フェルディナント殿の貞操観念が、実に気になるところです」
「少なくとも、今日私との逢瀬を果たせていない時点で臆病者だな。私に気があるのなら、今まさにここで私と会話をしているだろう」
「左様ですな」
それでは事実、星辰の節二十五日、恋人たちの聖地たる女神の塔で二人会話をしている君たちは一体何なのだ。
その場にいた者達はみなそう思ったが、誰一人何も言わなかった。
きっとあの二人にとって自分たちは壁だとか石ころだとかに等しい、この場で気に掛ける必要などない有象無象であるのだと、あわよくばと機を窺っていた者たちまでがその残酷な光景に打ちのめされている。
びゅうと、今宵何度目かの夜風が吹いた。
「流石にもう逢瀬には遅すぎる時間です。互いに得る物のない、寂しい夜となりました」
「この夜に女神の塔で巡り会った男女は必ず結ばれる運命にあると言うが、私たちではな」
ヒュ―ベルトはそのような噂だっただろうかと一瞬悩んだが、彼の認識と大差はなかったので特に訂正もしない。
周りの者たちは違うぞという圧を送っていたが、もちろん彼らに伝わるはずもなかった。
「では、折角ですし願い事でもしていきますか。ここで交わした恋人との誓いは必ず成就するとかいう、あの浮ついた噂です。きっと女神の無力さを証明するいい機会となりましょう」
「ほう、私と何を誓おうというのだね」
「そうですなぁ、今夜はお互い相応しい相手を据えているのかという牽制に来たわけですから、それに関するものが良いのでは?」
フェルディナントが腕を組んで唸る。
ヒュ―ベルトもまた、言いだしておきながら丁度いい提案が出来ず頭を捻らせていた。
観衆はそれを固唾を飲んで見守っている。
もう二人の逢瀬がどういった方向に着地するのか誰にも分らなかったし、それでいて相変わらず強い興味を引く内容に、塔は今宵一番の静寂を迎えた。
夜風も息を潜める、宵闇の空。
ややあって、その粛然たる聖地に響いたのは、心得たようなフェルディナントの声だった。
「ではこうしよう。もし互いの具眼に足る相手を見つけられなければ、互いをその相手とする」
それを聞いて、ヒュ―ベルトは目を見開く。
周りの者たちも、犬猿の仲である二人を捕まえて一体何を言っているのかと、ヒュ―ベルトと同じ気持である、と思っていた。
思っていたのだ、が。
彼らは信じられないものを目にした。
ヒュ―ベルトがゆるゆると口元に笑みを浮かべて、眦を僅かに下げたまま頷いている。
それは誰がどう見ても、同意であった。
「クク……なるほど。我らが伴侶になることなどあり得ませんから、貴殿の知る噂も、私の知る噂も、その両方で女神の力を否定するばかりか、逆説的にお互い良き相手と巡り合えるという必然の願掛けというわけですか」
「ああ、帝国のため尽力する我らは、それに見合った伴侶を据えるべきであるからな。悪くないだろう?」
「ええ、実に。存外良い夜となりそうではありませんか」
「ふっ、そうと決まればこの夜に誓おう。互いの具眼に足る相手を見つけられなければ、互いをその相手とすると」
「それでは私も、誓わせていただきましょう。この夜に」
二人は手を組むこともせず、ただ互いを見て笑う。
口にすら出さず彼らの誓いは終わったようで、もう用は済んだとばかりに階段へと歩き出した。
上機嫌に連れ立って降りていく姿は、誰がどう見ても恋人同士のようである。
しかし彼らは、そうではなかった。
だが彼らは、恋人同士がする誓いを先ほどここで済ませていき?
その場にいる誰もが、混乱していた。
一体何を見せられたのかと胸が焼ける思いだし、噂話のネタとしてはややヘビーで、すんなり信じる人間の方が少ないだろうそれは彼らにとってなんの収穫でもない。
びゅるりと、強い風が吹いた。
すっかり冷えてしまった夜に、かつての好奇心たちが退散していく。
女神の塔は再び、静けさを取り戻したのだった。