さくらのころ 足元におちていた木の影が揺らぐのをみて、高杉はうつむけていた顔を上げた。薄雲のかかった淡い色の空を背景に、うす桃色の花びらが舞っている。風に巻き上げられたそれらは、つい先ほど箒で掃いたばかりの地面にひらひらと着地する。花びらの行く先を見届けた高杉は思わず、整ったかたちの眉を寄せて、息を吐いた。キリがないな、と思う。あと数刻もすれば、掃いたあとなど見る影もなく、ちいさなうす桃色で埋めつくされてしまうのだろう。真面目にやっているのが馬鹿らしくなってしまう。
一緒に庭掃除の当番をまかされていたはずの白い少年――銀時なんて、通りがかった猫を気まぐれに追いかけて行ったきり戻ってこない。これ幸いとばかりにどこかで寝こけているに違いない。気の抜けるような、ゆるんだ寝顔をうっかり思い浮かべてしまって、ムカムカとしたものが胸に込み上げるのを感じた。
高杉は持っていた箒をその場に立てかけてしまうと、おもむろに足を踏み出した。銀時をさがしに行くのだ。さがし出して、叩き起こして、残りはぜんぶ押しつけてやる。常人より気配に敏いらしい銀時は、不用意に近づくとすぐに目を覚ましてしまうから、慎重に、そうっと近づいて。――銀時は、どんな顔をするだろうか。あのあかい瞳を飴玉みたいにまんまるにして、白いふわふわの毛を猫のように逆立てて飛び上がる銀時の姿が思い浮かんだ。無意識に緩みかけていた口元に気づいて、慌ててくちびるを引き締めた。心做しかはやくなっていた歩調が、終いには駆け足になる。
胸いっぱいに吸い込んだ空気はあたたかくて、やわらかい。花の蜜のような、甘い匂いを微かにはらんだ、春の空気だ。なんとなくふわふわと浮ついたような気持ちになるのは、春のただ中にいるからだ。そうに違いない。
アイツのことは関係ない。ふとした瞬間頭のなかに滑り込んでくる、わた毛のような頭をしたヤツのことなんて。ぜんぜん、一切、関係ない。
はたして、銀時はよく陽のあたる縁側できもちよさそうに寝息をたてていた。存外見つけやすいところにいたので、拍子抜けしてしまう。銀時は身を隠すのがやたらと上手い。もっとさがし回るはめになるかと思っていたのだ。
柱にもたれ、庭の方に足を投げ出すような格好で眠る銀時の腕には、彼が日頃から肌身離さず持ち歩いている刀が大事そうに抱えられている。ふともものあたりには、白い大きな猫が、ふてぶてしくとぐろを巻いていた。猫をかまっているうちに一緒に寝てしまったのだろう。
高杉はひとつ深呼吸をしてから、できるだけ音を立てないよう、そろそろと足を踏み出した。
一歩、二歩。
――大丈夫、起きない。
三歩、四歩。
――まだ、平気だ。
さらに慎重に歩を進めて、ようやく十歩。
とうとうほんのすこし手を伸ばせば触れられるような距離まで近づいても、銀時も――それから猫も――目を覚まさなかった。しらず、安堵するような息が漏れる。
なんとなく、すぐに起こしてしまうのも惜しい気がして、高杉は銀時の傍らに、そっと腰をおろした。
さて、どうしてくれよう。
呑気に眠りつづけている銀時の顔を、じ、とみつめる。
常日頃からいかにも眠たそうに半分ほどがおりてしまっているまぶたは、ぴったりと閉ざされている。ふせられた、髪と同じ色をしたまつげが昼下がりのあたたかなひざしをやんわりとはね返して光るのをみて、高杉はふいに胸を突かれたような心地になった。
(――コイツ、まつげまで白いんだな)
いまさらになって、そんなことが気になった。何度も目を合わせているはずなのに、これまで大して意識したことがなかったのは、淡い色彩でえがかれた銀時のからだのなかでとりわけ鮮やかな色をしている、あの瞳の方に目を奪われてしまうからだろうか。
音もなくあたりに降りそそぐやわらかな温度の陽光は、彼のもつ色彩をより際立たせるようだった。まつげだけでなく、その肌も、髪も、仄かな光をおびて、きらめいて見える。
きれいだと、そう思った。
高杉は無意識に身を乗り出していた。甘い匂いが鼻腔をくすぐって、銀時の顔がぐっと近づく。
色の薄い頬が、ひざしにあたためられて微かに紅潮している。あのちいさな花びらの色にそっくりだった。
少年らしくまろい頬の輪郭を下へ下へと辿っていくと、わずかに綻んでいるくちびるに目がとまる。ひかえめに朱をのせたそこは、鏡でうつして見た自分のものよりも、幾分厚みがあるように思われる。ふっくりとしていて、見るからにやわらかそうだ。
――触れて、みたい。
にわかに降って湧いた衝動の意味を噛み砕く前に、からだは勝手に動いていた。吐息が鼻先にふれて、甘い匂いがいっそう強くなる。開いたままの視界が、銀時でいっぱいになって、そして――、
にゃあ。
幼子にも似た鳴き声が耳に入って我に返った。泡を食ってほとんど仰け反るようにからだをはなす。
いつの間にか目を覚ましていた猫が、高杉をじっとみつめていた。なにもかもを悟ったかのような、ガラス玉にも似た瞳に静かに見据えられて漸く、自分が何を仕出かしたのかを理解した。くちびるにはたしかに、やわらかな感触が残っていた。――つまり。
(……嘘だろ、銀時に、……キス、しちまった――?!)
さっと血の気が引いていくような、はたまた、からだじゅうの血液が沸騰しているような、奇妙な心地がした。心臓がどくどくと早鐘を打っている。それからいくらもしないうちに銀時のまつげがふるりと揺れて、思わず息を詰めた。
――まだ。まだ起きてくれるな。
身じろぎもせず、半ば祈るような心持ちで銀時の様子を見守ることしかできない。しかし、そんな願いも虚しく――今の今まで目をさまさなかったのがふしぎなくらいではあるのだけれど――閉ざされていたまぶたがゆるゆるとひらいていく。
まもなくのぞいたあかい瞳を二度、三度と緩慢に瞬かせた銀時は、未だ荒れ狂う高杉の内心をよそに、いかにも呑気そうなおおきなあくびをした。まなじりに滲んだ涙を手でぬぐい、ひざの上で銀時に釣られたようにあくびをしながらのびをしている猫に目線を落とし、最後に妙な姿勢のままかたまっている高杉に目を向けた。ぱちん、と視線がぶつかる音を聞いた気がした。
「……ンだよ、高杉。人の顔ジロジロ見やがって。みせもんじゃないんですけどォ? 金とんぞコノヤロー」
こちらに気づいた途端に憎まれ口を叩きはじめた銀時に、咄嗟に何も言い返せなかった。何食わぬ顔で軽口を返せるような余裕などなく、かと言って、馬鹿正直に寝てるてめぇに見蕩れて思わずキスしちまったんだ、なんて白状するのも、それはそれでどうなんだ、と思う。――いや、そんなのは言い訳だった。よくないことをしてしまった、という自覚はある。黙っているなんて、もっとよくない。
それはわかっている。わかってはいる、けれども――、
「オイ、聞いてんのかよてめぇ、高杉。高杉くーん? ……おまえなんか顔赤くね? 熱でもあるんじゃ、」
ぐるぐると思考を巡らせていた高杉は、微動だにしない高杉をいぶかしみ、じりじりと距離を詰めてきていた銀時に寸前まで意識が向かなかった。
「――――ッ!」
パン、と乾いた音があたりに響いて、あかい瞳が、驚いたようにまるくなる。熱をはかろうと目前までのばされていた銀時の手を、反射的に叩き落としてしまったのだ。
「……ってェなテメー! 人がせっかく、」
「……ンでもねェ」
「ァン?」
「なんでもねェよ!!!!」
しまった、と頭のすみで思いこそすれ、一度勢いづいてしまえばもう止まれなかった。ぱみぱちと目をしばたかせて、戸惑うような顔をした銀時を尻目に、高杉は来た道をずんずんと引き返していく。当初の目的など、とうに頭から抜け落ちていた。
にゃあん。
銀時の膝の上でことのなりゆきを見守っていた猫は、ひと声鳴いて銀時の顔を一瞥すると、音もなくするりと庭へ降り立ち、それきり振り返りもせずに庭木の影へとからだをすべり込ませた。
あとには、赤く腫れてしまった手の甲をぼんやりと眺めている銀時だけが残された。
「――なんなんだよ、アイツ。……意味わかんねー」
ぽつりと滲むように落とされた声を聞いたものは、銀時自身をおいて、ほかにいない。