よく晴れた夜に星が青白く散っていた。うだるような暑さもようやく和らいで、風が涼しい頃だった。夏の名残りの一等星、ベガやアルタイルもいずれ見納めとなるだろう。神代一人は帰路を歩む足を止め、しばし夏空に輝く大三角を仰ぎ見た。
星座をひとつひとつ結ぶことはできないが、あれがそれぞれどういう星かは知っている。七夕の牽牛星と織女星。その間を渡るはくちょう座。今年の七夕はあいにく天気が崩れていたが、夏の間はよく見える。
もう短冊に願いを書いたりはしていない。出掛けた先で飾りを見つけて懐かしく思うことはあれど、診療所ではいつもと変わらない夜だった。夕食時にそういえば、と話題になる程度の行事。わざわざ笹をもらってきたことも、外に出て星を見たことも、今となってははるか昔のことのように思える。
けれど、神代一人は止めていた足を再び動かした。星明かりが落ちる暗がりをひとり歩きながら、それでも、在りし日々のことは忘れがたいものとして大事に胸にしまっている。あれはもう何年も前のこと。織姫と彦星は会えなかったんですかねぇ、と呟く男とふたり雨空を見たことも、ふたりが会えたからこそ喜びの雨が降るという説の話をしたことも、いまだ胸のうちでは褪せていない。
ゆったりとした歩みで診療所へと帰りつく。思い出は穏やかなもので寂しさを呼び起こすものではないものの、もう聞くことのないおかえりの声をどこかに探しそうになる。ただいま、と告げて開いた扉の向こう側。あってほしいと願ったところで叶いはしない情景は、正しく叶わないままに神代一人を待っていた。
「あ〜っ、先生、ちょうどいいところに!」
白衣の背中。若い声。片手に電話の受話器を握って振り向く男は高品龍太郎だった。未熟ではあるが村に馴染んでよくやっているその姿は、何やら懐かしいものがある。まだ三人での暮らしをはじめたばかりだった頃。電話で聞いた患者の状態から緊急性を判断し、飛び出していった男のことを思い出す。
「何があった、龍太郎」
あの時のように何か助けが要るならと、神代一人は素早く診察机に近づいた。こちらから駆けつけるべきかオペ室を開けておくべきか。あるいはこのまま電話で指示をするべきか。あらゆる可能性を浮かべるが、そんな医師としての思考回路は続く龍太郎の言葉で大いに乱れることになった。
「えっと今ですね、富永って人から電話が──って先生?」
「……富永?」
ほとんど奪うように受け取った受話器を耳に当て、たったそれだけを口にする。もっと連絡を取り合おうと言ってから、これがはじめての電話だった。龍太郎がもぞもぞと居心地悪そうに場所を譲り、見守る視線もやがて外される。気づかいに感謝するどころかろくに気づきもしないまま、電話越しに伝わる声に耳を傾けた。
「あっもしもしKェ? お出掛けだったんですね、おかえんなさい。今のが預かってるって言ってた研修医の子なんですよね? K先生いるかなって訊いたら神代先生のことっスか……? って言っててなんだか新鮮だな〜って感動しちゃいました」
「……ああ、龍太郎と言うのだが、あいつにはずっと秘密にしていてな。この村のことも、俺のことも、つい最近ようやく打ち明けたばかりなのだ。だからまだ、ただのド田舎の医者だという気がするのだろう」
「あっはは、Kがただの医者に見えるってんなら大物になりますよ」
「フフ……そうだな、そういうところが面白い奴なのだ」
他愛のない会話は淀むことなく続いていく。思いがけずにもらえたおかえりの言葉に胸がじわりとあたたまった。電話は片手に持ったまま、マントの留め具をそっと外す。身軽になった身体で椅子に腰掛ける。龍太郎が聞き耳を立てているようにも感じたが、富永と交わす言葉はとろとろと耳に響いて心地いい。薄暗いバーに誘われて、とろりと酒に酔った夜もそうであったと唇が笑みの形になる。
「……それで? お前が用もなく掛けてくるとは思えんが」
「え〜? オレとKの仲で寂しいこと言うじゃないですか」
電話の向こうの富永も、もう白衣は脱いだ頃だろうか。声の他に雑音は聞こえてこないため、掛けてきているのが院長室かそれ以外かは分からない。村ではあまり見ることのなかったスーツ姿も今ではすっかり様になっていると知ってはいるが、Tシャツに着替えくつろぐ姿を久しぶりに見たいとも思う。
「まぁ……確かに用などなくとも構わんが、今日はそういうわけではなないだろう?」
「んんっ……!」
富永が言った仲というのがどういうつもりのものであれ、少なくとも、そのくらいのことは話せば分かる仲だった。ことさら明るく振る舞って、自分の話よりもこちらの話を聞きたがる。こういう時の富永は、何かしら抱えているものがあると思って間違いない。
電話という顔が見えない通信手段がどうにももどかしくはあるが、神代一人はのんびりと富永が言葉を選んで口にするのを待っていた。年相応より少し背伸びした威厳ある院長の姿がすっかりほどけて見えなくなって、いつまでも若々しい富永が眉を下げている顔が思い浮かぶ。言ってくれれば何でもする、と告げたくなるのはいつもこんな時だった。
「それがその、実はKにひとつ相談がありまして」
「なんだ。それなら早くその内容を言ってみろ。俺とお前の仲なのだ、今さら遠慮することはないだろう?」
「は〜Kってばほんと頼もしい。ただはじめに言っときますけどこれかなり個人的な相談で、医者としてKに何かして欲しいとかじゃないんでそこは安心してください。難しい症例の患者も経験不足で困ってる医師もウチにはいませんから大丈夫です」
「……そうか」
富永の言葉をゆっくりと噛みしめる。オペの依頼があるならと、わずかにあった緊張と、会いに行けると思ってしまった気持ちを静かに沈めていく。
そして、では個人的な相談とは何だろうかと意識が向いて、未知への好奇心から問いかけた。少しの不安はどきどきと鳴る心音のなかに溶けて消える。富永の言うことならば何だって、という思いは結局のところ変わらない。
「それがですね、オレ今度お洒落しなきゃならないことになりまして」
「それは……ついに見合いでもすることになったのか」
「──は?」
ひや、と夏の終わりにあるまじき寒気が首筋を一瞬這ったような気がする。思わず受話器を耳から遠ざけるが、そこからかすかに聞こえてくるのは富永の笑う声だけのようだった。龍太郎がちら、と視線を向けてくるのに何でもないと首を振る。あらためて姿勢を整え受話器を耳に押し当てると、富永の笑いまじりの声が聞こえてきた。
「ちっがいますよKェ、そういうんじゃなくてパーティーです。あ、もちろん婚活パーティーとかでもないですよ? まだまだオレなんかが呼ばれていい場か分かりませんが、医者として呼ばれたパーティーです」
声は快活に聞こえるが、本当に心から笑っていると受け取っていいものか。神代一人はうむとだけ返して続きを促した。余計なことを言ったらしいと気づいた時は、さらに余計なことを言わないようにと努めることが最適解だと分かっている。いまだ産毛が立ったままな気がする首筋をそっと手のひらで覆いながら、富永の相談事が本題に入るのを黙って待っていることにした。
「それでですね、そのパーティーはドレスコードがあるって話なんですよ」
「……」
「オレもね? なんだかんだいい歳ですし院長ですし、そういうフォーマルな服も分かりますし用意できます」
そこはいいんですよそこは、と言って富永はふぅと息を吐く。それは何かしら難問にぶち当たった時によくする仕草であったため、少し興味がわいてきた。正直なところファッションについて相談されても困るのだがと無言のままに思っていたが、あの富永がわざわざ電話をしてくるほどに悩むドレスコードとは、いったい何だと言うのだろう。
「花なんです」
「……花?」
「そう、スーツは何でもいいからとにかく胸に好きな花を挿すように、って指定されてるんですよ」
見えはしないが富永はきっと眉間に皺を刻んでいる。あるいは唇を尖らせ天井を仰いでいるのかもしれない。昔この診察室でよく見た姿は今もおそらく変わらない。そんな悩める男に声をかけてやりたくなるのもやはりあの頃のままだった。
「なるほど、花か。それは分かったが、それで俺に相談と言うのは……まさか俺に選べということか? お前を飾るための花を?」
「でへへ、そうでーす」
「……本気か」
間違いのないよう言葉ではっきり確かめながら、こちらの眉間にも皺が寄る。けれど軽い口調であっさりと肯定を返されれば、ふっとゆるんだ唇から笑みがこぼれてしまっていた。天井を仰ぎたい気分を抑えきれずに上を向く。背を椅子の背もたれに預けると、脱いだままのマントがそこにあるのを思い出した。フフ、とまたひとつ笑みがこぼれ落ちる。
「俺に花の相談をしようなんて物好きは、お前くらいだよ、富永」
Kの一族の者として、花の知識もそれなりには持っていた。たとえば水仙や鈴蘭や、彼岸花やトリカブト。身近にあって毒のある花は多くあり、キノコと同様そこにあるだけなら害はないが、誤食があるとそれは恐ろしいものだった。口にした時の症状の出方や村近辺での植生は、なるべく把握するよう昔から教えられている。
とはいえここでそんな話をしても仕方ない。求められているのはKという医者の力ではないのだと、思えばはじめに言われていた。神代一人は困ったな、と目を伏せる。閉じた瞼の裏の富永は、いつものさっぱりとした白衣姿で胸に飾る花のイメージは浮かばない。
「しかしお前自身が好きな花は何かなかったのか? そちらでは花を見ることも多いだろうし、何より近くに花屋がいくつもあるだろう」
最近は生花の持ち込みは控えてもらうようになってきたが、病院の見舞いといえばやはり花と果物が定番と言っていいだろう。それに退院の祝いに花束を、というのも病院ではよくある風景のひとつだったに違いない。村で野に咲く花や畑に生る野菜の花を見るばかりでいる男より、富永の方がよほど多くの花が身近にある。
それでもなお、自分では決められないのかと疑問をそのまま口にした。そもそも装飾としての花ならば、それこそその道のプロを頼ってみてもいい。本人が言っていたとおり、そうやって着飾る場にも慣れてきた総合病院の院長なのだ。それくらいの伝手はいくらでもあるだろう。
「いやぁ、オレはほら、そういうのってあんまりこだわりなくてですね。だからなんて言うんでしょう……ううん、ふふ、いいやもう、言っちゃうか。うん、ここで言っちゃうのでいいですかKェ、ちゃんと聞いてくださいよ?」
富永はそこでいったん言葉を切ると、思わせぶりに少しの沈黙を挟んできた。電話越しでは静かな呼吸は拾えない。胸が妙にざわつくのを感じながら、神代一人は受話器を持つ手に力を込めて返事をする。
「ああ、ちゃんと、ひと言ももらさず聞いている」
「んっふふ、それはどうも。それじゃ、俺の告白聞いてくださいね。え〜……俺は、別に好きな花なんてないんです。でもだから、それなら俺が選ぶんじゃなく、好きな人に選んでもらった花をつければいい。そうすればそれが俺の好きな花だ、と思ってあなたに電話をしたんです」
言ってる意味、ちゃんと伝わってますよねぇ、と伺う富永の声がした。きっと、何か愛おしいものを見るように、甘く目元をゆるめている。そういう調子の声だった。つられて甘い心地に酔わされる。
「富永……」
ほぅ、と吐息がこぼれ落ちた。なぜと考えるまでもなく、今すぐに、この身体を抱きしめてほしい気さえする。
「俺は」
冬の終わりにやってきた、春の芽吹きのようなあたたかさを持つ男。大人になってからは忘れたつもりだったのに、驚き、戸惑い、喜び、笑い、そういったものを色鮮やかに思い出させてくれた男。
「俺が選んでいいのだな?」
「ええ、あなたに。あなただけに選んでほしいです」
「……なら俺は、お前に似合う花というならひとつしか思い浮かばない」
はじめの印象だけなら春の花を選んでいただろう。けれどもう、神代一人は富永という男のことをもっと深く知ってしまっていた。
その翳ることのない眩しさも、触れるほど溶かされそうになる熱も、吹雪のなかとははるか遠いところにある。それは夏の光で輝きで、たくましくてうつくしい。弾けるような命の色は、地にありながらも太陽と同じ色をしている。
「ヒマワリだ」
「ヒマワリかぁ」
「……不満か?」
「いやいやそんなことはないですよ。ただちょっとでっかくないですか? あれオレの顔くらいあるでしょう」
富永は巨大なヒマワリを想像してか、うーんとひとり唸っている。本当に、花にはあまり興味がないらしい。
「品種によってはもっと小さいものもあるぞ」
「あっそうなんです? じゃあ決まりだ、オレはヒマワリにしますね! K!」
喜色が滲んだ明るい声。それこそヒマワリの似合う、あるいはヒマワリと競うような笑顔が電話の向こうにはあるのだろう。会いたい、と思う心を胸のうちで転がして、受話器から伸びたコードを指の先で弄ぶ。めずらしい富永からの電話も終わりがもう近い。そんな予感がひたひたと水かさを増していく。
「ああ、よかったら写真を送ってくれ」
想像だけでも似合うことは分かりきっている。けれど叶うのならば、その姿を見せてほしかった。きっとまた、何度目か分からないけれど惚れ直す。そんな未来もすでに見えていた。
「ふふ、何言ってるんですかK」
「?」
「あなたには直に見てもらうに決まってるじゃないですか」
「……なに?」
驚きが、喜びが、ぱちぱちと弾けていく。夏はサイダーの季節でしょ、と笑った男の汗のにおいを脈絡もなく思い出す。指に絡んだ電話のコードが幻の声を届けたのでないならば、富永はそのパーティーの日に会う約束をしてくれた。透きとおるサイダーではなく金に煌めくシャンパンが並ぶ華やかな場に、一緒に行こうと言ってくれた。
「それは……なんだ、同伴か?」
「んひひ、それもいいんですけどねぇ。言ったでしょ、医者として呼ばれたパーティーなんだって。いいですか、当代のドクターK。俺が呼ばれてあなたが呼ばれない理由がどこにあるっていうんです」
たぶん一也くんにも声が掛かってるんじゃないですか、とあっけらかんと告げられて、なんだそれは、と呆れた声が出てしまう。主催は誰だと問うたが最後、聞き慣れた財団の名が飛び出しそうでやめておく。そういうことをする人たちだ、と恩人である親子をぼんやり思い出すが、そこはもう考えたところで意味はない。
ふぅ、と吐いた息はそのまま空へ消えていく。電話の向こうの富永は、だからKもお洒落しましょうね、なんてのんきなことを言っている。
「俺の花はお前が選んでくれると思っていいだろうな」
「いいですよぉ、オレのチョイスでKが文句言わないなら」
悪びれずに請け合う声はずいぶん愉快そうだった。酒を飲んでいるわけでもあるまいに、調子よくふふんと笑っている。
「でもそうだなぁ、オレはヒマワリですからね」
「む。どういう意味だ?」
「んや、意味というか、ただなんか、Kが選んでくれたのがヒマワリだったの嬉しいなって思うんで。この嬉しさをKにも〜ってなると気合を入れなきゃなわけですよ」
ぐっと拳を握る姿が見えるようだった。だから、お前が選んでくれるのなら何であっても嬉しいよ、という言葉は胸のうちに留めておく。悩みに悩んで選んでもらうのも、それはそれで嬉しいのだから仕方ない。
「そんなにか?」
「そんなにです。だってほら、ヒマワリってずっと太陽を向いている花でしょう? オレと一緒で一途な花をKに選んでもらえたの、なんでしょう、年甲斐もなく駄々をこねたいくらいに嬉しいです」
富永は遠く夢見るような声で言う。口にした言葉とは裏腹に、落ち着いた大人の声が耳をくすぐった。肉声よりも少しくぐもっているものの、脳を甘く揺らしてくる男の声。
「フフ、それはそれは。どんな駄々をこねるのだ?」
「それはもう! 今すぐあなたに会いたいっていう駄々ですよ」
「……そうか」
それならこちらの方が、と浮かんだ言葉は何とか音になる前に飲み込んだ。今ここで、若い研修医に聞かせるのはどうかと思うはしたない欲に苦笑する。カーテンの向こうは夜の世界ではあるのだが、内側は、まだ業務を残す診療所という仕事場だ。
「なぁ富永。パーティーの日には、雨が降るかもしれないな」
暗い夜空と煌めく星に思いを馳せて呟けば、はえ、と間の抜けた声が返ってくる。一年に一度、と天に決められたふたりではなかったが、会えるのが嬉しいことは星のふたりと変わらない。神代一人は何でもないと言いつつ窓を見る。富永がいるのも同じ空の下なのだ。早く会いたい、と小さく紡いだその声は、星へは届かずともS県の彼方には届いたことだろう。